『雨の日の放課後』




「うーん、困ったにゃ〜」
 そう言って菊丸英二はぽりぽりと頭を掻いた。
「まさか雨が降るとは…」
 校舎の玄関口で空を見上げながら呟く。
 今日の朝は御飯当番でもないのに珍しく姉が早起きしてきたと思ったら、星座占いを見るためにチャンネルを次々と変えていき、そしてそれが終わったら芸能人のニュースばっかりチェックしていくものだから、結局天気予報を見ることが出来なかった。
「彼氏とデートする日だかなんだか知らないけど、オレが先にテレビ見てたのに〜。チャンネル権っていつも兄ちゃんや姉ちゃんに取られるんだよな。不公平だ、うん、不公平」
「一人で何言ってんの?エージ」
 声に振り向くと、同じクラスの不二周助が僅かに首を傾けて立っていた。
「もしかして傘持ってないの?」
「あ〜、まぁ、うん。…そんなトコ」
「午後の降水確率90%だったのに、どうして傘を忘れるかなぁ」
 不二が苦笑気味にそう言うので、英二は口を尖らせて答える。
「オレだって好きで忘れたわけじゃないやい。雨降んの知ってたらちゃんと持ってきたもん」
「どうだか」
 不二はくすりと笑う。
「いつかは雨に濡れて帰るのもまた一興とか言って、全身ずぶ濡れになって帰ったくせに」
「あれは桃との勝負に負けて部室の傘使えなかったんだい!!」
「ハイハイ。英二ったらいつもそうなんだから。仕方が無いなぁ」
 不二はおかしそうにくつくつと笑って英二の言葉を制すると、おもむろに鞄から折り畳み傘を出してにこやかに言う。
「一緒に帰ろうか」


「…にしてもさー」
「ん?」
 英二が半眼で呻く。
「男二人で相合傘って、ハタから見て多分気持ち悪いよな」
「ははは、確かにねぇ」
 不二はいたって呑気な口調で答える。
 しかし、確かに男二人の相合傘は異様な雰囲気を放っているかもしれない。
 実際、稀有の目が無数に自分たちに降り注いでいるような気がしないでもない。
「オレ、こんなとこ部員に見られたくないなぁ。なんか変な誤解されたらヤだもん」
 英二はどこか遠くに視線を投げながら言う。
「同感。でもあんまり文句ばっかり言ってると、傘の外に放り出すからね」
「…ごめんなしゃい」
「それはそうと、英二、バス停まではこれでいいとして…駅から家までの帰り道はどうするの?」
「うーみゅ、それは考えてなかったなぁ」
 英二は腕を組んで考える素振りを見せる。そして左手首の腕時計を見やって言う。
「…そういや、今日この時間は誰も家にいないんだっけ。迎えに来てもらうのは無理だし…」
「じゃあ駅前の店にでも入る?時間潰してたら、そのうち家に誰か帰ってくるんでしょ?」
「うん、多分」
 英二がこくりと頷く。
「じゃあ決まり」
「うんにゃ、ちょっと待って」
 にこりと笑う不二に、英二は思い出したように声を上げる。
「…オレ、今月の小遣い、もうあんまり残ってないんだけど」
 困ったように頬を掻く英二。
 申し訳なさそうに目を曇らせる英二のその姿がなんだか妙に子犬っぽくて可笑しくて、不二は笑いそうになりながらも、口元に手を添えてそれを抑える。
 そして仕方が無いなと思いつつ、言う。
「いいよ、僕の奢りで」
「ホントっ!?」
 不二の言葉にきらきらと目を輝かせる英二。
「ホントホント」
「やったーっ!!じゃああそこ行こうぜ!いつものトコ」
 さっきまでのしおらしさはどこへやら、途端にはしゃぎ出す英二に不二は苦笑する。
「相変わらず英二はあそこが好きなんだね」
「もっちろん!!あそこのタマゴサンド、美味いんだぜ!タマゴがプリプリしててさ!!」
「はいはい」
 おざなりな口調ながらも、不二はにこやかに笑った。


「しっかしこんな時に雨とはツイてないにゃ〜」
 駅前のファーストフード店。
 不二と英二の二人は、二階の窓際の席を陣取っていた。
「そうだね。明日は大事な試合なのにね」
「ちょっと体を慣らしておきたかったんだけどなぁ」
 言って、英二は手にしたタマゴサンドにかぶりつく。その反動で、英二の言う”プリプリタマゴ”がパンの隙間から僅かにはみ出る。
 不二は激辛チキンバーガーを食べながら、ふと問い掛けた。
「英二、明日の試合勝てそう?」
「勝てそう…って。不二ってばなんか弱気じゃん。なんでンな風に聞くの?オレは勝つよ」
「そう」
 不二は言って微かに笑んだ。
「…英二はいいね。悩み事なさそうで」
「ッなにを〜!?オレにだって悩み事くらいあるぞ!」
「へぇ、どんな?」
「今日の晩飯のメニューだろ?明日の弁当のメニューに…あ、そーだ、そういや買いたい本あったのに小遣い足りないからどうするかとか、あとは…テレビのチャンネル権。これ切実」
「ぷっ……」
「な、何で笑うんだよー!不二ッ!!」
 不二は肩をわななかせながら笑っていた。真っ赤な顔して頬を膨らます英二の顔を見て、ますます笑いがこみ上げる。
 声を殺して笑いすぎたために目の端に浮かんだ涙を指で拭いながら、不二は言う。
「ごめんごめん。だって英二のそれって悩みっていうか……ねぇ?」
「オレには重大な悩みなの!チャンネル権は重要なんだぜ?今日だって朝のニュースちゃんと見られてたら、傘忘れなかったもん」
 不貞腐れて横を向く英二。
「ははは…。でも…そうだね。悩みが無いってことは無いよね。ごめん、変なこと言って」
 不二はそう言って軽く微笑む。
「……?…不二…マジで悩みあんの?」
 いつも何を考えているか分からないような(とよく言われる。英二はそう思ってはいないみたいだが)笑顔を浮かべている不二だが、それとは少し違う笑い方に、英二はちょっと首を傾けた。
「悩みっていう程じゃないかもしれないけど…」
「なに?不二も晩御飯のオカズ気にしてんの?」
「あ、いや…そーじゃなくてね…。なんていうか、言葉にしにくいんだけど…明日の試合もそうだし、もっと先…高校生になって、さらにもっと歳を取って…僕は一体どうなるのかなって思って。テニスをしていて、学校も楽しいし、いい友達もいるし」
 そこで言葉を切って、不二は英二をちらりと見た。そして続ける。
「今すごく充実してるって思えるんだ。だからこのまま時間が止まって大人にならなければいいのになって…時々思うんだ。…先が見えないからかなぁ」
「ふーん…そんなもん?」
「…小さい頃は”早く大人になりたい”って思ってたから、ピーターパンの話なんて何がいいのかちっとも分からなかったけど、今なら分かる気がする」
「そっかなぁ?オレは今でも早く大人になりたいけど」
「どうして?」
 不二が問うと、英二は頬をぽりぽりと掻きながら言う。
「だってさぁ、母さんも父さんも姉ちゃんも兄ちゃんも事あるごとにオレを子ども扱いするんだぜ?確かにまだ子供だけどさー、早く大きくなって見返してやりたいよ」
「そっか、それはそうかもしれないね」
 あっさりと答える英二に、不二はくすりと笑う。
「それにさぁ、不二」
「ん?」
「先が見えないのなんて当たり前じゃん?未来って、見えないから未来なんじゃないの?」
「…………」
「確かに今、楽しいよ。オレも今が一番だと思ってるけど、でもまた大きくなったら変わるかもしれないじゃん。人生の中でいつが一番かは、じーちゃんになって死ぬ時に決めたらいいんだって!…って、じーちゃんが言ってた」
「…英二のおじいちゃん、なんかパワフルだね…」
「そーなんだよ。いつもオレを追い掛け回すんだぜ?もう79なのによくやるよ」
「…………そうだね」
 少し戸惑いながら頷く不二。
 いつか英二も孫をアクロバティックに追いまわしていくのだろうか。想像すると…なんとなく面白…いや、怖い。
「まあ、とにかく、別にそんなことに神経使ってなくてもいいんじゃない?使うだけ無駄無駄!一日一日楽しく行こうぜ!!」
 少しわけの分からない想像の世界にトリップしていた不二だったが、明るい英二の言葉につられて、自然に笑みがこぼれた。
 英二はいつも元気を分けてくれる。底抜けに明るい笑顔と何にも束縛されない自由な彼だけの言葉で。
 こういう時、友達っていいなとしみじみ思う。
「…そうだね」
 不二はそんな英二に感謝の意味もこめて、笑い返した。
「あ」
 英二が声を上げて、窓の外の空を見上げる。
 学校を出たときは真っ暗で全然止みそうになかった雨が、いつのまにか小振りになっていた。厚い雲にも所々切れ間が出てきて、薄い光のヴェールが雨滴を時々煌かせ、灰色で覆われていたあたりの景色が色彩を取り戻し始める。
 英二につられて外を見た不二が呟く。
「…雨、止みそうだね」
「だね」
「じゃ、そろそろ出ようか」
 言って、不二と英二はそれぞれ鞄を手に立ち上がった。



「ありがとうございましたー」
 店員の営業用の明るい声に押されて店の外に出ると、もう傘が必要ないくらいだった。
「止んでよかったね。これで帰れるでしょ?」
「うん。今日は奢ってくれてありがとな、不二!あ、あと傘に入れてくれたのも」
「どういたしまして」
 不二は心中で励ましてくれたからおあいこだよと呟いた。
「あ、虹だ〜」
 先に歩き出していた英二の嬉しそうな声が不二の耳に届く。
 空を振り仰ぐと、見事な虹がカーブを描いて空を横切っていた。
「…そういや、英二は知ってる?虹にまつわる伝説」
「?」
 足を止めて振り向く英二。
「虹の麓には宝物が眠ってるんだって」
「へぇ〜」
 目をきらきら輝かせて虹を見返す英二に、不二は肩を並べて同じく虹を見上げた。
「英二が欲しい宝は何?」
「もち、優勝カップ!!不二は?」
「僕も一緒かな」
 そう答えると、英二は鞄を肩にしっかりかけ直してやおら駆け出した。
「じゃ、どっちが先に手に入れるか、競走〜!!」
「えっ、ちょ…ちょっと待ってよ、英二!!」
(伝説だって言ってるのに。カップをどっちが先に手に入れるかって…僕達団体戦で出るから、貰う時は一緒なのに…。それに虹の麓なんて、本当はないのになぁ…)
 不二はしばし英二の後姿を眺めていたが、気を取り直して鞄を肩にかけなおした。
「ま、いっか」
 呟いて、不二も雨に濡れた地面を蹴った。
 足元でぱしゃりと水溜りが音を立てた。

<了>



※あとがき※