『ACCIDENT』



 正面から吹き付けてくる強風は、ここ2、3日の小春日和が幻に思えてくる程に容赦なく冷たかった。最近折角春めいてきたと思っていたのに、これでは冬に逆戻りである。
「うおー!さみぃ!さみぃぜ!!」
 桃城は寒風と戦いながら、必死にペダルを漕いで叫ぶ。

 昨日期末テストが終わり、それまで休みになっていた朝練が今日から開始されることになっていたのだが、久々の早起きに、桃城は案の定寝坊した。
 そういうわけで今、必死に、それこそ出せる限りのスピードで先を急いでいるのである。

 いくつか信号を無視して、止まることなく突っ走る。朝早いため、交通量が少ないのが幸いだ。
「よっしゃ!あと少し!!」
 桃城の正面に、青学の敷地をぐるりと囲む煉瓦の壁が現れた。
 その壁に沿って暫く進み、角を曲がると正門前に出る。
 毎度のことながら、こういう風に遅刻して急いでいる時などは、この目の前にある壁に何故門がないのか、と理不尽な怒りが沸いてくる。もし門があれば1分以上早く目的地―――つまりテニスコート―――に辿り着く事が可能なのに。
 しかし無いものは仕方がない。このままのスピードで行けば、間違いなく壁に衝突する。
 桃城はペダルを漕ぐのをやめ、慣性に任せて、スピードをほんの僅か―――ぎりぎり壁に沿って曲がれる程度に落とした。とはいえ、まだかなりのスピードが出ている。
 しかし桃城には曲がりきれる自信があった。乗りなれた愛用のチャリだ。既に肉体の一部と化していると言って過言ではない。
 桃城は壁の手前、絶妙のタイミングでハンドルを切った。
 感覚的に何の問題もなかった。このまま行けば曲がれるはずだった。
 しかしアクシデントは起こった。
「っ!?」
 突如、目の前の道路に小さな物体を発見したのである。
 丸っこく、毛むくじゃらのモノ。
 それは、迫り来る車輪の恐怖からか、はたまた自分の存在を知らしめようとせんがためか、小さく消え入るような声で、ニャーと一声鳴いた。
 桃城は零コンマ一秒の僅かな時間で、道に蹲る毛むくじゃらが猫であることを察知した。
「なっ!!」
 桃城の体は、それを避けようと意識する前に動いていた。反射的にハンドルを急転回させて、道に蹲った子猫を避ける。
 しかし余りにも瞬間的な動作だったために、身体のバランスが腕の動きに付いて来れなかった。
 自転車が傾いだと思った瞬間には車輪は道路の上を大きく斜めに滑って、桃城は平衡感覚を失っていた。
 一瞬無重力状態に置かれ、胃を直接撫でられたような不快感が襲った直後、けたたましい音を立てて桃城はその場に転倒した。
 全身を襲う衝撃。そして激痛。
 桃城はあまりの痛みに息を飲んだ。
「クソ…」
 何に対するでもなく毒づき、自分の身体の上に圧し掛かるようにして在った自転車を払いのける。
 痛む節々を励ましながら、桃城は身を起こした。
「ってぇ〜〜〜」
 右腕を押さえる。転倒した時に道路で擦った部位だ。
 家を出る時点で朝練の遅刻が確定だった為に、制服ではなくジャージを着てきたのだが、見事に袖の表面が破れて、裏地が見える程になっていた。
 押さえると、焼け付くように痛い。きっと細かい引っ掻き傷のようなものが服の下で出来ているのだろう。
 視線を移すと、膝の部分は完全に破けており、傷口からじわりと血が滲み出てきていた。また、膝から下、脛の部分も同様に破れかけており、じくじくと痛んだ。こちらも、出血量は少ないが浅い傷がたくさん出来ているのだろうと推測できた。


「ニャー」
 か細い鳴き声が、痛みに眉を顰める桃城の耳に届く。

 桃城はそれまですっかり忘れていた。
 事故の原因になった子猫の存在を。

 桃城は振り向いた。
 子猫が身体を小刻みに震わせながら、必死で鳴いている。まるで全身で何かを訴えるように。
 あまりにも小さくか弱そうなその塊に怒る気など全く起こらず、桃城は這いずるようにして猫に近づいた。
「お前な、いきなりこんなとこに出てきたら危ないだろ」
 言いながら手を伸ばすと、猫は一瞬びくりと震えて後退った。
「―――って、オレがいきなり飛び出したことになるのか。ごめん、驚かせたな」
 子猫は暫く桃城を見つめていたが、やがてよたよたと頼りない足取りで擦り寄ってきた。指の先を柔らかな毛がくすぐる。
「お前、迷い猫か?捨て猫か?」
 片手で簡単に持ち上げる事のできる小さな子猫を引き寄せて、桃城は胸に抱いた。
 元はオレンジがかった茶色のトラ縞のようだったが、薄汚れて所々灰色の毛並みになっている。その有様が、この子猫が迷い猫であれ捨て猫であれ、何日も外を放浪していたことを如実に表していた。

 手から伝わってくる子猫の身体は痩せ細り、骨ばっていた。
 よたよたと桃城に近寄ってきたのは、幼くて満足に歩けないせいかと思っていたが、もしかすると栄養失調気味なのかもしれない。
「うーん、どーすっかな」
 今更置いて行く気にもなれず、桃城は暫く考えたが、とりあえず部室に行けばなんとかなるかと思い、子猫を胸元に放り込んだ。
 落ちないように服の上から子猫を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。



 瞬間、激痛が足首から脳天を突き抜けた。

「―――ッ!」
 声にならない悲鳴を喉の奥で上げて、桃城はたたらを踏む。
 そして再度、右足を下ろすと同時に襲う激しい痛み。
(やば…)
 桃城は顔を顰めた。
 じっと十数秒その場に立ち竦んで、足首から立ち昇ってくる痛みに耐える。
 激しい痛みのせいで感覚が無くなり、がくがくと震えそうになる膝を気力で押さえ、ようやく痛みに慣れたと感じたところで、おそるおそる、足の裏で地面を擦るように一歩踏み出した。
「!」
 それでも片足にかかる自重で、足首に激痛が走る。
「いて…」
 しかし登校時間にはまだ間がある今、人通りは皆無に等しく、助けてくれる人物は居そうにない。
 右足首を中心として全身を駆け巡る激痛に目眩を覚えながらも、桃城は気力と根性を糧に、倒れたままになっている自転車の側まで自力で寄ろうとした。

 丁度その時。

 いきなり空から声が降ってきた。
 まるで困窮した人間を助けに神か天使かが降臨してきたような、それはもう絶妙なタイミングであった。
 が。
「あっれー?桃じゃん」
 声はいたって軽い調子だった。
「……は?」
 桃城が頭上を見上げる。
 すると、塀の上に頭を出した英二が、桃城を見下ろしているのが見えた。




 どうやら英二は、手塚からいつもの調子でランニングを言い渡され、走らされていたらしい。
 そこに塀の外から騒々しい物音が聞こえたので、好奇心に駆られて見てみたら、そこに桃が立っていた、とそういうわけらしかった。

 英二の手を借りて部室まで辿り着いた桃城は、大石に手当を任していた。
 大石の助手をするように、英二は傷薬やガーゼを手に、桃城の隣に座っている。
 一通り目に見える傷を消毒した後、大石は桃城の足首の異変に目をやる。
 真っ赤に腫れ上がった桃城の足首を見て、大石は眉を顰めた。
「かなり腫れているな」
 大石の後ろに立って桃城を見下ろしている手塚が、大石の心中を代弁するかのように言う。
 すると、その更に後方から、「うわ」だの「痛そう」だのと呟く声が聞こえてきた。
 気付けばいつの間にか、大勢の部員たちが部室を囲んでいる。
 ランニングに行っていた英二に半ば背負われるようにして、ボロボロの体の桃城がいきなり練習中に現れたのだから、気になるのも無理はあるまい。
 しかし手塚は後方を振り返り、一喝する。
「お前たちは練習に戻れ!」
 手塚の鶴の一声で、部員たちは蜘蛛の子を散らすようにあたふたとコートに戻っていく。
「…捻挫だと思いますけど」
 部員が全員コートに戻ったのを見届けてから振り返った手塚に桃城はそう告げたが、手塚は首を縦に振らなかった。
「骨折の疑いもある。大石に応急処置をしてもらったら病院へ行け。担任には言っておいてやる。怪我の理由は何だ?」
 桃城が答えようと口を開きかけると、やおら英二が声を上げる。
「あー!」
「何だ菊丸」
 手塚が不機嫌そうに問うと、英二は桃城の胸元を指して言った。
「桃にムネがある!」
 ぶっ。
 大石が吹き出すと同時。
 ずるっ。
 手塚が腕を組んだまま、肩をコケさせる。
「は!?」
 言われた当人も何が何だか分からず素っ頓狂な声を上げたが、直後、胸元に子猫を突っ込んでいたことを思い出した。
「あ、違います違います!」
 桃城が胸元のチャックを下ろすと、稚い子猫がぴょこん、と顔を出す。
「わー!可愛い!!」
 英二が目を輝かせる。
「さっきそこでコイツを轢きそうになって。慌てて避けたから転んじゃったんスよ」
 英二は子猫に手を伸ばす。
 にー。
 子猫は一声鳴いて、英二の手に体重を預ける。
 英二は猫を軽々と持ち上げ、まじまじと猫の顔を見た。そして猫の額に自分の額を当ててこしこしと擦る。
「お前、か〜わいい顔してるな」
「そうか?どんな猫でも同じ顔に見えるが」
 ようやっと「桃城にムネがある」発言のショックから立ち直った手塚がそう言うと、英二がムッと膨れた。
「なんでだよ〜。ほら、この目元なんかくりくりでめっちゃ可愛いじゃん!」
「どの猫もそんなものじゃないのか?」
「もー!手塚のバカチン!」
「バカチン…」
 大石が呟いてぷくく、と笑うのを、手塚はキッと睨む。
「悪い、手塚。でも猫の顔にもちゃんと個性があるよ」
 大石は苦笑いを噛み殺しながら、英二の膝の上に載った子猫の耳の後ろをくりくりと掻いた。そのまま手を滑らして喉元を指先でくすぐってやると、ゴロゴロと気持ち良さそうに鳴く。
「そうか?」
 手塚は目を細めてくつろいだ様子の子猫に顔を近づけた。すると。
「いててて!」
 英二が唐突に叫ぶ。
「ちょっ…お前、爪立てるなって!」
 ニャー。
 子猫は身を退き、鼻の上に皺を寄せて一声鳴く。どうやら威嚇しているらしい。あまりにも痩せっぽちなために、そんな覇気は微塵も出ていなかったが。
「いててててて」
「嫌われてるらしいな」
 手塚が小さく息を吐いて身を引くと、子猫はまた大人しく英二の膝の上にちょこんと座す。
 英二はそんな猫の背を撫でてやりながら手塚を見上げて真面目に言い放つ。
「手塚、ニャン相が悪いんじゃないの?」
『ニャン相…』
 桃城と大石がぷぷっと笑う。
 瞬間、手塚にぎろりと睨まれて、二人は同時に声を飲んだ。
「そ、それよりこの子猫、ちょっと痩せすぎじゃないか?」
 大石が慌てて話題を擦り替える。
「そうなんスよ。だからほっとけなくてつい連れてきちゃったんですけど…」
 ナイス大石先輩!と心の中で大石を賛美しつつ、桃城は渡りに舟とばかり話を合わせる。そして言いながら、手塚を盗み見る。
 動物嫌いというわけではなさそうだが、部室に連れてきてしまって本当によかったのだろうか。
 内心そんなことを思っている桃城の視線に気付いたのか、手塚が桃城の方をちらりと見た。
「とりあえずそいつにミルクでもあげろ。そのまま放り出すのは後味が悪い」
『!?』
 三人は一斉に手塚を見る。
「何だ?」
「いや、まさか手塚がそんなこと言うとは思わなかったから」
「衛生上良くないとか言ってすぐ放り出せって言うかと」
「手塚といえども、さすがにこんな痩せっぽちな子猫をすぐ捨てて来いなんて無慈悲なことを言うとは思ってなかったけど、でもなあ。珍し過ぎ」
「………………」
 口々とそう言った三人の言葉に、流石に返す言葉を失って、手塚は憮然とした表情であらぬ方向を見た。
 しかしすぐに我に返って、手塚は言い置く。
「そのままここで飼うなどと言い出さないのが条件だ。とりあえず体力をつけさせて、それから里親を探せ」
「オッケーオッケー!寝床はこのダンボールでいいかな?」
「あ、英二、ちょっと待った。この要らないタオルを敷いて…」
 桃城は、かいがいしく子猫の寝床を作り始めたゴールデンコンビの背中を眺め、次に手塚に視線を移す。
 手塚も腕を組みながら桃城を見下ろしていた。
「猫を助けて大怪我してどうする」
「すんません」
「安静にして早く治せ。あと、猫の世話はお前がやれ。どうせその足では暫く部活に出れないだろう」
「そーッスね……分かりました」
 桃城は頷いた。

 猫がニーニーと絶え間なく鳴いているのが聞こえてくる。
 それはなんとなく自分を呼んでいるような気がして。
(俺のニャン相はいいのかな?とりあえず威嚇はされなかったもんな)
 桃城はふと、そう思った。



<了>




※あとがき※