『海と湖』



 純白の太陽から降り注ぐ光が、ちりちりと肌に痛い。
 肌の上で珠になっていた水滴はもう既に干上がってしまっている。
(ああ、今日はお風呂で肌がしみるだろうな)
 濡れた髪を時折吹く潮風で洗いながらそんなことを考えていると、不意に足場ががたん、と震えた。
「っぷはぁ」
 勢いよく息を吐き出す声とほぼ同時に、ばしゃり、と水音が響いた。
 音の方向に目をやると、水中に横向きに渡された鉄棒に手足をひっかけながら、人影が昇ってくるのが見えた。
「不〜二!さっきからずっとここにいるじゃん。泳がないの?」
 海水を大量に滴らせながら鉄製の台の上に固定されたすのこに這い上がってきた英二が、水中ゴーグルを跳ね上げて言う。
「すっごく気持ちいいのに。さっき魚いるの見えたんだぜ」
「へぇ、そうなんだ」
「なんだよその淡白な反応は〜」
 英二は不満そうに頬を膨らます。
「せっかくたまの休みを利用して海に遊びに来たってのにさ。もっと楽しもうよ〜。あんな風に」
 海上に作られた台の縁に腰掛けて足を海面に突っ込んだ英二は、腰までくらいの深さしかない沿岸でビーチボールで遊んでいるレギュラー陣の面々を指差す。
「俺の魔のX攻撃、受けてみよ!!」
「桃先輩、そのネタ古い」
「ごちゃごちゃ言うな越前!」
 バシィッ!という鋭い打撃音とともに、ビーチボールがリョーマの顔目掛けて一直線に空を駆ける。
「ぶっ」
 妙な声を発して、顔をビーチボールにめり込ませたリョーマは、派手な音と共に白い飛沫を舞い上げて、頭から海の中へ倒れこむ。
 英二はその様子を見て、すっくと台の上に立って叫んだ。
「桃ー!!あんまり力込めて叩くなよ!ビーチボール破いたらお前弁償だかんな!!」
「そりゃないッスよ、先輩!!」
 声を張り上げる英二を見上げながら、不二は苦笑した。
「なんか殺伐とした風景のような気がするけど」
「あれはあれで楽しそうじゃん」
 英二はそう言って、すとん、と腰を下ろした。
 そこで、不意に会話が途切れた。
 降って湧いた静寂。
 海水浴客の歓声も交えながら、ざぁ、という海鳴りが、沈黙の空気を丸ごと包んでいく。

 しかしさほどその沈黙も長く続かなかった。
 先に口を開いたのは不二だった。
「ねえ英二」
「にゃ?」
「さっきからずっと考えてたんだけど」
「ふむふむ」
「海と湖の違いって何だろう?」
「はぁっ!?」
 英二は驚愕に目を見開いて声を上げる。
「ンなの決まってんじゃん。水が塩辛いのが海で、普通の水が湖」
「塩湖っていうのがあるじゃない。塩湖の水は塩辛いよ?でも塩湖だから海じゃなくて湖でしょ」
「えー?じゃあ波が寄せるのが海とか?」
「大きな湖なら波が立つよ。琵琶湖とかそうじゃない」
「うー…じゃあこれでどーだ!陸で囲まれてるのが湖!」
「地球は丸いんだから、どの海も陸で囲まれてることになるよ」
「それもそうか……。…あり?じゃあ違いって何?」
 頭上に疑問符を浮かべながら首を頻りに捻る英二に、不二は失笑する。
「質問したのは僕だよ?英二が悩んでどうするのさ」
「むぅ」
 すっかり考え込んでしまった英二に、不二は苦笑いを浮かべながらぽつりと呟いた。
「結局、海と湖の違い程度のことでも、僕たちは良く分からないんだよね」
「で、でもさ、今オレ達がいるところは海だってちゃんと分かってるし、琵琶湖は海じゃなくて湖だっていうことくらい分かってるじゃない」
「それは予め知識があるからに過ぎないよ」
 不二は遥か遠くに見える水平線に目を向けた。
 海のマリンブルーと空のコバルトブルー。その境界線は曖昧で、今にも見失ってしまいそうな感じがした。
「僕たちはここが『海』と名付けられ、そう呼ばれていることを知っている。だからここは『海』だ。でも、もしその知識が無かったら?」
 不二はぼんやりとした水平線を視線で撫でながら、自問自答するように口を開く。
「ここは塩辛い水を湛えた湖、塩湖であるかもしれない。その湖はとっても大きいから、波も寄せるし沿岸も見渡せないかもしれない。そうであった時、どうやって海と見分けをつける?それ以上の情報を得られない限り、見分けることは多分出来ない」
 不二は自分の2本の足を胸に引き寄せ、抱え込む。
「…昔の人は、カスピ海は本当は湖なのに、『海』と名付けた。塩辛くて、大きいから対岸が見えないし波も立つ。海と間違えても仕方ない」
「…そういえば死海とかも、本当は湖なのに『海』って言うね」
「うん」
 不二は腕を離して足を海面に伸ばした。
 火照った肌にひんやりと海水が沁み込んで、とても気持ちが良かった。
「結局僕たちの視界に入るのは物事のほんの一部分で、そのほんの一部分から色々なことを判断しなくちゃならない。だから、間違える」
 身を屈めて、指を曲げた掌に海水を集める。掬った水を頭から被って、熱くなった頭を冷やした。
「僕の目に見えないこと、知らないこと、いっぱいいっぱいあるはずなんだ」
 髪を伝って流れてきた海水を掌で拭う。ほんの少し、淡水より粘っこい感じがした。
「そういうことを知らなくちゃ、間違いをいっぱいするんだろうなって思う。物事の真実には近付けないんだろうって思う。でも僕が知ることのできることには限界がある。人間は生物の中で一番偉いなんて、誰が言ったんだろう。人間なんてとてもちっぽけじゃないか―――って」
 不二は台の端を手で掴んで、海中の鉄棒に足をかけた。
「そんなことを、この上でずっと考えてた」
 そう言い残して、不二は海中に飛び込んだ。
 暫く泳がずに陽に当たっていたせいか、やけに海水が冷たく感じた。
 ごぼごぼと細かい気泡が体中に纏わりついて上に昇って行く。
 浮力に任せて頭を海面から出すと、海面を覗き込んでいる英二と目が合った。
「海を見てると、自分が如何に矮小かが思い知らされる。英二はそういう気になったりしない?」
「不二―――」
「泳ごうか、英二。あの、海の色が変わっている所まで」



<了>



※あとがき※