ギシリ。
 指先で、金網が鳴った。
 力を込めた指先が、白く色を変える。
 鼻の奥の熱さ、瞼の熱さ。全てが涙を予感させるが、自分が涙を流すより一足先に、コートの中の相棒が一滴、涙を零すのが見えた。

 金網越しに見える大石が、腕で目を拭った。
 悔しいだろう。口惜しいだろう。
 大石の心中は、今どんな言葉が渦巻いていることだろうか。
 自分を責める言葉か。
 ただ悔しいの一言か。
 それとも、負けても仕方が無かったとかそういう―――諦めの言葉か。
 いや、大石に限って、そんなことを考えるわけがない。

 きっと、大石の胸中には、悔しいの一言。自分が、校内ランキング戦でレギュラー入りをあと一歩のところで逃した時と同じ。

 でなければ、自分がこんなにも泣きたくなるわけが無い。

 他人の試合を見て、悔しくて涙しかけるわけが、無い。



『反省会』



「やっぱここに居たんだ」
 英二は、夕陽で形の良い頬や額を朱く染めた大石を見上げて言う。
「英二」
 大石が驚いたように声を上げて、振り向いた。
「そこ、元々はオレの居場所だったのに。オレって家族多いし、なかなか一人になれないから、ゆっくり一人で物を考えたい時最適だったんだぜ?でも大石ってばちゃっかり居座ってやんの」
 英二はにかっと笑いながら縁に手をかけて、いとも身軽にコンテナの上に滑り上がった。
「大石もここ、気に入ってくれたんだ?」
「ああ。静かでいい所だな。夕陽も綺麗だし。心が落ち着く」
 言って大石は、前方を見つめた。
 沈み行く太陽は大気の揺らぎで微かに震え、弱々しくも色濃い光を二人に投げかけている。
 普段からそれほど喋る方でもないが、いつも以上に寡黙な大石の姿が、少し胸に痛かった。
「……オレ、随分大石のこと捜したんだぜ?大石の試合終わった後は、大石は先輩たちに囲まれてたから雰囲気的に近付けなかったし、全部終わったら終わったで大石ってばすぐにトンズラこいちゃうし」
 英二は、大石と先輩のペアと、対する山吹中の南・東方ペアとの試合が終わってすぐ、大石に駆け寄ろうとした。何か言葉をかけなくちゃと思った。実際かける言葉は浮かんでいなかったのだが、それでも何か言わなければと思った。
 しかし、敗北を喫した大石と先輩は、すぐに他のレギュラー陣に囲まれて、慰めの言葉を受けていた。レギュラーでもない英二は、その輪に近づく事が出来ず、ただ遠巻きにその様子を見ていたのだ。
 全ての試合が終わり、いざ解散の段になって、英二は大石の姿が無い事に気付いた。
 大石はいつの間にか、こっそりと姿を消していたのだ。誰にも気付かれないように。
「ハハ、ゴメンな」
 大石が笑う。
 でもその笑顔は、英二にはどことなく悲しげに見えた。
「大石」
 英二が名を呼ぶと、その先の言葉を恐れるかのように、大石は先手を打って素早く口を開いた。
「それにしても、なんで俺を捜していたんだ?」
 急激な、強制的な話題転換に、英二は一瞬眉を顰めた。
「大石と話がしたかったからに決まってんじゃん」
「俺には話すことは…」
「オレにはあんのー」
 ぷう、と頬を膨らませて言う英二に、大石は苦笑した。
「笑うなよな。―――オレ初めてだよ。人の試合で泣かされたの」
「…………」
「自分が負けたわけでもないのにさ、悔しくて悔しくて」
 大石は顔を背ける。
「別に先輩を悪く言うつもりは全く無いけど、なんで大石と一緒にコートに立ってるのはオレじゃないんだろうって」
「…………」
「オレも一緒に、試合で泣きたかった。フェンス越しにじゃなくて、コートに立って。だってオレは大石のダブルスのパートナーだから」
「英二…」
「でもこれって、結局は泣かされたって言うより、自分に悔しくて泣いたってことなんだろうな」
 ”レギュラーになっていれば今頃は…”
 そういった言葉が、台詞の裏に隠れているのを、英二は自覚していた。
 英二は少し自嘲めいた笑みを漏らした。
 いい加減未練がましい。
「にしても、大石の泣き顔の一つでも拝んでやろうと思って来たのに、大石全然泣いてなないんだもんなー。オレだけ泣き顔いっぱい見せちゃって、なんか不公平」
 泣き顔をいっぱい見せた、というのは、この前のランキング戦の時のことを言っているのだろう。自信があった英二がレギュラーから漏れ、大石が初めてレギュラー入りしたランキング戦。
「一頻り泣いて、涙が涸れただけだよ」
「…そっか」
 大石の横目に、英二が呟いて後ろに手をつき、茜色に染まった空を見上げるのが映った。
 大石は、夕陽を真っ直ぐ見詰める英二の横顔に向かって語るように、口を開いた。
「…涙が涸れて…泣いたって始まらないなって思ったんだ。先輩とかに慰められてて、また逆に先輩を慰めたりしてて、なんか違和感を感じたんだ。慰めの中には人を思いやる暖かい気持ちが詰まっていて心地良いんだけど、慰めって次に繋がる力にはならない。お互いの傷を舐めあってるだけじゃ、全然何も変わらないんだって。とりあえずその場は立ち直れるかもしれないけど、ただそれだけ」
「…………」
「だから、ちゃんと反省をしようと思ってここに来たんだ。次に―――英二とのダブルスに繋がるように」
 大石はそう言って息を吐いた。胸の中でごちゃごちゃと渦巻いていたものを全て体外に吐き出すかのように。
 英二はそんな大石の様子を見て、なんだか無性に羨ましく思った。
 自分なら、ああいう負け方をしたらこんなに泰然と落ち着いて居られない、と思ったからだ。
 英二は自分が思ったとおりのことを、そのまま大石に伝えた。
 大石はそれを聞いて、微笑んだ。
「落ち着いたのは、英二が来てくれたからだよ」
「へ?」
「英二、俺を励ましに来てくれたんだろ?」
 そう言われて、英二は返答に詰まった。
 明確にそういう意図をもって、ここに来た訳ではなかった。
 試合直後もそうだったが、何かしら言葉をかけなくては、という一種の使命感のようなものに突き動かされて、ふらふらとコンテナにやってきたら、大石がいた。いや、大石を捜していたらコンテナに辿り着いたのか。
「励ましに…なのかな。よく分かんないや」
 正直にそう言うと、大石はクスクスと笑った。
「少なくとも、俺を慰める言葉は言わなかったろ?」
 言われてみればそうだった。特に意識していたわけではなかったのだが。
 しかしそれで一つ謎が解けた。
 大石、と名を呼んだ英二の言を即座に遮って大石が強制的な話題転換を試みたのは、英二の口から慰めの言葉が飛び出すのが怖かったのだろう。
「―――だからかな、気が楽になって…励まされた感じがした。なんとなく」
 大石は目を眇めて夕陽を見、そして言った。
「結果的に俺が励まされたんだから、励ましてくれたことになるだろ」
 いつの間にか普段の口数に戻っているということが、大石の気が持ち直した証であるのだろうとは思えたが―――。
「…そうなのかな」
 英二は釈然としないものを感じながら呟く。
 しかし、憑き物が落ちたみたいにスッキリした表情の大石を見ていると、そんな白黒つけられない曖昧さは別にどうでも良いことなのかもしれないと思えた。
 そんなことを英二が思っていたら、大石がふと振り向いた。
「そうだ、英二。俺の反省聞いてもらっていいかな?聞き手がいないと、どうにも自分の考えが正しいのか分からなくて」
 大石のその声音には、次に繋げよう、先のことを考えようという前向きな気持ちが篭っていた。
 英二は、大石が考えているその『次』が、『先』が、自分とのダブルスなのだと思うと、胸に嬉しさが込み上げるのを感じた。


 オレも一緒に涙を流したい。
 いや、その前に…負けるのは嫌だな。
 どうせなら勝利の涙がいい。


「まず第一ゲームなんだけど、このアプローチに対して…」
 大石がコンテナの天井(二人にとっては床になる)にコートを想定して、指で適当に指し示しながら口を開いた。
 英二は頷いたり、問い掛けたり、待ったをかけたりしながら、大石の反省に参加した。

 徐々に色を変える空が、そんな二人の慎ましやかな反省会を、そっと見守っていた。
 反省会は、色濃い太陽が地平線際に光輝の残滓を残して別れを告げるまで続いた。



<了>


※あとがき※