『MORATORIUM-Love&Friendship-』



 あたしは腕時計の盤面を見て、桜乃との待ち合わせ時間が近いことに気付いた。
「おっと、危ない危ない」
 あたしは読みかけの雑誌を棚に戻して、コンビニを出た。
 途端、夏の終わりの蒸し暑い空気が涼風に慣れた肌に纏わりついて、急に身体の重さを感じた。
 あたしはその重さを振り払うように肩を軽く2、3度動かして、呟いた。
「はぁ、久々に身体動かしたいなあ」


 青学は中高一貫教育方針で、中学校に在籍している生徒ほぼ全員が高校に上がれることになっているというものの、一応三年の学年末に外部入試と同じ問題を使用した進学試験が実施される。
 その成績如何によっては進学が危ぶまれることもある為に、三年になって塾に通い出す生徒は少なくない。
 かく言うあたし、小坂田朋香もその一人。
 いい加減勉強しろ、と親がうるさいから、仕方なく塾の夏期講習なんかに行ってるけど、一日中机の前に座ってカリカリと鉛筆を動かしているのなんて、つまらない事この上ない。
 そういうわけだから、今日は晩御飯を一緒に食べて気分転換しよう、と桜乃と約束していた。
 当の桜乃はというと、まだ部活に行ってテニスをしている。
 桜乃は自発的に勉強できる特異な体質だから、部活の合間に学校の図書館で勉強している。
 追い立てられなければ勉強できないあたしにとって、部活と勉強を両立できている桜乃は、不思議で仕方がない。
 そんなわけか、桜乃はそこそこ成績良いから、親御さんも心配してないんだろうな。
 だから桜乃は、自由に自分のやりたい事が出来ている。
 その点、桜乃がちょっと、いやかなり羨ましい。

 あたしはそこまで考えて、ふっと、自然に自嘲気味な笑みがこぼれた。
「…桜乃が自由に自分のやりたい事が出来ているなんて、そんなこと――ないのよね」
 空を見上げる。
 空は、血でも流したかのような紅に染まっていた。
 痛々しい色だ。
 桜乃の心も、あんな色しているんだろうか。
 だって、桜乃はずっと今まで、自分の心を偽ってきていた。
 それがどんなに辛いことか、想像するに余りある。
 きっと、桜乃の心は無数の傷が出来て、血だらけになっている。ズタボロなはずだ。
 でも桜乃は良く笑う。微笑んでくれる。
 心の内を完全に覆い隠して、微塵も辛さを顔に出さない。
 だから、あたしは最近まで、桜乃の心の中を知りもしなかった。
 桜乃があたしに隠し事をしているのを知ったのは、つい最近。

 桜乃は何も言わないけど、あたしは知ってしまったんだ。

 桜乃が、リョーマ様を好きなこと。


 桜乃の目には常に薄く涙の膜が張っている。
 その膜は、滑らかな白い肌と対照的なコントラストを成す真っ黒な瞳をゆらゆらと揺らしていて、どこか頼りなげな、儚いような、そんな印象を与える。
 でもその瞳が、ある人を追う時だけしっかりと一点を定めているのを、あたしは気付いた。
 その人を見るときの桜乃の瞳は、真っ直ぐで、真摯。でも、とても切ない。

 その人―――それがリョーマ様。


 あたしは、リョーマ様が好きだ、と入学して間もない頃桜乃に言った。
 その時桜乃は、すごく驚いたような顔をしてた。
 その時は何も不思議に思わなかったけど、後から冷静になって考えてみると、桜乃は不自然なほど驚いていた。

 どうしてその時に気付かなかったんだろう。桜乃の気持ちに。

 桜乃は何も言わなかった。自分の事。
 きっと、その時既に、リョーマ様を好きだったんだ。
 なのに桜乃は、それをあたしに言わなかった。

 その事実に気付いた時、あたしは、親友なのに隠し事をするなんて、って思って、桜乃を許せなかった。
 同時に、どうして何も喋ってくれないのか分からなくて、桜乃にとってあたしの存在は全然大切じゃないんだと思えて、すごく悲しかった。

 あたしは桜乃を親友だと思ってた。
 でも桜乃にとっては違うんだ。
 そう思うことがどんなに辛かったか知れやしない。

 桜乃にとってあたしは一体何なのか、とても、とても気になって、直接訊きたかった。
 でも、一度思いを口にしてしまうと、あたしは自分が直情型で気持ちを抑えられないことを知っていたから、ただ尋ねるだけじゃ収まらず、自分の気持ちを黙っていた事に対して桜乃を責めたて、詰って、罵ることになるかもしれないことが分かっていた。
 そしたら、桜乃は絶対に深く傷つく。
 それだけは嫌だ。
 桜乃はあたしの親友だから、傷ついて欲しくない。絶対に傷つけたくない。
 苦しんでる顔、辛い顔、そんな桜乃の顔を見るなんて御免だ。
 だからあたしは、敢えて桜乃に訊かなかった。

 それはとても辛かったけど、今じゃその選択は間違ってなかったと胸を張って言える。

 だって、桜乃もきっとあたしと同じことを考えたんだ、ってことに気付いたから。
 すなわち、あたしと同じように、桜乃もあたしを傷つけまいとしたんだってこと。

 親友と同じ人を好きだと告げることは、その時点からあたし達はリョーマ様を巡って凌ぎあわなくちゃいけないってことで、もしかしたら片方がリョーマ様と両想いになったら、もう片方が傷つくわけで―――。
 と言っても多分、桜乃は、自分がリョーマ様と両想いになってあたしが傷つく、という場面を想定してたんじゃ無いと思う。
 むしろ逆で、桜乃の気持ちを知ったあたしが桜乃に気兼ねして、あたしが自由に振舞えなくなるんじゃないか、ということを心配してくれたんだと思う。
 桜乃の性格を考慮すると、後者の方が断然説得力がある。絶対そうだ。間違いない。
 桜乃は自分の気持ちを明らかにする事で、あたしを傷つけたり、あたしの気持ちに水を差したりしたくなかったんだ。
 だから桜乃は、自分の気持ちを心の奥底に仕舞いこんだ。
 あたしに知られないように、悟られないように、本当の心を固く固く閉じ込めたんだ。

 あたしは、その事に気付いた時、愕然とした。
 あたしは、一体何度、桜乃に「リョーマ様が好き」って告げた?リョーマ様の事について、うきうきと語った?
 あたしが桜乃の気持ちを露知らず、能天気にそんなことをペラペラ喋っていた時、桜乃は一体何をどう考えていただろう。
 その時の桜乃の表情を思い出そうとしてみても、思い出せない。
 いかに自分がのうのうとリョーマ様だけを見て、桜乃を見てなかったか、思い知らされた。
 あたしは、桜乃のことをどれだけ分かった気でいたんだろう。
 馬鹿だ。
 親友気取りもいいとこだ。

 そう思って、ちょっと自分が嫌いになった。
 けど、その後、また気付いた事がある。

 桜乃がわざわざ気持ちを偽ったのは、あたしを傷つけたくないからで、それはすなわち、あたしのことをとても大切に思ってくれていることを意味するんだっていうこと。

 あたしは桜乃に真意を質すことで桜乃を傷つけるのを恐れた。
 桜乃はあたしに真意を告げることであたしを傷つけるのを恐れた。

 一緒じゃない。あたし達。
 お互いがお互いをとても大切に思いあっているんじゃない。

 親友だと思っていいのかもしれない。
 そう思った。
 楽観的かな?



 駅前広場の時計が六時丁度を示す音楽を奏でる。
 あたしは顔を上げた。
 駅前のロータリーに青学方面からのバスが入ってくる。多分あれに桜乃は乗っているだろう。
 あたしが目を凝らすと、桜乃がバスの中から手を振っているのが見えた。
 あたしは桜乃に向かってぶんぶんと手を振り返した。


 この2年間、桜乃はずっとずっと我慢してきた。
 桜乃のズタボロの心、癒してあげたい。親友として、傷ついた桜乃をそのままにしておきたくない。
 でもきっと、あたしから歩み寄ると、桜乃は余計に傷つく。
 だって、桜乃はずっと隠す事で、あたしの気持ちを守ってきたんだ。
 だからあたしが桜乃の気持ちを暴く事は、桜乃にとって屈辱以上の何物でもないに違いない。
 いや、屈辱という言葉は語弊がある。
 そういうことじゃなくて、きっと桜乃は、あたしに気持ちを悟られてしまったことを、自分のせいだと言って自分自身を責める。桜乃はそういうコだ。

 だから一番いいのは多分、あたしが黙っていること、知らないフリをしておくこと、騙されたフリをしておくこと。
 それで桜乃が今まで通り笑ってくれるなら、たとえその笑顔が偽りであっても、今以上に悪くならないのなら、それでいいのかもしれない。
 本当の所それじゃあ何も変わらないから、本当の意味で良いとは言い難いけど、それでも、幾らかマシだ。


「朋ちゃん、ごめんね、待った?」
 桜乃が息を切らせて、ロータリーのバス停から駆けて来る。
「ううん、ついさっき来たとこだよ」
「そう、良かった」
 言って桜乃が微笑んだ。いつもの笑顔。


 この笑顔の裏に、どれだけの涙を隠してきたんだろう。
 気になる。
 気になるけど、聞いたら桜乃を傷つけてしまう。知ったら、あたし達の関係は変わってしまう。
 壊したくない。桜乃も、今の関係も。
 だから、あたしは何も言わないでおこう。
 桜乃が大切だから。傷つけたくないから。
 大事な親友が自分の口から話してくれるまで、待とう。

 あたしは、そう決めた。


<了>



※あとがき※