『38℃』



(ん………)
 瞼の裏に眩い光を感じて、重たい瞼をゆっくりと開ける。
 顔を横に向けると、窓から白い陽光が射しているのが目に入った。
(そっか、今昼なんだ)
 改めて壁にかかっている時計を見やると、丁度12時を過ぎた辺りだった。
 昼休みの合図か、どこかの学校のチャイムが聞こえてくる。
 天気がいいから布団を干しているんだろう、布団を叩く高らかな音も聞こえる。
 両方とも、それほど近くもなく遠くもなく、適度に心地良い音色で閑静な昼の住宅街に響いていた。
 朝や夕方の、登校や帰宅に急ぐ人々の喧騒、遊びに勤しむ子供らのはしゃぐ声は今は無く、カチコチと時を刻む秒針の音が、冴え冴えと部屋を支配する。
「…静かだな…」
 ふっと呟く。
 すると、少しだけひりひりと喉が痛んだ。
 熱した鉛を埋め込まれたようにぼうっと熱い頭に自分の声が鈍く響いて、頭痛と耳鳴りがじわじわと押し寄せる。その不快感に眉を顰めながら己の手を額に当ててみたが、自分の手自体も熱を帯びているものだから、自分の熱が下がったのかどうかは良く分からない。でも、自分の体を襲う数々の不快を考えると、多分この風邪はまだあまり回復してないと思われた。
「はぁ…」
 病人独特の熱く湿った吐息が、自然に口から漏れた。
 それも当然の事だろう。もうかれこれ3日もベットから起き上がれない状態が続いているのである。
 不二はごろんと寝返りを打つ。
(今頃みんなどうしてるだろう………。英二は…寝てるんだろうな。今日のこの時間――四時間目の授業は国語だし。手塚は相も変わらずちっちゃい子が恐がって逃げ出すような仏頂面で授業聞いてるだろうし、タカさんや大石は真面目にノート取ってるだろうな…。乾は…11組は今日は調理実習…だっけ?人外なモノでも作ってみんなから責められてたりして)
 そこまで考えて、不二は思わずクスクスと笑った。喉を抜ける空気に刺激されて、軽く咳き込む。
 枕に顔を押し付けるようにして咳が収まるのを待ち、呼吸を整えてから身体を反転させて仰向く。
 静寂に満ちた部屋に自分の呼吸音が吸い込まれ、拡散されては消えた。
 そしてまた静寂が訪れる。
 どこまでも続くかのように錯覚しそうな、無音ではないのに静かな部屋。
 そこに身を置いて、心地良さと淋しさがない交ぜになったような、奇妙な気分になった。
 不意に、朝、家を出る前に「一人で大丈夫?」と尋ねてきた姉の言葉が脳裏を掠める。
 その言葉を聞いたときには、風邪の具合を心配してのことだと思ったのだが、もしかしたらこういう気分になることを懸念しての言葉だったのかもしれない、と不二は思った。
 不二はもぞもぞと布団に潜り、そっと目を閉じる。
 光を内包した薄い闇が訪れて、だるい身体が休息を求めてくる。
(ご飯…もういいや。お腹すいてないし…)
 そんなこと考えているうちに、不二の意識は眠りの中に落ちた。



 次に不二の意識が戻ったのは、夕方の事だった。
 それは、昼の時のように日光の眩しさに起こされたわけではない。
 浅い眠りの中で何かの気配を感じた気がして、ふっと唐突に目が覚めたのだった。
「あ、起きた?」
「……?」
 今日は、母親は前々からの予定で父親の単身赴任先に出向いている。姉は仕事に行っているはずだし、弟は学校で寮暮らしをしているのだから、この家には不二以外に誰もいるはずがない。
 なのに自分以外の声がするとはどういうことか。
「具合はどう?少しは楽になった?」
 言葉と共に、声の主が読んでいた本をぱたん、と閉じた。
「お、大石?」
 不二は驚いて半身を起こす。
「ちょっとうなされてたみたいだから心配してたんだけど、大分顔色よくなったみたいだね…ああ、でもまだ起きない方がいいよ」
 不二の額から落ちた濡れタオルを拾い上げ、大石は言う。
「まだ熱はあるみたいだし」
 不二はワケが分からず唖然としていたが、数瞬後、ハッと我に返る。
「な…なんで大石がウチにいるの?」
「ああ、それは…」
「大石お待たへ〜…ってあれ?不二起きたの?もう大丈夫?」
 大石の言葉を遮って部屋に入ってきたのは、英二だった。
 英二は白い清潔そうなタオルを何枚か手に持っていた。どれも丁寧に搾られている。
 それを見て初めて、不二は先ほどまで自分の額に濡れタオルが置かれていた事に気付いた。そんなものは用意していなかったはずなのに。
 ということは、先ほど上半身を起こした不二の額から落ちてきたタオルは、大石や英二が不二の為に用意してくれたものだったのだろう。
 英二は足で部屋の扉を閉め―――あまり行儀がいいとは言えないが、両手が塞がっているのでしょうがない―――、そのタオルをサイドテーブルに置き、ベットの傍らにちょこん、と正座した。
「来た時咳とか鼻とか結構辛そうにしてたから、心配してたんだよー」
「…えっと……なんで二人がウチに?」
 なかなか晴れない疑問を、英二と大石を交互に見やりながらもう一度根気よく尋ねる不二。
 不二の問いに、英二が口を開いた。
「朝、学校行く途中で不二のお姉さんと会ったんだよ。今日も不二が風邪で休みなんだけど家には不二以外誰もいないし、自分の帰りも遅くなるから、もしよかったら帰りに様子を見に行ってやって欲しいって言われてさ、鍵、渡された」
 言って英二は、ちゃり、と音を立ててズボンのポケットから不二の家の鍵を取り出した。
「さすがに赤の他人のオレが受け取っちゃまずいんじゃないかなーって思ってそう言ったんだけど、信用してるから大丈夫、とか言われちゃってさ。まあオレとしても、元々溜まったノートとかプリントとか持ってくるつもりだったから、別に良かったんだけどね。でもなんか他人の家に鍵を開けて入るのってドキドキした」
「まあ、そういうワケだ」
 大石はそう言って立ち上がる。
「にゃ?どこ行くの、大石」
「体温計取ってくるよ。不二、何処にあるか分かる?」
「多分一階の…暖炉の側にある電話の棚のとこ」
 不二がそう答えると、分かった、と言って大石は部屋を出ていった。
 ぱたん、と音を立てて閉まった扉を見ながら、不二は自分を心配して家に寄ってくれ、あまつさえ寝ている不二を起こさないようにしながら、濡れタオルまで用意してくれた大石と英二に心底感謝した。
 そして更に―――英二に鍵を渡したという自分の姉に思いを馳せる。
 姉は自分のことを心配してくれていただけでなく、おそらくは一人部屋の中で鬱々としている不二の気晴らしになるように、友人に鍵を渡して手回ししてくれたのだろう。
(やっぱり姉さんには…敵わないなぁ)
 そう思って、不二はふっと笑った。
「気分はもういいみたい?」
 英二がそんな不二の様子を見ながら首を傾げた。
 不二はこくん、と頷く。
「うん、大分いいみたい」
「そっか、良かった!…あ、そーだ」
 英二は思い出したように手を打って、ごそごそと自分の鞄を探る。
「なんか色々預かってんだよ。不二の病気お見舞い品」
「お見舞い品?」
「そう。えっと、タカさんからリンゴ。本当は特製わさび寿司作ろうかって思ってたらしいんだけど、胃に重くて食べられないかもしれないからって。こっちはおチビ。のど飴」
 英二の手から銀色の包装紙に包まれた小さな固形物がころん、と転がり出た。
「わざわざ1個だけにしなくてもいいよーなもんなのになあ」
 失くしちゃうかと思った、と愚痴る英二に、
「越前らしいよ」
 と言って、不二は笑みを浮かべた。
「あと桃からも預かってるんだ」
「桃から?」
 英二はがさがさと音を立てながら、自分の鞄の中から薄っぺらい紙袋を取り出した。
「本みたいだけど」
「本?」
 不二は怪訝に思いながら、駅前の本屋の紙袋の封を開けた。
 薄さや重さから想像するに、何かの雑誌のようだった。
 中身を取り出してみて―――不二は勢いよく布団に突っ伏した。
「どした?不二」
「……………」
 不二は上布団に顔を突っ込んで無言のまま、英二に紙袋の中身を手渡した。
 それは外見から想像していた通り雑誌だったが―――。
「うーん、こういう意味だったのか〜。『男の病気見舞いと言ったらコレでしょう!』とか言ってたのは」
 英二はぽりぽりと頬を掻いた。
 手の中にあるのは、あまり健全そうではない写真集。
「そういえば、風邪で身も心も弱っている先輩にささやかな贈り物、って言ってたなぁ」
「…桃の奴…」
 疲れたような声に振り返ると、大石が救急箱を持って立っていた。
「こういうものを見舞いの品に選ぶなんて、度胸があると言うのか、なんと言うのか…」
「…ま、まあ…折角くれたんだし、一応有り難く貰っておくよ」
 不二は無理矢理作り笑いを浮かべて言った。
「ところで不二、ご飯ちゃんと食べてる?」
「ああ…えっと今日は……お昼御飯は面倒臭かったから、食べてない」
「ダメじゃん!ちゃんと食わなきゃ治るもんも治らないよ?」
「――かな?でもあんまりお腹空いてないし…」
「だーめ!食べなきゃ駄目!!よし、オレが栄養たっぷりの雑炊、作ってあげる!台所借りるよ!」
 英二は、不二の返事を待つ間もなく、勢いよく立ち上がって走って部屋を出ていく。
 ばたばたと足音を立てて走り去る英二の背中に、大石の声が突き刺さる。
「英二!病人がいるんだから、もうちょっと静かに…っと、ゴメン、大声出して」
「ううん」
 すまなそうに謝る大石に、不二は首を振って微笑んだ。
「今日はありがと。大分気分が晴れたよ」
「そうか、良かった。早く風邪が治って学校に来られるようになったらいいな」
「うん」

 家で過ごす静かな平日の昼下がり。
 それは貴重な体験ではあったが―――。
(やっぱり学校の方が飽きなくていいや)
 不二がそう言うと、大石は、そういえば…と昨日今日の学校での出来事を話してくれた。
 やっぱり、楽しそうだった。


<了>




※あとがき※