『星に願いを?』



 7月になり、夏休みに入る前に少しでも仕事を片付けておくために、手塚は生徒会と部活の間を休む間もなく行ったり来たりしていた。
 肩で颯爽と風を切りながら、手塚は早歩き気味に廊下を通り過ぎる。
(今日は体育祭の総括だな。そうだ、そろそろ前期生徒会決算報告書の作成のために資料の整理を始めなければいけないか。会計に言っておかなければ…。ああ、そういえば文化祭実行委員四役の選出もそろそろやらなければいけない時期だな)
 手塚が己の手帳を片手で器用に繰りながら、そんなことを考えていた、丁度その時だった。
 左手側の窓、つまり教室に面しているガラス窓ががらり、と突如開いたかと思うと、何かがそこから差し出された。
 ばふっ。
「!?」
 考え事をしていた手塚の頭頂部に、何かがさがさとした質感のものが触れた…いや、触れたというよりも、手塚の頭がその物体の中に入ったという感じだった。
 視界が緑色の破片で埋まる。
「なっ」
「手〜塚っ」
 おもちゃを見つけた子供のような弾んだ声が、驚いている手塚の耳に飛び込んだ。
「菊丸か」
「へへ、当たり」
 がさがさと音を立てて、目の前の物体が退いた。
 声の方を振り返ると、教室の中から英二が、そこそこの背丈がある葉の細い植物を持って、それをばさばさと上下に振っていた。
 ぷん、と植物特有の青臭い匂いが漂う。
「笹か」
「そーだよ。今日7/7、七夕でしょ?」
 言いながら英二は身を乗り出して、手塚が開いていた手帳の7/7の日付を指で指した。
「近所のスーパーで配ってたから貰ってきた。ねえ、部室に飾ろうよ。みんなで短冊にお願い事書いてさ」
「別に構わんが、後始末はちゃんとお前が責任を持ってしろよ」
「はいはい、分かりましたよー」
「分かってるのか、本当に?…大石に任せたりするんじゃないぞ」
「ぎく」
「…ぎく?」
「あはははは、細かいところは気にしない!今からそんなだと手塚、若ハゲしちゃうよ!」
 英二はばんばんと手塚の背中を叩きながら、取り繕うように笑う。
 そして一頻り笑った後、ああ、と言ってから、英二は手に持っていた笹を肩に凭せ掛け、空いた手で鞄の中から短冊を一枚取り出した。
「手塚、今日は生徒会でクラブに来れないんでしょ?だったら今ここで書いちゃおうよ、願い事」
 筆箱をガサゴソと漁って、英二は油性ペンを取り出す。
「これ使って」
 手塚はペンと短冊を手渡され、しばし沈黙した。
 色々頭をひねってみたが、これといって願い事らしき願い事が思い浮かばない。
「…これといった願い事は無いんだが」
「にゃ!?マジで!?なんか無いの?なんか」
「何か、と言われても…」
 手塚は考え込むように視線を斜め下に向ける。
 目を丸くして心底驚いていた英二は、しばし唖然と口をあけていたが、ハタと我に返って口を開く。
「たっ…例えば、全国大会出場とか、全国制覇とか、色々あるじゃん?」
 そう言うと、手塚は僅かに眉間に皺を寄せて答える。
「そういうのは自分自身の力で成し遂げるものだから、星に願うものではない気がしてな」
「じゃ、じゃあ”無病息災”とか”家内安全”とか…って、なんかジジくさいけど。あ、”家族全員平和で幸福に過ごせますように”とかでもいいじゃん」
「まあ…そういう類のものならまだ抵抗は少ないんだが」
「抵抗?」
 願い事という、言わばおまじないのような軽い話の中で大いに異色を放つ二文字の重い言葉に、英二は思わず怪訝な声を上げた。
「抵抗って?何で?」
「…星に願いごと、ということ自体ナンセンスだと思わんか?いや、それ以前に、『願う』という行為自体、目標達成のための努力をすることを自分で放棄してしまうことなんじゃないのか?『願う』ことは、つまり良い方向へ進む力を他に期待することだ。それはあまりにも他力本願で、俺は嫌いだ」
 手塚は一旦言葉を切ってため息を吐いた。
「まあ、行事として割り切ってしまえばいいんだろうが、生理的な嫌悪感は拭えんな」
「はあ」
 英二は解ってるのか解ってないのか、微妙な抑揚で相槌を打った。そして言った。
「んじゃさ、別に願い事じゃなくても良いじゃん」
「?」
「死んだ人ってお星様になるって言うじゃん。短冊をお星様への手紙だと思って何か書いたら?死んだ人へ近況報告」
「はあ」
 今度は手塚が不審気に相槌を打つ。
「それは七夕の主旨とは違う気がするが」
「だって手塚、願い事が無いとか夢のないこと言うんだもん。仕方ないじゃん」
 ぶー、と口を尖らせる英二。
「手塚の身近な人で亡くなった人、いる?」
「……祖母が既に鬼籍に入っているが」
「ばーちゃん?よし、じゃあ手塚。ばーちゃんに当てて一言なんか書こう」
「祖母に何か…と言っても…」
 家の仏壇に毎朝手を合わせているし、今更何か報告する事などない。
 というかそれ以前に、英二に強引に丸め込まれている。短冊に近況報告など、聞いた事が無い。
 一体何を書いたらよいのやら、願い事以上に悩んでいたその時、ふと腕時計の盤面が目に入った。
「ああ、そろそろ時間だ。行かなければ」
「えー?行く前に何か書いてってよ」
「済まない、時間が無いんだ。適当に書いておいてくれ」
「…オレが?適当に〜?」
 僅かな間の後、英二が妙な笑顔で聞き返してくるので、何か嫌な予感を感じつつも、手塚は、よろしく頼むと言い置いてその場を去った。


 その十数分後。
「笹っスか!いいですねぇ、風情があって」
 部室に入るなり、壁に笹が立てかけられてあるのを見て、桃城が声を上げた。
「だよね。英二が持ってきたんだ」
「あ、そういえば英二先輩は?」
「飾り物作るための折り紙を美術室に貰いに行ってるよ」
 不二は言いながら、桃城に短冊と油性ペンを差し出した。
「桃も何か書く?願い事」
「願い事っすか」
 桃城は差し出された二品を受け取って、しばし考え込む。
「みんな何て書いてるんスか?」
 桃城は、既にいくつか短冊がぶら下がっている笹の方に手を伸ばした。
「『全国大会制覇!英二』おお、先輩スゲー!やっぱこれだよな。『可愛い彼女が出来ますように』って誰だこれ?『身長が早く伸びて牛乳を毎日飲まなくていいようになりますように』ってこれ、絶対越前だな。名前書いてなくても分かるっての」
 ぷぷ、と笑って、次に桃城は、一際目立つ金色の短冊に手を伸ばした。
 するとそこには―――。
「『元気でやってます。相変わらず眉間に皺寄りっぱなしです。国光』……って何ですかこれ?」
 妙ちくりんな内容の短冊を怪訝そうに指差した桃城の指の先を追って、不二は目を丸くする。
「それ、英二の字だよ」
「『棚からぼたもち。国光』ってのもあるんですけど…」
「それも英二の字だね」
 不二は短冊を覗き込みながら首を傾げる。
「代理かな?」
「…代理って、なんか御利益なさそうなんですけど…」
 桃城は暫く釈然としない顔をしていたが、自分の中で何か決着をつけたのか、やおらペンを走らせた。
「……『鬼太郎になりたい。神尾』これ、アリですかね」
「桃もたいがいだね」
「楽しむが勝ちですよ、先輩」
「…………まあ、いいけどね」
 不二はそう言って苦笑した。

 かくて青学の男テニ部室前に飾られた笹には、面妖な短冊が多々かけられることになる。


<了>



※あとがき※