もう何年目になるだろう。5年、いや6年。
  通い慣れた坂道を駆け上がると、桜のアーチが見えてくる。
 僅かに上がった息を収めようと一度大きく深呼吸をすると、春の陽射しを含んだ柔らかい空気が、肺の中にそっと流れ込んできた。
「久しぶりだなぁ」
 思わず呟きが漏れた。
 桜乃はゆっくりと校門に歩み寄る。そこには、青春学園中等部の文字。
 今日は大学に無事受かった事を祖母のスミレに報告するために来た。
 久しぶりと言っても、まだ同じ敷地内に建つ高等部を卒業して1ヶ月も経っていない。
 そう思って、桜乃は少し苦笑した。
「…あれ?」
 気付くと、大きな白い立て看板が脇に立っていた。
 そこには、黒々とした墨で『卒業式』の文字。
「あ…今日、卒業式なんだ」
 そういえば、ざわざわと何やら校内が騒がしい。
 ふと、校門の陰から中を覗く。
 すると大きな桜の木の前、一組の男女が何やら話しこんでいた。
 遠目なので詳しくは分からなかったが、自分も着ていた懐かしい中学の制服に身を包んだ女の子と、真っ黒な詰襟の制服に身を包んだ男の子の二人。
 瞬間、ざぁっと風が吹いた。
 高校卒業と同時に短く切った髪の先が、頬を打つ。
 同時に、校門から校舎の出入り口まで連なって立ち並んだ桜から、花びらが次々に舞い落ちた。
 まるで涙のように。
 それは桜乃の記憶を連れて、はらはらと、はらはらと、舞い降りた。



『空近し桜の季節』



「ひっく…うっく…っ」
 嗚咽が止まらない。
 泣くまい、と何度も何度も思っても、次々と溢れてくる涙は留まるところを知らない。
 一体この涙はどこから来るんだろう。
 心は色彩を失って渇ききっているのに、一体どこから。
「桜乃ー!」
 遠くで、本当に遠くで、自分の名を呼ぶ声がする。
(―――朋ちゃん)
 きっと探してくれているんだろう。
 式が終わると同時にいなくなってしまった私のことを。
『一緒に写真撮ろうよ!いっぱい!!』
 そう言ってたから。
 でも駄目。
 だって、もう、笑い方を忘れてしまった。
「………………」
 ふと、眼前が翳った―――ような気がした。
 一瞬、人かな、と思った。
 でも今頃は、みんな思い出作りに励んで、校庭でたくさんたくさん記念写真を撮っているはずだ。
 校門での記念写真は一番最後。そう、相場が決まっている。
 校舎の出入り口から校門に続く桜並木の道には、まだ人影が無い。
 ましてや、道から少し離れたこの桜の木の下には、誰も来るはずが無かった。
(曇り始めたのかな…)
 曇り始めたのなら、そのまま雲が空を覆い尽くして、雨でも降ってしまえばいい。
 冷たい雨が降ってきたら、この頬を流れる涙も、ただの水滴に見紛うばかり。
 雨に混じって、堂々と泣ける。
 熱く腫れ上がった瞼も、泣き過ぎて痺れてきた頭も冷えることだろう。
「………そこ、俺の場所」
 唐突に声が降って来た。
「っ……!」
 聞き慣れた声。
 だけど今、一番聞きたくない声。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られたくない一心で顔を思いっきり背けて、逃げようと咄嗟に身を翻した。
 でも、逃げるよりも手首を掴まれる方が早かった。
 突如人が動いて生じた微風にあおられて、はらはらと、花びらが舞い落ちる。
「人の顔見ていきなり逃げようとするなんて、失礼じゃない?」
(リョーマ君の顔なんて、見てない。自分の醜い顔を見られたくなくて顔を伏せてたんだから、顔なんて見えなかった)
 喉まで言葉が出かかったけれど、代わりに喉を通ってきたのは嗚咽。
 つん、と鼻の奥が再び熱くなって、また温かい水滴がぽろぽろと瞳から流れ落ちた。
「…なんで泣いてんの?」
 無神経な言葉。
 私が泣いているのは、あなたのせいなのに。
 思わず、リョーマ君の頬をひっぱたきたくなった。
 でも当然私に出来る筈もなく、右手の指先が僅かに動いただけだった。
 自分の不甲斐なさに、掴まれた左手を振り解く気力も萎えた。
 背後からの視線が、痛い。
「ねえってば」
 私の手首を掴んだリョーマ君の手に力が篭もった。



『今日、制服の採寸だよね。リョーマ君はもう済ませたの?』
『オレは必要ない』
『へ?あ、先輩から貰うとか?』
『違う。オレは中学卒業したら、アメリカに行くから』
 リョーマ君は数週間前、そう言った。
 てっきりそのまま、高等部に進学するのかと思っていた。私と同じように。
 中学と同じように、共通の時間を過ごせるのかと思っていた。当然のように。
 でもそんなちっぽけな未来は、あっさりと崩れた。リョーマ君のその一言で。
『本格的にテニスやりたいんだ。負かしたいヤツが、まだいっぱいいる』
 そう言って、あなたは不敵に微笑んだ。
 未来を語る強気な笑顔はあまりに素敵で、言葉が出なかった。

 行かないで。寂しい。置いてかないで。ずっと一緒だと思ってたのに。

 突然絶望に叩き落された心の中に、無数の言葉が渦巻く。
 でも、どれもこれも、おこがましい言葉ばかり。
 私はリョーマ君の彼女でも何でもない。
 親しみを込めて下の名前で呼ばれたりもしない。ただ名字で呼ばれるだけの、単なるオトモダチ。
 私がただ勝手に、リョーマ君を好きなだけ。
 リョーマ君を止める言葉を吐く資格なんて、私には全くない。

 だから、何も言えなかった。
 その時は、ただ一言、そう、とだけ言った。



「竜崎」
 じれったそうに、リョーマ君の声に僅かに怒気が篭もった。
「何か言ってくれなきゃ、分からない」
「……………」
「何でそんな盛大に泣いてるの?」
「……………」
「何とか言えよ」
 何も言えない。言えるわけ無い。
 私が泣いているのはリョーマ君のせいだなんて。アメリカになんて行かないでなんて。
 でも。
 今なら――何か言えってリョーマ君が言ってるんだから、言ってもいいのかも。
 好きだって。ずっと好きだったって。好きだから、会えなくなるのが悲しいんだって。
 言っちゃえ。言っちゃえ。
 言ったらきっと、吹っ切れる。
「泣かれたまんまじゃ、気分悪いじゃんか」
 私が口を開く直前、ため息混じりの声が背中に突き刺さった。
 きつい口調が、不快に思っているリョーマ君の心中を表しているようだった。
 鉛玉でも打ち込まれたように、胸が痛んだ。
 言えない。やっぱり言えない。
 私はこんなにもリョーマ君が好きだけど、リョーマ君は私のことはなんとも思ってない。
 何とも思われてないのをリョーマ君の口から直接確認するのは、辛すぎる。
 重くなる心に比例して量を増した涙が、つっと頬を伝った。
 手首を掴んだリョーマ君の手が、大きなため息と共に離れた。
「竜崎、せめて最後くらいは笑顔で送ってよ。でないと、オレの記憶の中の竜崎は泣き顔のまんまだからな」
 幾分か和らいだ口調。
 彼は彼なりに、私が何故泣いているか分からないなりに、慰めてくれてるんだ。
 そう思うと、傷だらけの心が、ふわりと温かい気持ちに包まれた気がした。
 でもやっぱり無理だ。笑顔でなんて送れない。
 あまりにも悲しくて泣き過ぎて、笑い方を、忘れてしまった。
「………じゃあな、竜崎」
 暫くの沈黙の後、短いさよならの言葉と同時に、背中に感じていた人の気配が遠ざかる。
「……………」
 振り返るな。
 振り返ると、別れが辛くなる。
 でも、リョーマ君の姿、今一度目に焼き付けておきたい。しっかりと。
 好きになった人だから。
 長い遅滞と逡巡の後、私はとうとう振り返った。
 もういないだろう、と予測しながら。
 でも予想に反して、リョーマ君は、いた。
 涙でぼんやりと滲んだ視界の中で、薄ピンク色の桜の花々を背景に、黒い詰襟の人影。
 満足に表情も見えないくらい遠かったけど、リョーマ君は空を見上げて佇んでいた。
(……何してるんだろう)
 私の視線に気付いたのか、リョーマ君が弾かれたようにこっちを見た。
 瞬間、リョーマ君の瞳がきらり、と光ったような気がした。
 リョーマ君は、私と目が合うとすぐに踵を返して、てくてくと歩いていった。校門の外へ向かって。



「あの時、リョーマ君は何してたんだろう?」
 桜乃は呟いて、その時のリョーマと同じように空を見上げた。
 春めいてきた空は薄曇。
 どこまでも吸い込まれてしまいそうな深みを帯びた夏の空とはまた違い、まろやかな水色が視界一面に広がる。
 それは、手を伸ばせば埋もれてしまいそうなほど身近に感じる。
「こんなに空が近かったんだ」
(リョーマ君はこんな空を見てたんだろうか)
 優しく降り注いでくるあえかな陽光に、桜乃は目を細めた。
(こんなに空が近いなら、あの日の私も見上げていれば良かったのに)

 私のレッテルはとうとう剥がせなかったけど、名前で呼ばれたかった。
 ずっと側にいたかった。

 伝えられなかった想いは心に蓄積したまま。
 蕾のまま、開く事もなく萎む事もなく。

「今頃、リョーマ君はどうしてるんだろうなあ…」

 花びらが涙のように、私の記憶を連れて舞い降りてくる。
 この季節はいつも。いつも。

<了>



※あとがき※