もう何年になるだろう。3年、いや、もうそろそろ4年。
 かつて通い慣れた坂道を上がると、桜のアーチが見えてくる。
 青春学園中等部。
 暫く見ないうちに、外壁の煉瓦はちょっと色褪せただろうか。
 それとも、アメリカにいて疎遠になっていた、あまりに見事な桜並木の風景に圧倒されて、そういう風に見えているだけだろうか。
(たった3年や4年で、そうそう変わるもんでもないよな)
 リョーマは、肩にかけていた、位置がずれかけたテニスバックを軽くかけ直す。



『続・空近し桜の季節』



 かつて通った青春学園中等部を卒業してから3年。
 テニスばかりしていた中学時代。アメリカに行ってもそれは変わらず、今も大して変わらない。
 懐かしい空気を吸い込みながら煉瓦の外壁に沿って坂道を登っていくと、校門前で佇んでいる人影が見えた。
 艶やかな短い黒い髪を暖かな春風に洗いながら、ぼうっとどこか上を見ている。
 私服であるところからして、学校の生徒ではなさそうだった。
 不審に思いながら2、3歩歩みを進めていくと、薄曇の空を映した大きな瞳や小振りな鼻、薄いが形の整った色の良い唇に、見覚えがあることに気が付いた。
(…………竜崎…?)
 リョーマはしばし呆然と立ち竦んだ。
 まさかアメリカから帰ってきた当日に、縁のある人物と会うなんて思ってもみなかった。
 偶然とはいえ、恐ろしいものである。
 しかし―――。
(…三つ編みはどうしたんだろ)
 3年も会ってなかったのだから髪型が変わっていてもおかしくはないのだが、3年間ずっと長いおさげの髪型を見続けていたリョーマにとっては、髪の短い桜乃はとても新鮮だった。
(それにしても…)
 3年の月日は思っていたより長かったのだろうか。
(なんか…綺麗になってる)
 心中で無意識のうちにそう呟いた後、顔に血の気が上っていくのを感じた。
 まだ存分に幼さを残していた3年前と違って、柔らかな、それでいて要所要所のシャープな輪郭が、随分大人っぽさを演出している。
 今は清々しい笑顔で顔をあげているが、学校の桜の木の下で最後に別れた時は顔を俯かせて豪快に泣いていた桜乃。
 リョーマは懐かしさに目を細めた。


 3年前の中学の卒業式の日、桜乃はいつもリョーマが昼寝していた場所に座り込み、腕の間に顔を埋めて泣いていた。
 知らん振りして通り過ぎることも出来たはずなのに、つい出来心で声をかけてしまった。
 でも桜乃は、いくら語りかけても何も言わなかった。

 だから――――――



「………じゃあな、竜崎」
 思わず口が滑った。竜崎が何か言うまで待つつもりだったのに。
 頑なにオレの言葉を拒もうとする小さな背中。
 どうしてそんなにも強情なんだろう。言いたいことがあるなら言って欲しいのに。
 尤も。強情さではオレも負けない自信があるけれど。
 それでも、何を言っても一向に答える気配が無いのには、正直ちょっと辟易した。
 同時に、なんだか悲しかった。
 親しんできた人と別れるのはやっぱり寂しい。
 なんだかあまり執着がなさそうだとか言われるけれど、オレだってそれくらいの感傷はある。
 だから、竜崎と暫く会えなくなると思うと、やっぱり寂しい。
 寂しいから、それを吹っ切る為にもちゃんと別れの挨拶をしておきたかったのに、なのに竜崎は何も言わない。
 竜崎は、オレがいなくなっても寂しくないんだろうか。
(竜崎にとって、オレはそんなに軽い存在だったのかな)
 そう考えると、少し胸がちくりとした。
 少なくともオレの中では、竜崎は、別れを惜しみたくなるくらいには親しい間柄なつもりだったんだけどな。
(…そう思っていたのはオレだけなのかな)
 頑なにオレを拒んだ背中から一歩一歩遠ざかりながらそんなことを思っていると、不意に、目の前がぼやけた。
 舞い散る薄ピンク色の花びらや黒い幹、水色の空に赤茶けた石畳。
 それぞれの輪郭がどんどん失われていく。
 驚いた。
「なんで」
 涙の粒が零れそうになって、オレは慌てて上を向いた。涙を零さないように。
 春めいてきた空は薄曇。
 どこまでも吸い込まれてしまいそうな深みを帯びた夏の空とはまた違い、まろやかな水色が視界一面に広がる。
 それは涙の幕を通して、余計に淡い色に映った。
「?」
 何故涙が出てくるんだろう。
 ――良く分からなかった。
(欠伸とかはうつるって言うけど、涙ってうつるモンなのか?)
 そうこうしているうちに、目尻に今にも零れそうなほど涙が溜まっていく。
 分からない。分からない。
「くそっ…」
 誰にともなく毒づく。

 ふと、視線を感じた。
 弾かれたように振り向く。
 満足に表情も見えないくらい遠かったけど、確かに竜崎がこっちを向いていた。濡れた頬を陽光に煌かせて。
 陽に透けて薄茶に色を変えた竜崎の目とオレの目が合う。
(見られた…!?)
 オレは慌てて踵を返して、走り去ろうとした。
 でも走り去るというのはあまりに不自然かと思ったから、努めて普通を装って歩いた。
校門へ向かって。
 ここをくぐると、もう暫く竜崎とは会うことがない。
 なんとはなしに少しため息をつくと、我慢していた涙がとうとうちょっとだけ零れて、アスファルトに小さな丸い染みを作った。



(そうだ、あの時なんか泣けてきたんだよな…。そういやあれから泣いてないな、オレ)
 思わず足元を見る。
 そこに涙の丸い染みはあるはずもなく。
「…………………」
 立ち止まっていても仕方が無いので、リョーマは少しずつ近づいていく。しかし、桜乃の方は全然気付く気配がない。
(何ボーっとしてんだか)
 そういえば随分ドジなヤツだった、と思い出して、リョーマはあやうく笑いそうになった。
「今頃、リョーマ君はどうしてるんだろうなあ…」
 その桜乃がぽつりと呟くのを聞いて、リョーマは心臓が跳ね上がった。
(な、何でいきなり)
 リョーマは驚愕しながらも、一度深呼吸して息を整え、そして空を見上げたままの桜乃に向かって言った。
「ここにいるよ」
「え?」
 突然声をかけられて驚いたように、桜乃が目を見開いて見上げる。
「う、わわわっ!!えっと…えっと…も、もしかして…リョ、リョーマ君…?」
「もしかしなくても、そうだけど」
「えええっ!?」
 桜乃が慌てふためいて、珍妙な声を上げながらばたばたと忙しそうに手を動かす。
 その動きは昔そのままで、ただその動きに合わせて動くおさげが無いのだけが、昔とは違う。
「なんでそんなに驚くかな。そんなにオレ、変わった?」
「そ、そりゃ少しは変わったみたいだけど…って、そーじゃなくて!いきなりあんなタイミングで声かけられたら、普通誰だって驚くよ!ま、まさか帰ってきてるなんて、思ってなかったから…」
 言いながら、桜乃は顔をどんどん赤らめて俯く。
 人と喋るのが苦手なのか、桜乃は昔からそうだった。
 それ以上の言葉が出てこない様子の桜乃を見て、リョーマは口を開いた。
「ねえ、さっき、ボーっと何見てたの?」
「み、見てたの!?」
 桜乃が勢い良く振り返る。
「誰もいないこんなとこで一人佇んでたら、嫌でも目に入るよ」
「そっか、それもそうよね…」
 桜乃は納得したように頷いて、言った。
「あのね、空を見てたの」
「空?」
 聞き返すと、桜乃は微笑んで頷いた。
「卒業式の時、リョーマ君、ここで空を見上げてたなーって思い出して」
「ああ…あの時」
「覚えてるんだ?」
 忘れられるはずも無かった。
 なんで自分が泣いたのか、今でも良く分からない。
「こんなに空が近かったのなら、あの時の私も見上げてればよかったな、なんて」
 桜乃は言って、恥ずかしそうに頬を赤らめて笑った。
 笑うと、途端に幼く見えた。まるでかつての、中学の時の桜乃のように。
 リョーマの中で、今の桜乃の笑顔が、昔の桜乃の泣き顔と重なった。
「…一つ訊いていい?」
「ん、いいよ。何?」
 小首を傾げる桜乃。
「どうしてあの時、泣いてたの?」
 リョーマが言うと、桜乃の表情がみるみるうちに固まった。唇を固く引き結んで、手は拳の形に握られる。
(訊いちゃマズかったかな)
 リョーマ少し後悔したが、言ってしまったものは仕方が無い。
 気まずい沈黙が流れて、その間に幾枚かの花びらが二人の間に舞い落ちた。
 どうしたものか、とリョーマが思い始めた時。
「……………無神経」
 桜乃が最初に発した言葉がそれだった。
 リョーマは面食らった。
 しかしリョーマが抗弁する前に、桜乃が二の句を継いでいた。
「リョーマ君ったらいつもそう。無神経なんだから。ずけずけと物を言って」
「あ、えっと………ごめん」
 かろうじてリョーマがそう言うと、桜乃はふるふると首を振った。
 よく見ると、桜乃は微笑んでいた。黒瞳に涙の幕を貼り付かせて。
「変わってないね、リョーマ君。…また……」
 桜乃がそう言って口を噤む。
 微笑んだ形のまま動かない唇を見ながら、リョーマは言う。
「……また?」
 先を促されて、桜乃はリョーマを見上げた。
 濡れた睫毛の影が瞳の中に落ちて、さらに黒々と桜乃の瞳が冴え渡る。
「好きになりそう」
「……………」
「…私、おばあちゃんに大学に合格したことを報せに来たんだ。またね、リョーマ君」
 桜乃はそう言って、手を振りながら、軽やかな足取りで校門の中に消えていった。



「また…?」
 リョーマは眉を顰める。
「またってことは…」
 徐々に遠ざかる小さな背中。
 あの時の桜乃は、遠ざかる自分の背中をどういう気持ちで見つめていたのか。
 そこに思い至って、リョーマは思わず赤面した。
 そして同時に。
「泣いていたのは、そういうわけだったのか」
 桜乃のかつての心中に思いを馳せる。

 そして昔の自分の心中を見つめる。


 泣きたかったのはオレの方。


 あの時出てきた涙には、意味があった。
 ただ寂しいだけで、悲しいだけで泣いたわけじゃない。
(きっと、桜乃と同じ理由だった…)

 そう感じた。


 花びらが涙のように、ずっと分からなかった疑問の答えを連れて舞い落ちてきた。
 ひらひら、ひらひらと。


<了>



※あとがき※