青空は抜けるようなどと、誰が言ったのだろう。
 頭上に広がる蒼穹は濃い青。
 まるで自分をぷちっと軽く押し潰してくるかのような威圧感と重量感を伴っている―――ように、神尾には見えた。
 少々冷たい風が時折強く吹いて、校庭の黄色い砂塵を巻き上げるのを見ながら、神尾は身震いをした。今更ながら、教室に上着を置いてきたのを後悔し、内心毒づく。
 明確に言葉に表せない胸の中のわだかまりが、余計に神尾を苛つかせ―――神尾は今日何度目かのため息を、盛大に吐いた。



『恋愛危機一髪』



 事の発端は他愛もない会話からだった。
「うっしゃあ!セーフ!!」
 教室の扉を勢いよく開けて、神尾は喧騒溢れる教室に踏み込んだ。
「なんだ神尾、寝坊かぁ?」
「違げーよ。朝練長引いたの。オレはお前と違って真面目に部活動やってんだ」
「うるせぇ」
 息を弾ませた神尾に朝っぱらから絡んできた前の席のクラスメートは、そう言って笑った。
「1時間目なんだっけ?」
「数学。ところでさ、神尾」
「ん?」
「お前知ってるか?」
 椅子に腰掛けた所で出し抜けにそう聞かれ、神尾は首を傾げた。知ってるかも何も、内容を言ってくれなければ自分がそれを知っているかいないか判断のしようも無い。
「あ?何を?」
「2組の中条、とうとう告ったらしいぜ」
「はぁ!?」
 2組の中条と言えば、陸上部のエースで、少々目尻がきりりと吊り上がった切れ長の瞳と整った顔立ちで女子からの人気が高い人物である。
 女子から告白されることも多かったようなのだが、噂によると、そのことごとくを断ってきていたらしい。
 モテない男子生徒らにとっては、勿体無いとか、我儘とか、傲慢としか言いようがない振る舞いだったが、一人の女子生徒の恋心が空しく散る噂を聞くたびに、数々の憶測が飛び交ったものだった。
「あーなるほど。好きなヤツがいたからか……って、なんでいきなりこんな話するんだよ」
 神尾がそう尋ねると、クラスメートは背を屈め、声のトーンを落として囁くように言った。
「それがさ、告られたヤツってのがうちのクラスにいるみたいなんだよ」
「へえ」
 神尾はどうというわけでもなく、事も無げに相槌を打った。
 中条という人物は人気者であるから一応知ってはいるが、大して彼と親しくもない神尾は、ハッキリ言って彼が誰を好きだの、告っただの、そんなことはどうでも良かった。しかし一応相手に合わせて声のトーンを落とし、おざなりに聞き返す。
「で?誰なんだよ、中条に告られたってのは。ここまで話引っ張ってんだから、分かってるんだろ?お前」
「ああ、それがさ―――橘らしいんだ」
「…は?”タチバナ”?」
「そ。タチバナ。橘杏」
「あっ――――」
 杏ちゃん!?と叫びかけて、神尾は慌てて手で口を塞ぎ、言葉を飲み込んだ。
「なっ、なな…なっ」
 なんで、と言いたいのに、ショックが大きすぎて上手く舌が回らない。
「な、なんで」
 数秒も経って漸く思った通りの言葉が出てきたが、その先が続かない。
 会話相手のクラスメートはそんな神尾の様子に気付いているのかいないのか、勝手に続ける。
「んー、なんでだろなぁ?確かに橘って顔は可愛い…ってか美人だとは思うけどよ、性格ちょっとキツめだよな。男勝りって言うのかな、ああいうの。オレはもっと清楚で優しげなのがいいけどなあ」
 お前の好みなんかどうでもいい――神尾はそう心中で冷静にツッコミながらも、一方で冷静になれずにひたすらパニックに陥っている自分がいるのに気付いていた。

 杏ちゃんは可愛い、と思う。人懐っこいし、しっかりしているし、何より強い。嬉しい時は嬉しいと正直に言い、嫌な事は嫌だとハッキリ言う。ただ愛想笑いを浮かべるだけの女とは違う。怒るときは猛烈に怒る。正直、そうなった時の杏ちゃんは怖い。でも、そんな杏ちゃんの心根は、本当に真っ直ぐで、一点の曇りも無い。磨き抜かれたガラスのように透明な杏ちゃんの心に肉薄する度、痛快さを覚える。また、爽快で、心地良さも感じる。

 こんな杏ちゃんの魅力に勘付いている人物が自分一人だけだと思ったことは無い。故に自分以外の誰かに好かれていたとしても、それはそうおかしくないことだとも思う。
 だがしかし。
 そう思うことと、別の男が想いを寄せていると知ることとはまた別だ。
 恋をした時点でいつかは両想いになることを夢見ているのが普通であり、神尾も例外ではないのだから、恋敵の出現に気が気では無くなるのは当然である。しかもそれが学年のアイドル的存在と来た日には―――。
「中条ってメンクイだったんだなあ」
 感慨深げに呟くクラスメートに対し、杏ちゃんは顔が良いだけじゃない、という反論が喉元まで出かけた。しかし、なんとなくその反論が場違いなことに気付き、神尾は黙り込む。
 思考が一向に定まらない。よほど混乱しているらしかった。
「そ、そうだな」
 可も無く不可も無く、といった適当な返事を殆ど反射的に返しながら、神尾は授業の始まりを告げるチャイムの音を遥か遠くで聞いた気がした。



 今朝その話を聞いてから、神尾はずっと上の空だった。1時間目から3時間目の授業内容など、これぽっちも覚えていない。
 4時間目は先生が体調不良だったらしく、自習になったので、なんとはなしにぶらぶらと屋上に上がってきたのだが、頭に渦巻くのは朝の会話内容ばかりで、ちっとも気晴らしにならない。
 神尾はごろり、と寝返りを打った。ひんやりと冷たいコンクリートの床がざらり、と頬を刺激する。
「なんでよりによって中条なんだよ」
 毒づいてみても仕方の無い事だと分かっているが、次々と溢れてくる愚痴は止まらない。
「…………認めたくねぇけど…顔、いいよなー、アイツ」
 すらりと通った鼻筋、秀でた額、切れ長の瞳の目尻は顔のバランスを崩さずにきりりと吊り上がって全体を引き締めている―――中条の顔を思い浮かべ、神尾は身軽そうに上半身を起こし、頭を掻き毟った。
「ああクソッ…オレだってもう少し鼻が高かったら…。目だって、こう…」
 言いながら目尻を指で引っ張ったりしてみる。視界がぼやけ、歪む。
 しばらく歪んだ風景を見るともなしに見ていたが、やがて神尾は空しくなって大きく息を吐いた。
「アホらし…」
 小さく呟く。
 微風に流れて語尾が掻き消されたところで、神尾は空を見上げる。
 自分を押し潰してくるような空。
 同時に心を押し潰してくるような不安が、胸に重く圧し掛かる。
「中条って性格も悪く無いんだよな…。頭もそこそこいいしさ…。あんな男に言い寄られたら、フツーは靡くよなぁ…。杏ちゃん…なんて返事するんだろ………」
「神尾君、物思い?」
 聞き覚えのある涼やかな声が背後からして、神尾は思わず突っ伏しそうになった。
「あっ、杏ちゃ…」
「いけないんだ〜。自習時間なのに教室抜け出したりしてー」
 言って杏がクスクスと笑った。
「さっき担任が見回りに来たのよ」
「え、マジ!?」
「ウソ」
 ぺろりと舌を出して笑顔を浮かべながら、杏は神尾の隣に腰を下ろした。
「はい、これ。寒いでしょ、ココ」
 言って杏が差し出してきたのは、神尾が教室に置いていった上着と、300mlパックのホットココア。
「ココア飲める?」
 神尾は杏ちゃんの心遣いがとても嬉しくて、ただもうそれだけで身体が温もった気がした。
「うん、ありがとう」
 短く謝意を述べ、神尾は上着の袖に腕を通す。ココアのパックに付属していたストローをストロー穴に差しこんでココアを吸い上げると、冷えた口腔内に温かい液体がじんわりと沁みてきて、神尾はほっと息を吐いた。
 そんな神尾を暫く見つめ、杏は口を開く。
「…ねえ、さっき何考えてたの?目、こーんなカンジて引っ張っちゃってさ」
 言って、杏は先程神尾がやっていたように、両手でそれぞれ、両目の尻を引っ張った。
 神尾は危うく口に含んだココアを吹きかけた。
 何とか気力で吹き出すのは踏み止まったものの、噎せるのだけは止められず、しばし咳き込んだ後、神尾は酸欠ゆえか、それとも恥ずかしさゆえか、頬を赤く染める。
「なっ…み、み、見てたの!?」
「なーんかアヤシイ。なんでそんなにうろたえるかな」
 少し意地悪そうに笑いながら、杏が横目で優しく神尾を睨む。
「何か変なこと考えてたんでしょ?」
「べ、別に変なことなんて…」
 神尾が言い澱んでいると、杏は隣の神尾にも気付かれないほど小さく苦笑を漏らし、やおら立ち上がった。
「断ったよ、告白のことなら」
 神尾は、鼓動が瞬間的に大きく跳ね上がるのを感じた。
 いきなりのカミングアウトに半ば信じられず、数秒の沈黙が落ちる。
「…え?」
 ようやっと出てきた声はひどく間が抜けていた。
「ごめんね。実はちょっと立ち聞きしちゃってたんだ」
「ど、どこから?」
「あんな男に言い寄られたら、の辺りから」
「あ、そうなんだ」
 神尾は他に返す言葉が思い浮かばず、暫く視線を彷徨わせていたが、どうしようもなくなって、結局目を伏せた。
 すると、少しも経たない内に杏が唐突に言った。
「恋愛って難しいよね」
 見上げると、綺麗な線を描いた横顔が空を見上げていた。
 翳りの無い、いつも通りさっぱりとした表情で、杏は続ける。
「私、彼が好きだったときもあったんだけど―――」
 神尾は再びドキっとした。
「今は違うのよね」
 上空は風が早いのか、それなりの速さで流れていく雲を目で追いながら、杏は喋り続ける。
「両想いになるにはさ、タイミングも大事なのよね。お互い想ってても、時期がすれ違ったら恋は叶わないんだなーって、今回の事で思った」
 杏は未練も悔恨も何も無さそうなさっぱりした表情で笑った。
「自分からフッたけど、これって失恋って言うのかな。どう思う?神尾君」
 意見を求められて、神尾はひどく狼狽した。
 失恋じゃない、と断定するのも何だかな、という気がしたし、笑顔を浮かべる杏に向かって慰めの言葉は全くそぐわない気がした。杏の言葉を肯定するのも何だか気が引けた。
 神尾が言葉を失っていると、杏は、まあいいや、と言ってニッコリ微笑んだ。
「ね、午後の授業、フケない?」
「は?」
「なんかスカッと遊びたい気分」
 杏は大きく伸びをする。
「ね?いいでしょ?ココアの分、付き合ってよ」
 言って杏が振り返ると同時、俄かに強い風が吹いた。
 髪がぐしゃぐしゃに掻き混ぜられ、ばさばさと杏の制服がはためく。
「きゃっ!」
 無意識に叫び声の方に視線を向けて―――神尾は卒倒しそうになった。
 これ以上ないくらい慌てて、神尾は顔を背ける。急いでスカートを押さえる姿が視界の端に一瞬だけ映ったが。
 かあっと顔が熱くなって、火照った耳に当たる風が異様に冷たく感じた。
 突風は一瞬のうちに過ぎ行き、後には気まずい沈黙が残る。
「…見た?」
 恥ずかしさに頬を染め、恨みがましそうに言う杏。
「み、見てない」
「………………」
「………………」
「……ま、いいわ」
「…フケる?」
 未だ杏を直視する事が出来ない神尾が恐る恐る尋ねると、杏は乱れた心を落ち着かせるように深く深呼吸をし、笑顔を浮かべながら大きく頷いた。


<了>


※あとがき※