沈み行く太陽は熟れた果実のように赤々と輝いていて、泣き腫らした目に痛い。
「ちぇ…自信あったのになぁ」
 膝頭に額をくっつけながらそう言うと、いつもの自分の声とは何だか違って、ちょっと湿った感じがした。



『黄金ペア-EPISODE:0-』



 ネットインしたボールがぽとりとコートの上に落ちる。ゆっくりと。
 追いつけない距離じゃなかった。
 でも身体は完全に逆の方向に走りかけていて、咄嗟にボールに飛びつこうとするも、わずか数センチ届かなかった。
 ラケットのヘッドの先をボールが通り、地面に落ちるまでの数瞬は、まるでコマ送りの画面を見ているようで、いかにも現実味を欠いていた。
 ボールが地面を打つ音、観戦していた部員達が上げる喚声、審判のお決まりの言葉。
 圧倒的な量で押し寄せる様々な音が耳に届くと、不意に我に返って。
 ああ、負けたんだと、その時に気付いた。
 レギュラーになれなかったんだと、その時になってようやく、理解した。



 試合に勝つ為に、憧れのレギュラージャージを着る為に、慣れない努力をした。
 そしてようやっと先輩からも褒められるプレイができるようになってきた。
 確実に成長を遂げているのが自分でもよく分かって、負ける気がしなかった。

 でも結局、負けた。
 2敗してブロック成績3位。レギュラーには選ばれなかった。

 確かに自分は成長した。強くなった。
 実力から考えて、レギュラー枠を狙うのも決して不可能ではなかったはずだった。
 でもそこに驕りがあったのではないのか。
 強くなった。勝てるはずだ。
 その心の隙が、みすみす惜敗を招いたのではないのか。


 負けたことが悔しいんじゃない。
 自惚れていた自分が悔しい。慢心していた自分が悔しい。

「ちくしょー」

 力なく呟くと、じんわりと涙が浮かんできた。
 拳を頬の上部に当てると、目尻に溜まった涙が手の甲の上にじわりと滲んだ。


「…菊丸?」
 唐突に声がして、俺は驚いて振り返った。
「大石」
 同学年のチームメイト。
 今回の校内ランキング戦で見事レギュラー入りを果たした。
 誠実で実直で温厚で勤勉で。
 俺とは何もかもが正反対でやんなっちゃう。
「…何でこんなトコにいんの」
「何でって…帰り道の途中なんだけど」
 大石が困惑した表情を浮かべる。
 俺の口調にはよっぽど険があったらしい。そんな風に言うつもりじゃなかったんだけど。
「菊丸こそ、なんでコンテナの上なんかに…」
 見上げてくる真っ直ぐな瞳とぶつかって、俺は思わず目を反らした。
 一瞬だったけど、気付かれたかな。泣いてたの。
 そう危惧してたら―――。
「泣いてたのか?」
 案の定ビックリした顔で大石がそう言った。
 ちっ。バレてやんの。
「ちがうよ」
 口からでまかせを言ってみる。でも声は微妙に湿ってて、おまけに鼻声。
 嘘だってことなんか一発で分かるに違いない。
「……家に帰る途中なんだろ?早く帰れよ」
「…泣いてる友達見捨てて帰れる訳無いじゃないか」
 大石はそう言ったかと思うと、ひょい、とコンテナの上に登ってきた。
 ほっといてくれていいのに。お人好しめ。
「泣いてないって言ったじゃん。余計なお世話、お節介」
「ひどいな」
 大石はそう言ってくすくす笑い、俺の横に腰を下ろしてくる。
 突き放して言ったつもりだったのに、そんなこっちの意図は微塵も伝わっちゃいない。
 俺はちょっと苛々した。
「邪魔だって言いたいの、分かんないの?」
「うん?」
 できるだけ刺々しく言ったつもりだったのに、大石はにこやかに微笑んでくる。
 何を言っても通じやしない。
 俺は、大石とは話したくないのに。

 だって大石は、俺が手に入れたくて手に入れたくてたまらなかったものを手にした。
 レギュラーの座。
 初めてレギュラーに昇格し、先輩や同輩から小突く・叩くの痛い祝福を受けていた大石。
 その時の、困ったように笑む大石の最上の表情が、ずっと頭から離れない。
 もしかしたら、俺がそうして笑っていたかもしれないのに。
 脳裏に浮かぶその風景の中、なんで笑っているのは、俺じゃなくて大石なんだろう。
 その答えは単純明快。
 俺は負けた。大石は勝った。
 ただ単純に、それだけ。

 それだけのことなんだけど、俺にとってはすごく大きな差。

 大石に優しくされればされるだけ、自分が惨めになる。負けた自分が。レギュラーになれなかった自分が。
 大石はレギュラーになったから、そんな俺の気持ちが分からないんだ。
 だから、簡単に『見捨てられない』とか何とか言って俺に構おうとする。
 その行為が俺を傷つけることに、大石は気付いてない。
 きっと大石にとっては泣いている友達を助けるのは当然のことで、力になってやるのは当然のことで、そういった善行は等しく万人に受け入れられるとでも思ってるんだ。
 そういった考え―――ムカムカする。
 結局の所、他人に優しくする自分に酔ってるだけなんじゃないのか?
 思いやりに満ちた顔の向こうで、優越感に浸ってるだけなんじゃないのか?


 大石が大気に揺れる楕円形をした太陽を見つめながら、ぽつりと言った。
「今日の校内ランキング戦…残念だったな」
「!」
 大石の言葉と同時、カッと瞬時に頭が熱くなる。
「でも校内ランキング戦は来月にもあるし、だから気を落とさずに…」
「分かった風な口きくな!!」
 俺は思わず叫んで立ち上がった。
「来月もある?ふざけんな!俺は今日のランキング戦に賭けてた!今回こそって思ってた!」
 突然荒らげた声にびっくりしているのか、大石が目を丸くして見上げてくる。
 俺は構わず続ける。
「大石には俺の気持ちなんか分からない!レギュラーになって浮かれてるお前なんかには!!」
 乱暴に言い捨てて、俺は大きく息を吐いた。
 一気にまくし立てたせいで酸素が足りなかった。大きく肩で息をして呼吸を整える。
 頭に昇った血がだんだん下がっていくと、速まった鼓動の音だけが体の中にとり残された気がして、一瞬不安に襲われた。
 そんな中ふと見やると、大石は端整な眉をきり、と顰めて、こちらを見ていた。
「俺にお前の気持ちが分からないだって…?」
 顕わになった怒気が、大石の瞳の中に見えた気がした。
 その証拠に、発せられた大石の声はいつもより数段低い。
「そんなことない。分かるさ」
 淡々とした口調。諭すように見上げる視線。
 俺はぐっと拳を握る。
「嘘言うな…分かるわけ無い!大石なんかには分からない!!お前はレギュラーになったんだから!」
 そう、大石には分かるわけ無いんだ。
 レギュラーから漏れた俺の気持ちなんて。
「同じ経験しないと気持ちが分からないって言うのか?俺にだって想像力くらいあるぞ」
「想像なんか…!」
「確かに想像と実際とは違うだろうさ。でも菊丸、お前が俺に『分かりっこない』と言うことは、分かってもらう努力を放棄することだ」
「それは…!」
「そして同時に、分かろうとする俺の努力を踏みにじることだ」
「ッ…」
 俺は唇を噛んだ。
 大石の言うことは正しい。
 でも、理性で抑えられない感情が身体を縦横無尽に駆け巡って、簡単に大石の言葉を受け入れようとしない。
「分かるわけ無いって言葉は、何より他人を拒絶する言葉だ」
 静かに大石が言う。
「お前が俺を拒絶するならそれでもいい。そしたら俺は今後一切、お前を理解する努力を放棄するだけだ」
「……………」
「お前には俺の気持ち、分からないか?」
 分けがわからなくなって熱を帯びた心に、静かな大石の言葉が沁み渡った。
 そう、分かってる。
 大石が自分に酔っているんじゃないってことくらい。優越感に浸ってるんじゃないってことくらい。

 大石の気持ち――――俺に理解されなくて悲しい。俺を理解したいのに、拒絶されて悲しい。
 そういった気持ちが手に取るように分かって、俺は無様にも、折角渇きかけた目にまた涙を浮かべてしまった。大量に。



 夕陽に照らされたコンテナの上、二つの長い影が後ろに伸びる中、湿っぽい俺の声に答える声がある。
「…悔しかったんだよ」
「うん」
「絶対勝てると思ってたから」
「うん」
「その心の隙に結局足を掬われたから、だから俺、自分が情けなくて…」
「うん」
 俺は大方話し終えて、口を閉じた。
 相槌を打っていた大石も俺が口を噤んだことで相槌をやめ、同時に辺りに沈黙が落ちた。
 僅かに見える視界の端に、夜が侵食し始めているのが見えた。そのうち一番星が現れるかもしれない。
 俺は沈黙に耐え切れず、背後の淡いすみれ色の空を見ようと首をめぐらしかけたその時、大石が口を開いた。
「菊丸」
「ん?」
「ダブルス組む気あるか?」
 俺は予想外の展開にあんぐりと口を開けた。
「は?ダブルス?」
「そう」
 大石が頷く。
 ちょっと待った。ダブルス組む気があるかって…それは俺がダブルスをやるってこと?
「俺はダブルスに向いてないってさんざ言われてるんだけど」
 これは事実だった。
 俺は人の動きを読んだりとか計画的に攻めるのは苦手だ。だからどうしても、試合のときは直感で、身体が動くままに任せてしまう。
 シングルスではそれでもなんとかやっていけるが、戦術が重要になってくるダブルスは俺には到底無理だろう、とはよく言われていることである。
 なのに俺がダブルス??
 そう疑問に思ってると、さらに意外な一言が大石の口から飛び出した。
「もしお前にやる気があるのなら、俺と組んでみないか?」
「はぁ!?」
「嫌だったらいいけど」
 少々憮然としたように言う大石。
 ごめん、素っ頓狂な声上げた俺が悪かった。
「いや、別にイヤとかそういうわけじゃなくて…なんで俺なの?もっと他にダブルス向きなのいるじゃん」
「お前の話聞いてて、次はお前にレギュラーに上がってきて欲しいと思った。だから、ダブルスを組むという目標を作っておいたら、きっと今以上に頑張ってくれるかなって思って。そしたらお前は、次は必ずレギュラーに上がってくる。俺はそう感じた。まあ、もちろん俺もレギュラー落ちするわけにはいかないから、俺も頑張らなくちゃならないし、俺の努力の糧にしようっていう打算もあるけど」
 言って大石が苦笑する。
 俺は呆然と大石の言葉を胸の内で反芻した。
 ダブルスを組む。俺が。大石と。
 俺がダブルス…なんて奇妙なんだろ。
 でも―――。
「…おっけ、分かった。ダブルス組もう。ただし、条件がある」
 条件?と首を傾げた大石に、俺は指を一本立ててみせる。
「やるからには全国大会を目指す。どお?」
 俺がそう言うと。
「…悪くない」
 大石は言って微笑んだ。


 コンテナから下りて帰り間際。
 空は既に淡い群青色。低い天に輝くは、爪先で引っ掻いたような細い三日月。
「あ、も一つ条件」
「何だ?」
「俺のことは英二って呼ぶこと。菊丸って四文字もあって呼びにくいっしょ?」
「そーだな」
「大石は大石ね。秀一郎って長くて呼びづらいから」
「はいはい」



<了>


※あとがき※