今日はクリスマス。
 街は色とりどりのイルミネーションで飾られ、目がチカチカと痛い。
 浮かれたような恋人たち、家族の待つ家に急いで帰る浮き足立ったサラリーマン。
 電飾に飾り立てられた街で遊ぶ人たちの心は、最早クリスマスを何故祝うのか、根本を理解していない。
 手段と目的が逆転してしまって、今やクリスマスはただ単にお祭騒ぎをする口実と化している。
 しかし、クリスマスで沸き返る街の雑踏を足早に駆け抜ける桜乃の心には、確かに”祝う心”があった。
 だがそれはイエスの誕生を祝いたい心ではない。桜乃は別にキリスト教を信仰しているわけではない。

 今日は、春からずっと思いつづけていた恋の相手の誕生日。イエスと同じ日に生まれた彼。
 桜乃は、彼の誕生日を祝いたかった。
 彼が―――リョーマがこの世に生まれてきてくれたことに感謝を捧げたかった。
 しかし、彼に渡すプレゼントの包みはクリスマス仕様。
 プレゼント用にしてください、と言ったら、クリスマスプレゼントにされてしまった。
 クリスマスなんてどうでもいい。
 これは、リョーマの誕生日を祝ってのプレゼントなのだから。



『降誕祭の夜』



 桜乃は胸に抱いた包みを抱えなおすようにして腕に力を入れた。腕の中で、紙袋がくしゃりと僅かに音を立てる。
 「どうしよ……」
 桜乃は、リョーマの家の前まで来ていた。
 家を出たときには、リョーマに直接手渡すつもりだった。
 しかしここまで来て、リョーマの家の固く閉ざされた門を見て、その決心は急速に鈍った。

 インターフォンを押して、そして家の人の誰かが出たら、竜崎です、って名乗って、それから、それから―――。

 そうやって自分の部屋で、頭の中で何度も何度もシミュレーションしたはずなのに、伸ばした指の先、インターフォンの呼び鈴がどうしても押せない。
 指先を伸ばしては引っ込め、伸ばしては引っ込めを繰り返し、桜乃は、ほう、と息を吐いた。薄闇の中に、真綿のように白い呼気が漂う。
 既に夜と呼んでも差し支えがないほど、街灯の光が届かない所には闇がわだかまり、人通りも車通りも少ない閑散とした道で、桜乃は立ち尽くす。

 もう一度、冷たくなった指をインターフォンの呼び鈴に伸ばす。
 胸が早鐘のように高鳴り、うまく息ができない。
 震えた指先は、刺すような寒気で真っ赤になっていた。
「うう、押せないよ…」
 腕を下ろして、桜乃は視線を上げた。
 二階の窓に電気が灯っている。
(あそこ、確かリョーマ君の部屋だよね)
 桜乃は、無駄だ、空しいと思いながらも、心の中で必死に呼びかける。
(リョーマ君、私がここに居るのに気付いて…)
 しかし当然、いくら心中で呼びかけてみても、部屋の中に居るであろうリョーマに何かが伝わるはずも無く、無常にも二階の窓はぴっちり閉ざされたまま。
 桜乃は無駄だと思いながらもどこかで一縷の望みを託していたその視線を下ろした。
 胸中に絶望が押し寄せる。
 門扉の横を見やると郵便受けがあったが、胸に抱えたリョーマへのプレゼントは、細いその隙間から突っ込めるほどの大きさではなく、桜乃は再度呟いた。
「どうしよう…」


 その時。
「何か御用?」
 突然背後から話し掛けられ、桜乃は飛び上がらんばかりに驚いた。
 三つ編みを翻して桜乃が弾かれたように振り向くと、そこには、艶やかな長い黒髪をそのまま自然に垂らした、20歳前後の女性が立っていた。
 雪のように真っ白いロングコートに身を包んだその女性の腕には、ケーキ屋の袋や食材、飲料類が入ったナイロン袋がかけられている。
 その女性は小首を傾げて言う。
「インターフォン壊れてたかしら?こんな所で待たされて、寒かったでしょ?中に入る?」
 女性の提案を聞いた瞬間、桜乃はチャンスだ、と思うと同時、どうしようもなく不安で高まる鼓動を感じた。手が、体が小刻みに震えそうになる。

(プレゼント…一体どういう顔で、何て言って渡せば良かったっけ?リョーマ君は、一体何て言って受け取ってくれるの?どんな顔してくれるの?)

 突然訪れた機会に、桜乃はひどく動揺していた。
 心の準備が全く出来ない。
 千々に乱れそうになる心をかき集めようとすればするほど、平静から遠ざかっていく。

(あれほど望んだ、リョーマ君に直接渡せるチャンスなのに―――)


 桜乃は、暫く俯いていたが、やがてふるふると首を横に振った。

「いいんです。大した用じゃないので…」
「そう?」
 門扉を通り際振り返った女性が、目を丸くするのが見えた。
「でも…」
 呟いた女性の目は、桜乃の胸元に注がれていた。
 物問いたげな視線を感じて、桜乃は一瞬手の中のプレゼントを見下ろす。
「…これは……」
「リョーマさんに?」
「!」
 女性が、やっぱりそうなのね、と言ってふっくらと笑った。
「やっぱり中に入らない?リョーマさん、いるはずだわ」
 女性が見上げた視線の先には、先ほど桜乃が見上げていたのと同じ窓。
 桜乃もつられて窓を見上げる。闇の中の四角い光が徐々にぼやけていった。
 目の奥が熱い。
 桜乃は瞼に溜まった涙を落とさないように気をつけながら、やっぱり首を振る。
「でも折角持って来てくれたのに」
 困惑した表情を浮かべる女性。
 本当に気遣ってくれていることが手にとるように分かって、桜乃は冷えた体の芯がほんの少し熱を持った気がした。

 桜乃はしばらく迷った後、意を決して言う。
「あの……………じゃあ、これ……リョーマ君に、渡して…頂けますか?」
 恐る恐る、腕の中のプレゼントを前に差し伸べる。すると、女性の両手がふと伸びてきて、腫れ物を触るように、プレゼントをそっと柔らかく包んだ。
「構わないけれど…いいの?直接渡さなくて」
「とても…渡せそうにないから」
「そう」
 女性は慈しむように桜乃を見ながら、微笑みを浮かべた。
「本当にリョーマさんを好いてくれているのね」
「…!」
「ちゃんと渡しておくわ。安心して、ね」
 柔らかい微笑を向けられて、桜乃は泣きそうになった。
 かろうじてその衝動を堪え、一つ頷いて、くるりと踵を返した。
 涙を見られまいとして、自然駆け足になった。一刻も早く立ち去りたかった。
 背後で女性が何か言ったようにも思ったが、振り返れなかった。
 不甲斐ない自分が、とても情けなかった。

「私が朋ちゃんだったら、きっと、渡せたのに……」

 弾む息の合間にそう呟いて、とうとう涙が零れた。



「あの、名前…!」
 白いロングコートに身を包んだ女性―――菜々子は、リョーマにプレゼントを持って来てくれた女の子の名前を聞くのを忘れたことを、桜乃が踵を返して去りかけて初めて気がついた。
 慌てて声を上げたが、女の子は、長いおさげをぱたぱたと揺らしながら、小走りに駆けて行った。
 走って追いかけたら間に合うかも、と、一瞬足を踏み出しかけたが、自分がケーキやら食材やらいろいろ厄介な荷物を持っていることを思い出し、結局やめた。
「……行っちゃった」
 菜々子は手の中に取り残された桜乃のプレゼントを見る。
 クリスマスのプレゼント包装。
「クリスマスプレゼントなのかな?誕生日プレゼントなのかな?」
 小首を傾げながら玄関の扉を引くと、丁度カルピンを抱きながら階段を降りてくるリョーマと目が合った。
「おかえり」
「ただいま」
「遅かったね。混んでたの?店」
「ええ。でもそれだけじゃないのよ。はい、これ」
 菜々子は、先ほど玄関先で受け取ったプレゼントを差し出す。
「何これ」
「見たら分かるでしょ。プレゼント」
「俺に?」
 リョーマが手を伸ばしかけると、カルピンがぴょん、と跳ねて器用に床に着地する。
 ブーツを脱ぎながら、擦り寄ってきたカルピンの喉を撫でてやり、菜々子は頷く。
「ええ、そう…って、ああ、私からじゃないの」
「は?」
「誰なのかしら?名前聞くの忘れちゃったんだけど、わざわざ家まで持って来てくれた子がいたの。さっきまでそこで話してたんだけど。その子からのプレゼントよ」
「はあ。名前聞くの忘れたの?菜々子さんドジだね」
「何よ、リョーマさんてば。でも、中に入らないかって再三誘ったんだけど、断られちゃった」
 クスクス笑いながらそう言うと、リョーマはなにやら考え込んでいたが、やがて心当たりがあったのか、あ、と声を上げた。
「特徴はどんなだった?」
「二つの長い三つ編みをしてたわよ」
「ああ」
 リョーマは得心したように頷いた。
「誰か分かった」
「へぇ、誰?可愛い子ね」
「竜崎」
 リョーマは短くそれだけ言って、プレゼントを持って階段をまた昇っていった。カルピンが廊下に取り残されて、リョーマの後姿を見上げながら恨めしげに鳴く。
 そんなカルピンを抱き上げ、菜々子はカルピンと共にリョーマの背中を見つめた。
 プレゼントの送り主が明らかになった時のリョーマの表情を思い出し、菜々子は微笑みながらカルピンに語りかける。
「まんざらじゃないのかな、リョーマさん。だと、良いね」
 とても内気そうに見えたおさげの女の子。
 自分もそれ程闊達な方じゃなかったから、菜々子は、うっすらと涙を浮かべながらプレゼントを渡してくれたあの女の子の淡い恋心を、なんとなく応援したいなと思っていた。



 やがて暫くして、リョーマが手ぶらで階下に降りて来た。
「リョーマさん、中身はなんだったの?」
 机の上に料理を運びながら菜々子がそう問うと、リョーマは少し肩を竦めていった。
「ナイショ」
「リョーマさんのいじわる」
 菜々子が笑いながらむくれると、リョーマも笑って既に皿に盛られた料理に手を伸ばす。
 それを牽制しながら、菜々子は尋ねる。
「そうそう、気になってたんだけど、あれはクリスマスプレゼントだったのかしら。それとも誕生日プレゼントだったのかしら」
 ひょい、と料理の載った皿を持ち上げてリョーマの手が届かない所に置く菜々子を軽く睨み、リョーマが答える。
「誕生日プレゼントだった」
「へえ、どうして分かったの?」
「カード入ってたから」
「何て書いてあったの?」
 リョーマは一瞬口を開きかけたが、また閉じた。
「…ナイショ」


 リョーマは、部屋の中でプレゼントを開けた光景を思い浮かべる。




 プレゼントに入っていたメッセージカードには、テストのたびにノートを借りて、そこで見慣れていた字が、整然と二列だけ並んでいた。

『誕生日おめでとう。
    リョーマ君の13歳という年が、良い年でありますように』

 その、たった二行。
 署名もない。
 故意に書かなかったのか、忘れたのか。
 リョーマは寸分も迷わず、後者の方だろうと断定した。
「竜崎もドジだな」
 そう鼻で笑いながらも、クリスマスとは全く関係なく、自分の誕生日を祝ってくれる人がいることを、リョーマは少し嬉しく思った。
 クリスマスなんてどうでもいい。
 イエスの誕生日だってこともどうでもいい。

 今日は、リョーマがこの世に生を受けた記念日。



<了>



※あとがき※