「桜乃桜乃〜っ!!」
 雑踏の中でも良く通る少女特有の甲高い声が、桜乃の背中に突き刺さった。
 元気いっぱい、弾けるようなパワーに溢れた、聞き間違えようの無い声。
 桜乃は親友の姿を頭に描きながら、振り向く。
「一緒に帰ろ!」
 振り向いた先に居たのは、案の定、桜乃の親友の朋香だった。
 走ってきたのか、肩を上下させて僅かに息を乱しながら言う朋香に、桜乃はうん、と頷いた。
 朋香が息を整えるのを待って歩き出すと、朋香がやおら口を開く。
「聞いてよ桜乃!今日ね、リョーマ様の筆箱拾っちゃった!移動教室だったのかな?あたしの目の前でポトって落としちゃったの。んで拾ってあげたらね、リョーマ様が”センキュ”って言ったのよ〜!もう今日ってば何ていい日なのかしら!ねぇ、桜乃!!」
 身振り手振りを交えて桜乃が口を挟む間もなく一気に話す朋香に、桜乃は苦笑する。
「良かったね、朋ちゃん」
「それもこれも、日頃の行いがいいからよね!神様ありがとう〜!!って感じ!」
 手を組んで空を振り仰ぐ朋香の歓喜に満ちた横顔に笑顔を向けながら、桜乃は心がちくりと痛むのを感じた。
 一緒に喜んであげたいのに、喜べない。
 嬉しそうな朋香の顔を見ていると、胸の中心に正体不明の圧迫感が襲ってくる。
 嫌だ。気持ち悪い。
 桜乃は少しだけ、朋香に分からないように目を逸らした。



『二律背反 -Love&Friendship-』



 朋香とは、青学に入学する以前からの、桜乃にとって唯一無二の親友だった。
 桜乃は青学の入学式を思い出す。



 ―――人。人。人。
 見渡せど見渡せど、無秩序に行き交う人々の群れしか見えない。
 他に見えるのは…蒼い空と、白い太陽と、薄ピンクの靄――桜。そこから舞い散る花弁がはらはらと視界を横切り、遮る。
「じゃあ桜乃、また後で」
 花弁の滝の向こうから、母親はそう言った。
「あ…」
 思わず声が漏れたが、呼び止めたところで「一緒にいて欲しい」とでも言うというのか。
 桜乃はなんだか情けなくなって、唇をきゅっと噛んで言葉を無理矢理飲み込んだ。
 その僅かな時間のうちに、母親は人ごみの中に消えていった。
 一人ぽつねんと残されて、桜乃は改めて左右を見回す。
 そこに居るのは見知らぬ人ばかり。
 同じ髪の色瞳の色肌の色、同じ言語を話しているはずなのに、異国の地に迷いこんだような錯覚に陥る。
 新しい制服は、体に馴染んでいないせいか、まるで枷に嵌められたように重い。
 その重みは、まるで自分が人形にでもなってしまったかのような錯覚に陥らせる。
 自分の体が自分のものでないみたいな感覚。何か変。恐ろしい。
 知り合いのいない心細さに、それが一層拍車をかけ、桜乃はおろおろと視線を彷徨わせた。
 満開の桜。桜吹雪。人。人。人。見知らぬ人。
(私は…どうしたらいい?)

 ―――早く、誰か来て。
 自分でもあまりに他力本願で情けないと思ったが、桜乃の心は、見知らぬ他人に囲まれている心細さを克服する為に、既知の人物の登場を欲していた。
 この場合の”誰か”は、桜乃にとっての知人、である。
 青学の教師である祖母のスミレでもいい、ここに入学することになった旧知の友人でもいい。とりあえず桜乃が知っている人。桜乃を知っている人。
 でも、その中でも、一番来て欲しい”誰か”―――それは―――。
(朋ちゃん…)
 桜乃が一番の親友の名を思い浮かべた、当にその時。
「桜乃ッ!!」
「!!」
 あまりのタイミングのよさに驚き振り向く間もなく、名を呼ばれた次の瞬間には人一人分の重みが背中に加わっていた。そして桜乃と同じ制服に包まれた腕が背後から回ってきて、桜乃をひし、と抱きしめた。
「桜乃!やっぱり桜乃だ!!」
「あ…」
 桜乃はようやっと振り向いた。肩越しに、会いたいと願っていた人、朋香と目が合う。
 その途端、朋香はくりくりとよく動く茶色い目を丸くした。
「なーに?なんでそんな辛気臭い顔してんの?今日から晴れて中学生なんだよ!しかも一緒の学校になれたんだから!もっと楽しそうな顔しなよ!!」
 言って朋香がぽんぽん、と桜乃の肩を叩いた。
 張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、桜乃は朋香の方に向き直って、思わず抱きついた。
「朋ちゃん〜」
 すがりつくように朋香の髪の中に顔を埋める。
 すると、朋香がいつも使っているシャンプーの香りが鼻腔を掠めた。
 朋香と会うのはそんなに久しいわけでもないのに、すごく懐かしい気がした。
「淋しかったよぉ」
「あ〜、はいはい」
 朋香は、相変わらずなんだから、と苦笑気味に桜乃の頭を撫でた。
「まあ、アタシも淋しかったんだけどねー。早々に桜乃に会えてよかった!あ、そういえばクラスも一緒だよね!」
「え、本当?」
「ホントホント!今年一年、またヨロシクね、桜乃!」
 桜乃はほっと胸を撫で下ろした。
 中学生になったからには、新しい環境で、新しい友人を作らなくてはいけない。
 簡単なことのように思えて、比較的人見知りをする桜乃にとっては、それは結構大きなプレッシャーだった。
 でも、朋香と一緒ならきっと大丈夫。そんな気がした。


 それからどれ位経った頃だろうか。1週間も経ってないかもしれない。まだ桜が少し残っていたから。

 何はともあれ、朋香と一緒のクラスというのは予想以上に桜乃にとって大きな武器だったようで、入学早々学校に慣れた。
 もちろん広い学内の事全てを把握したわけではない。移動教室で迷って上級生に行き方を尋ねるのもしばしばである。
 しかし、初めて顔を合わせたクラスの大半の人たちとも、一通り喋ってみた。既に何人かと友達になった。
 総合して考えてみれば、桜乃にとって、これ以上ないくらい上々の新学期だった。

「…はっ!」
 桜乃はがばっと跳ね起きた。
 きょろきょろと辺りを見回すと、もう既に終礼が終わっているようだった。教室に残っている生徒は10人に満たない。
 どうやら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
 クラスメートに寝顔を見られていたかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしいので、なるべくそれは考えないようにして、桜乃はぐいっと伸びをして上半身の筋を伸ばす。
 眠っている間に気道に溜まった呼気をはふ、と吐き出しながら、桜乃は唐突に思い出した。
(そういえば…)
「…あの男の子、今頃どーしているのかなぁ?」
 あの男の子、とは、桜乃が少し前に偶然出会った同い年の天才テニスプレイヤーで、桜乃が道を教え間違えた為に試合出場叶わず、失格となってしまった哀れな少年である。
 失格にさせてしまったお詫びにジュースを奢ろうとしたが小銭が無く、結局桜乃の方が奢られてしまったり、桜乃が高校生の選手のテニスウェアにジュースを引っ掛けてしまって難癖つけられたところを助けてくれたり――そういえば試合会場に行く際の電車の中でピンチに陥っていた桜乃を助けてくれたのも彼だった。
 目付きが鋭く、突き放したような物言いは、それまでの桜乃が苦手とする人種のそれだったが、不思議と桜乃は彼に対して苦手意識を抱かなかった。
 それもこれも、まるで不器用の見世物市のようにみっともないところを見せ続けた桜乃をなじったり罵ったりする事なく、それとなく飄々と助けてくれるようなところが、桜乃にとって心地良かったのだろう。
(きっと不器用な人、ううん、照れ屋なんだ――)
 桜乃はそう思った。
 そう思うと、なんだか心の奥がくすぐったくなって、自然に笑みがこぼれた。
 あの日から、ほんの少し、ほんの少しだけ、彼に好意を抱いている自分がいる。
 だって不器用この上ない自分が、テニスなんかをやろうなんて思い始めたのだから。
 彼のいる世界に興味が湧いた。
 彼が熱中するものがどんなものか、知りたくなった。
 自分がどこまで上手くなれるかは分からないけど、彼と同じことをしていたら、いつかどこかで、将来が、夢が交わるかもしれない。
 そうしたら―――いつか会えるかも。
(なんて――そう簡単には行かないだろうけど)
 そう、流石にそこまで大袈裟には考えていない。
 でもやはり、桜乃はなんとなく彼に会えるかもしれないと期待を抱いてしまう。
 その期待が裏切られた時、自分が傷つく程度を少しでも和らげる為に、桜乃は『簡単には行かない』と自分に言い聞かせる。
 桜乃は自分に言い訳をする自分がなんだかバカらしくなって、自嘲めいた笑みを浮かべた。

 暫く後、部活に向かうべく、桜乃は身の回りの荷物をまとめ始めた。
 ちょうどその時、朋香が教室の後ろの方で突然声高に叫ぶのが聞こえた。
「桜乃!!」
 桜乃が振り向くと、朋香は整然と並べられた机の間をすり抜けながら駆けてきた。そしてやおら黄色い声を上げる。
「今すんごいカッコいい人とすれ違っちゃった!ねっ、見に行こっ!!」
「えぇーっ、私はいいよ」
 少々好意を抱いている少年の夢想に耽っていた直後だったこともあって、事実、桜乃は朋香の言葉に殆ど興味が湧かなかった。
(あの男の子―――『リョーマ』君以上にカッコいい人なんて、いないもん)
 桜乃はそう思って初めて、実際に自分が思っている以上に、彼に―――『リョーマ』に好意を抱いているらしいことに少々驚き、苦笑した。
(一度会っただけなのになぁ)
「そう言わずにさ、見に行こうよ〜!!絶対桜乃も見て良かったって思うわよ!」
「えぇ〜…」


 結局押しの強い朋香に押し切られて、桜乃は外に連れ出された。
「本当にかっこよかったんだからぁ」
「ふーん」
 桜乃は生返事を返す。やっぱりあまり興味は無い。
「ねぇ…朋ちゃん、私、テニス部に入部届持っていきたいんだけど…」
「そんなの後よ後!!彼のファンクラブ作っちゃおうかな!グフフ」
 そんなの後よ、と一蹴されて、桜乃は入部届の紙を持ったまま苦笑した。
「あっ、確かこっちに行ったわ!!」
「つ、つけたの?」
 朋香のミーハーぶりはいつものことなのだが、毎回毎回朋香の行動力には舌を巻く。
 桜乃は感心しながら、朋香が指差した先を辿った。
「あれ?そっちってテニスコートみたいだよ」
 そう、テニスコートだった。
 男の人が何人かコート内にいる。試合などはしていないみたいで、学ラン姿の人もいる。
 近寄ってみると、大きい人や小さい人が数人いた。
 ジャージを着ている人は…部員だろう。体操服を着ている人は、きっと仮入部員――つまり桜乃たちと同い年の子達なのだろう。
「キャー、桜乃っ!いたいた!!」
「どこどこ?」
「ほらっ、あのガクランでラケットもってる人!!」
 桜乃は朋香の声に従って、学ラン姿の人を見た。一人だけ黒い服だから、すごく目立つ。
 でも、黒いのは服だけじゃなかった。
 漆黒の髪、漆黒の目。
 人工芝の緑のコートに浮き上がった、影。
 その影に焦点が合って、はっきりとした輪郭が見え、顔の細部まで認識できるようになって―――桜乃は驚愕の声を上げた。
「リョ…リョーマ君!?」


「さ、桜乃、知り合いなの!?」
 朋香が、桜乃よりさらに驚いたように目を見開く。
「う、うん、まあ…」
「いーな、いーな!」
 羨望の篭もった眼差しで朋香が声をあげるのを、桜乃は呆然と聞いていた。いや、聞いてなどいなかった。朋香の声は、桜乃の右耳から左耳に綺麗さっぱり流れてしまっていた。まさかこんなところで会えるなんて、思ってもみなかったのだ。
 桜乃は熱に浮かされたように呟く。
「この学校のテニス部に入ってくるスゴイのって……リョーマ君のことだったんだ…」
「あ、ゴリラみたいなヤツ!」
 朋香も思い出したようだ。いや、厳密には、朋香が先に”この学校のテニス部にスゴイのが入ってくる、きっとゴリラみたいなヤツだ”と言ってきたのだったが。
「あんな美少年だったら、ゴリラだろうがなんだろうがドンと来いってのよね!」
「………なんかソレ、違う気がする」
「違わないわよ」
「……………」
 あまりにもきっぱり言い返された桜乃が返す言葉を無くしていると、朋香は祈りを捧げるように手を組んで、コートの方へ視線を転じた。
 丁度、ぱーん、とラケットが硬球を叩く、鈍いが芯のある音が高空に響く。
 朋香はきらきらと輝く瞳でテニスコートを――否、リョーマを映しながら言う。
「すご〜い!テニスも上手いなんて。応援よ、応援」
「う、うん」
 桜乃もコートに目を移した。
 見やると、リョーマがぽーんぽーん、と硬球を足元で弾ませていた。
 見覚えのあるその動作。
 確か―――。
「あっ、ツイストサーブ」
「え?」
 朋香が声を上げると同時、リョーマのラケットが唸りを上げた。
 打球が鋭く変化して、リョーマの相手(背の高い、なかなかにカッコイイ人である。3年だろうか?)の顔面に向かって跳ね上がっていく。
 パァァン!
 甲高い音が鳴ったかと思うと、相手の人の手からラケットが吹っ飛んで、カランとコートに落ちた。
「あー、ビックリした」
 本当にびっくりしているのかしていないのかよく分からない、間の抜けた声で言うリョーマの相手。
「すっごい!何あのサーブ!!つい…?」
「ツイストサーブ」
「そう、それ!!凄いわ、あんなこと出来るなんて!素敵〜ッ、リョーマ様!!」
 本格的に朋香のミーハー魂に火が付いたと見えて、とうとう『様』付けになったことに、桜乃はクスクスと笑う。
 が、それも束の間、次の瞬間、朋香の言葉を聞いて、桜乃の表情は凍て付いた。
「あたし、本気でリョーマ様のこと好きになっちゃったかも」


 桜乃は、一瞬自分の耳を疑った。
「…何て?」
「え?だから、リョーマ様のこと好きだ…って、何度も言わせないでよ〜、恥ずかしい」
 朋香は顔を真っ赤にして、ばんばんとめいいっぱい、桜乃の背中を叩いた。
 かなりの力で叩かれてよろめくほどだったのにも関わらず、桜乃は背中の痛みを感じなかった。
 月並みな表現だが――目の前が真っ暗になったような気がした。
 自分が地に足をつけてるのか、地が足に吸い付いてきているのか、唐突に襲われた目眩のせいで分からなくなる。
 動悸は警鐘のように速く鳴っているのに、全身の毛穴から汗が噴き出そうなほど表面は熱いのに、何故か…体の芯が冷たい。
「あ…」
「どしたの、桜乃」
「え…」
 桜乃は問われて初めて、自分が何らかの語を発したのだと自覚するに至る。
「あ…何でもないよ、うん」
 桜乃はそう言って、目を伏せた。
 何故か、朋香の顔をまともに見れなかった。
「朋ちゃん、リョーマ君のこと、好きなんだ…?」
 途切れ途切れに問う。目を伏せたままで。
 そして言ってから、何を今更、と思う。
 先ほど朋香自身が己の口から言ったではないか。『本気で好きになった』と。
 確認するまでも無い。
 朋香もリョーマに好意を抱いたのだ。
「うん。ヒトメボレかな」
 朋香は恥ずかしそうに微笑んだ。
 桜乃はその瞬間、顔面の筋肉が強張るのを感じた。


 自分がこんなにもリョーマに惹かれているなんて思わなかった。
 朋香がリョーマを好きだと言った瞬間―――何故かすごく悲しくなった。
 同じ人を好きになる。
 それは二人ともが、リョーマの話題で和気藹々と心弾ませる会話が出来る可能性を秘めている。なのに悲しい。
 それは、結局何人の人から好かれようと、リョーマはただ一人の人間なのであって、リョーマと両思いになれる人物もただ一人であるからである。
 リョーマと両思いになれるただ一人の人物の座を巡って、これから先、朋香と争わねばならないんだろうか。
 争いの先には、必ず勝者と敗者がいる。
 勝者と敗者の間には優劣という溝が横たわり、対等な今の友人関係は望めないように思える。
 いや、友人関係の断裂の結果を待たずとも、その争いの過程で、朋香と自分の二人は、幾度傷つき、幾度傷つかねばならないんだろう。
 朋香を傷つけるのなんて絶対嫌だ。桜乃はそう思った。
 唯一無二の親友を傷つけるのなんて、天地がひっくり返ろうとしたくない。

(私が黙ってればいいんだ…)
 桜乃はきゅっと垂らした腕の先の拳に力を入れた。
 桜乃の心の内を朋香に知られさえしなければ、衝突は避けられる。
 でも。
 自分の心を偽るのか。
 それはとても――悔しかった。
 でも。
 それで朋香が傷つかないならば。
 でも。
 親友に隠し事をしてしまうのは、おかしいんじゃないだろうか。
 それはつまり、自分が朋香のことを本当の親友だと思っていないということになりはしないか。
 隠し事なんて、無い方がいい。
 そう思っている自分は、甘いんだろうか。
 でも。
 内緒にする事で朋香に辛い思いをさせないのなら、少々の自分の心の痛みなど、気にならない。
 気にならないはずだ。
 でも。でも。でも。
 
「そういえばさ…」
 朋香が何かを思い出したように桜乃に視線を投げた。
「桜乃、この前カッコイイ子に助けられたって言ってたよね。リョーマ様とどっちがかっこいい?」
 桜乃は顔をあげた。
 僅かな遅滞と逡巡。
 その間に桜乃の心を駆け巡った葛藤は数知れない。
 が、結局、決意を篭めて、桜乃は少し息を吸い込んだ。
 植物が芽吹く春に相応しいまろやかな空気が肺に満ちる。
「…リョーマ君も素敵だけど、前会った子の…方が――」
 限界だった。
 これより先の言葉が、声にならなかった。
 語尾が分解して消える。
 朋香は、桜乃の声が途切れたことにさして不審がることもなく、普通に飲み込まれた言葉の先を補って答えた。
「ふーん、その子の方がかっこいいってワケだ。桜乃ってば、そんなかっこいい子を独り占めなんて、羨ましいぞ!このこの〜」
 朋香は桜乃に抱きついて頭をぐりぐりと小突いた。
「や、やめてよ朋ちゃん〜」
 桜乃はいつも通り、声をあげながら、複雑な表情で笑った。
 これで良かったんだという思いと、もう後戻りできないという思い。
 言ってしまった言葉は、取り消す事が出来ない。
 取り返しがつかない。
 桜乃は、これから先、朋香を裏切りながらリョーマを想い続けなければならない。
 なんだか無性に悲しかった。

 そして同時に湧き上がる、黒い感情。
 もし先に自分がリョーマを好きだと言えていたら、自分がこんなに苦心する事はなかった。
 堂々と、リョーマを好きだ、と言える朋香が羨ましい。
 何も考えず、何に妨げられる事もなく、ただただ好きだといえる朋香が―――少しだけ、憎い。

 桜乃はきゅっと唇を結ぶ。
 自分が清純だとか思っていたわけじゃないけど、自分がこんなにも嫌な人間だとは思わなかった。
 純粋に朋香の恋を応援できない。苦しい。
 でも、応援しなくちゃならない。親友だから。私の好きな人は『リョーマ君』ではなくて、『偶然会って偶然助けてくれた、天才テニス少年』なのだから。
 偽りの感情。
 偽りの友情。

 ごちゃまぜになった自分の内面が、痛い痛いと悲鳴をあげるのを、桜乃は無理矢理押さえ込んだ。
 朋香のために。

 朋香が笑顔でいてくれるのなら、自分は笑顔の仮面を被ってもいい。



「やーめた。もういいや」
 リョーマの相手がそう言った。
「この辺で勘弁しといてやるよ」
「きゃーっ、やったぁ!!いこいこ!!」
 朋香がウィンクしながら桜乃の手を引く。
 桜乃は微笑んだ。


<了>


※あとがき※