橙赤色の空に、絵筆で引っ掻いたような細い淡ピンク色の雲が流れている。
 長く伸びた影は実際の自分の身の丈を遥かに超え、細長い頭部はお気に入りの滑り台の端に引っかかっている。
 目の前には自分が築き上げた砂山。脇には水を溜めた小さなバケツ。凪いだ水面に卵黄のような丸い太陽が映っている。
 散乱したスコップやプラスチックの熊手は土塗れ。
 砂山には、既に自分の腕がすっぽり入りそうな太さのトンネルが掘られていた。
 もう一息。
 腕をつっこんで土を引っ掻くと、ぼこん、と向こう側に手が抜けた。トンネルが完成したのだ。
 頬を砂場にくっつけるようにしてトンネルを覗き込むと、向こう側の景色が見えた。
 それほど多くもないが少なくもない夕方の公園の前の人通り。
 子供の運動靴が慌しく駆けて行くかと思えば、サラリーマンの革靴がコツコツと甲高くコンクリートを打ち鳴らしていく。
 色々な足が通り過ぎ、足の先にくっついたその人の影がゆらゆらと揺れて、先行する人間を追いかける。
 ふと、見慣れた革靴がこちらに近づいてきた。
 どんどん大きくなる爪先。
「周助、まだ居たの?」
 降ってきた声に応えて顔を上げると、中学の制服に身を包んだ、まだあどけない顔の姉が呆れたような顔をしてしゃがんでいた。
「あーあ。こんなに汚しちゃって」
 姉がスカートのポケットから清潔そうなハンカチを取り出して、砂塗れの頬を拭ってくれた。
「さ、もう帰ろ?きっとお母さん、心配してるよ」
 差し出された白い手を握る。
 視界に入った自分の手は、とても小さかった。



『夢』



「………夢…」
 不二は二、三度目を瞬かせて、白く濁った視界を澄ませた。
 夢と同じ橙赤色の空が、木枠の窓から覗いているのが見えた。
「姉さん若かったな…」
 不二は夢の中の姉の姿を思い出してクスクスと笑う。
 口元に手を持っていきかけて、自分の体に毛布がかけられてあるのに気付いた。
「…あれ?」
 辺りを見回すと、同じ柄の毛布に包まった人間が数人、畳の上に転がっていた。
 その様子を見て、不二はようやっと自分が今どこにいるのかを思い出した。
 不二達青学レギュラー陣は、地区大会で優勝を収めた後、河村の誘いで祝勝会を開く為に河村の家の寿司屋に来ていたのだった。
 畳に転がっているのは英二や桃城達で、不二も含め、どうやらゲームで遊んでいるうちに眠ってしまったらしかった。まあ試合で疲れていたのだから、寝てしまうのも当然と言えば当然かもしれなかった。
 そういえば起きて遊んでいるときには毛布はなかったから、きっと河村がかけてくれたものに違いない。
(…タカさんがいないや)
 そこここに転がる毛布の塊の中には、河村らしい塊を発見できなかった。
 不二はもそもそと毛布から起き出して、音を立てないようにそっと部屋を出た。


 かわむらすしの店舗スペースまで行くと、カウンターのところで河村が包丁を研いでいるのが目に入った。
「タカさん」
「あ、不二、起きた?」
 河村が不二の姿を見止めて、包丁を研ぐ手を止めた。
「うん、僕だけだけどね。毛布ありがと。タカさんがかけてくれたんだよね?」
「ああ、いくらなんでも風邪引くかなと思って。越前も」
 河村はそう言いながら、座敷席の一角を指差す。そこでは、リョーマが綺麗に磨き抜かれた大きな机に突っ伏して微かな寝息を立てていた。僅かに上下する肩に、不二達が包まっていたものと同じ毛布がかかっている。
 不二はそれを見て微笑みながら、カウンター席に腰掛けた。
「お茶飲む?」
 河村が湯飲みに茶を注いで、不二の前に置いた。
「ありがと」
 短く謝意を述べ、白い湯気がふわりと立ち昇るのを見つめる。靄の向こう、緑茶の水面に映った自分の顔が見えた。
 切れ長の瞳、薄茶の髪。それは幼い頃から変わらない。夢で見たあの頃と。
 ふとそう思って、不二は首を傾げた。
 ―――――夢?
(…どんな夢を見た?)
 起きた直後には清明に覚えていたはずの夢の内容が、記憶から漠然と失われていることに、不二は気がついた。夢というものはえてしてそのようなもので、余程インパクトが強くない限り鮮明に覚えていられないものである。
 不二は、先程見た夢がどんなものだったか思い出そうと努めた。
 ぼんやりと、なんだかとても懐かしい想い出の一幕を見たような気がする。しかし、その夢の詳細な中身は全く失われて、懐かしい夢を見たという朧な認識だけが記憶にぽっかりと浮かび、掴もうとすればするほど指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、思い出そうとすればするほど、夢の内容が遠ざかっていく。
「どうしたの?不二」
 黙りこんだ不二を不思議に思ったのか、河村がそう問い掛ける。
「いや、夢を見た気がするんだけど、どんな夢を見たか思い出せなくて」
「ああ、あるよね、そういうこと」
 言いながら河村は、湯のみを両手で包んで、口に持っていった。
 一口茶を含んで口腔を湿らせてから、河村は口を開く。
「夢と言えばさ、最近部屋の整理をしてたら幼稚園のアルバムが出てきたよ」
「へえ」
 不二は目を丸くした。
 自分の家にも幼稚園のアルバムはあるはずだったが、母が一体どこにしまったものか、不二はそれがある場所を知らなかったために久しくそれを見た覚えが無かった。
「最後の方に”将来の夢”を書く欄があったのは覚えてる?」
「そんなのあったっけ?」
「あったんだよ。俺も忘れてたけど」
 河村と不二は同じ幼稚園に通っていた。
 その頃の記憶は不二の方も河村の方もあまりハッキリ残っていないのだが、一緒に遊んでいた記憶はある。結構親しくしていたのだろう。
 何故こんなにも記憶が曖昧かと言うと、小学校が離れたためだった。
 その間の親交は殆ど無く―――とは言っても皆無ではない―――お互いのことを忘れかけていたが、中学生になり、偶然青学で再会したというわけである。
 中学生になって再会した後、久々に河村の家に遊びに行って、小学生になりたての頃遊びに来た時につい出来心で落書きを施してしまったモノポリーが未だ残されていることに、不二は大層驚いたことがあった。それも、かれこれ二年ほど前になるだろうか。
「不二、何て書いたか覚えてる?」
「え?」
 不意に問われて、不二は考え込む。が、全くと言っていいほど、記憶に無かった。第一、夢を書く欄があったことすら覚えていない。
「…覚えてないや」
「不二の欄にはね、キリンって書いてあったよ」
 河村がくすくすと笑う。
「尤も、俺はハシゴ付き消防車だったけど」
「キリン…消防車…」
 不二はぷっと吹き出した。
「僕のはまだ動物だけど、タカさんのは無機物じゃない」
「人間以外のものになる夢って点では一緒だよ。どっちもなれっこない」
 河村が困ったように笑う。
「子供の頃って何考えてたんだか、よく分かんないよな」
「そうだね。そんな夢、絶対叶うわけないのに」
 言ってから、不二はふと心の隅に、一抹の寂寥感が漂うのを感じた。思わず呟く。
「―――絶対叶うわけない夢を何の疑惑も抱かずに見られるのって、子供の時だけなんだろうね」
 幼稚園児だった頃の自分がキリンになりたがっていたという記憶は、今は無い。しかし、記録として残っているのだから、それは確かなのだろう。
 一体何を考えてキリンになりたかったのか。
 推測する事も出来ない。
 当時の思考を把握するには、14年生きてきた自分は現実を知りすぎてしまっている気がした。人はキリンになれない。そういう当たり前の現実を。
 それが、なんとなく寂しい。
 どこか――それは過去か――に、大切な大切な何かを置き忘れてきているような、そんな喪失感。
 失ったものは、感性と呼ぶのが一番近いのかもしれないが、言葉に表してしまうと、何かが違う気もする。
 子供の頃には見えていた夢は、今はもう見えない。見られない。
「…叶わないからこそ夢って誰が言ったんだろうね?言いえて妙だ」
 不二がそう言うと、河村は何か考えるようにしばらく視線を落とし、そして、うん、と曖昧に頷いた。
「でもさ、叶えられる夢もちゃんとあるよ」
「?」
 目を上げると、河村が少し照れたような笑顔を浮かべていた。
「青学の全国進出、そして制覇。できるかどうか分からないけど、手が届かない夢じゃない。俺はそう思ってる。この夢だけは、ちゃんと叶えて現実にしなきゃ」
「――そうだね」
 そう、その夢は叶えなくちゃいけない。
 中学三年間の締めくくり。ずっとずっと、部員全員で抱いてきた夢。

 不二は思った。
 ”人”偏に”夢”で”儚い”。
 人の見る夢は儚い。自分の未来像たる夢でも、睡眠中に脳が見る夢でも。
 限界を知り、現実では叶うことと叶わぬことがあると知り、幼い時に描いた未来像たる夢は打ち崩される。脆く砕ける。儚く消える。
 睡眠中に脳が見る夢も、はっきり覚醒した後、徐々に鮮明さを欠いていく。そのうち輪郭を失い、儚く消える。
 叶わないからこそ夢。
 現実じゃないからこそ夢。
 どちらの夢も、同じ。
 でも、寝ている間に見る夢が現実になることはない。
 有り得ない将来を望むのは夢と呼ぶしかないけれど、叶わないからこそ夢というのならば、現実化ができる未来像は―――それは何と呼べばいい?
 それもやっぱり夢には違いない。
 胸に抱く理想。目標。それも、夢。
 それは儚くない夢。儚くしてはならない夢。
「不二?何考えてるの?」
「ううん、別に。大したことじゃない」
 不二は、何やら心配そうに見つめてくる河村に、くすりと微笑んだ。
 不二は河村の気を逸らそうと、強引に話題を変える。
「そういえばタカさん、最近何か面白い夢見た?」
「面白い夢?……そうだなあ……ああ、手塚と、イカ焼きとたい焼きについて口論になって、とうとう裁判沙汰になったって夢を見たな」
「何それ」
 不二は思わず吹き出す。
「いや、なんか手塚がイカ焼きとたい焼き、どっちを買って来てほしいかって聞くから、イカ焼きって答えたらさ、イカの形したたい焼き買ってきて、ほらイカ焼きだ、とか言うんだよ。で、俺が、これはイカ焼きじゃなくてイカの形をしたたい焼きだって抗議したら、鯛の形をしたものをたい焼きと言うんだからイカの形をしたものをイカ焼きと呼んで何が悪い、とか言われてさ、なんかその後も色々語られちゃって、結局白黒つけようじゃないかって話になって裁判沙汰」
「アハハ」
 真面目にイカ焼きとたい焼きについて語る手塚を想像して、不二は腹を抱えて笑った。
「タカさん、それ面白すぎ」
「うん、流石にこの夢はどうかなって思った」
 言って河村は不二と一緒に笑った。


 丁度その時だった。
 がらがら、と店の引き戸が開く音が店内に響き、そちらに目をやると、ほっそりとした影が入口に佇んでいた。
 あまりにも見慣れたそのシルエットの正体を一発で見抜いたのは、不二だった。
「姉さん」
「なかなか帰ってこないから迎えに来ちゃったわよ」
 愚痴を零すようでもなく、迷惑な風でもなく、世話を焼かせてくれるのが嬉しいと言わんばかりに、不二の姉、由美子は言った。一応名目上、顔にはやれやれといった表情を浮かべている。
「隆君、ごめんなさいね。周助が長いことお邪魔して。今連れて帰るから」
「いいえ、気にしないで下さい。僕が呼んだんだし、それにまだみんな寝てるし」
「あ、あの子誰?」
 由美子は座敷の一角に視線を向けた。
「ちっちゃい子ねー…ああ、もしかしてあの子が、アンタが言ってた越前君?」
「そうだよ」
 不二は頷く。
「こう見てると、そんなに強そうには見えないのにね…って、あら、目、怪我したの?かわいそうに」
 由美子は座敷に上がりこんで、リョーマの顔を肩越しに覗き込んでいた。
「まあ、可愛い寝顔」
「姉さん、越前と姉さんじゃ一回り違うよ、歳が」
「五月蝿いわね。そういう意味じゃないわよ」
 由美子は不快そうに顔を顰めた。
「アンタも裕太も大きくなっちゃったし、これくらいの頃が懐かしいわ」
 そう言いながら、由美子はリョーマを目を眇めて見た。
 そうは言っても、不二がリョーマぐらいの身長だった時といえば、それほど昔と言うわけでもなかったが。
「目、早く治るといいわね、おチビちゃん」
 由美子がそう言って軽くリョーマの頭を二、三度叩くのを見て、河村と不二は揃って英二を思い出し、吹き出した。
「?何よ」
「ううん、なんでもない」
 怪訝そうに眉を顰めた由美子に、不二はニッコリと笑った。
 由美子は一瞬キョトン、と弟の顔を見返したが、ニコニコと笑顔を浮かべた弟には何を訊いても答える様子の無いことを悟って、肩を竦めた。
「変な子ね。まあいいわ。―――さ、もう帰りましょ。母さんが心配してるわ」
「あ」
 立ち上がりながら言った由美子の言葉に、不二は声を上げた。
「何?」
「思い出した」
 由美子の言葉が引き金になって、記憶の中に夢が舞い戻ってきた。唐突に、夢で見た風景が脳裏で像を結ぶ。
 確か夢の中で、由美子が同じ台詞を言っていた。帰ろう、と。母が心配している、と。
「さっき見た夢?」
「そう」
 湯飲みを置いて尋ねてくる河村に、不二は頷いた。そして言う。
「昔の夢だ。公園で遊んでたら、姉さんが迎えにきて―――――あの頃の姉さん、若かったな」
 不二の言葉を聞いて、由美子は盛大に顔を顰めながら振り向いた。
「何ですって?聞き捨てならないわね。あの頃って何よ?」
「えー?別に」
 くすくす笑いながら不二は言う。
「今も若くて綺麗だよ、姉さんは。ほら、もう帰るんでしょ?行こうよ」
 空になった湯飲みをカウンターに置く。
「タカさん、今日はありがとう。名残惜しいけど、一足先に帰らせてもらうね」
「うん。気を付けて。お姉さんも」
 河村が由美子に声をかけると、今にも不二の頭にチョップしようとしていた由美子はその動きをぴた、と止め、微笑んだ。
「ありがと、隆君」
 仲の良い姉弟だな、とその様子を見つめつつ、河村は二人の背に向けて手を振った。
 出際、不二がくるりと振り向いて行った。
「タカさん、夢、叶えようね」
「うん」
 河村が頷くのを見届けて、不二は引き戸を閉じた。
 夢って何よ、と問い掛ける由美子の声が、扉越しにくぐもって聞こえた。
 不二が全国優勝、と答えているのが、僅かに耳に届いた。
「きっと叶える…」
 河村は、先程まで不二が手にしていた湯飲みと自分の湯飲みを手に取り、呟いた。
 静かになった店内にリョーマの寝息が響き渡る。
 リョーマはどんな夢を見ているのだろう、と、河村は漠然と思った。


<了>


※あとがき※