『Handmade Chocolate』



 お世辞にも綺麗とは言いがたい、数十年使い古された教室の片隅、そこだけが何故かすこぶる鮮やかに目に映るのは、そこに杏が座っているからに他ならない。

 杏がいると途端に、古ぼけた教室が華やかになる気がする。
 もちろんそれは「気がする」というだけで、実際に物理的に何かが変わるわけでもない。
 しかし杏の姿があるとないとでは、教室から受ける印象が全然異なる。
 それはやはり自分が杏を好きだからで、杏が教室にいる他の誰よりも自分とって特別な存在である証なのだろう。


 休憩時間中の喧騒がまるで耳に入っていないかのように、杏は机の上に頬杖をついて、一人目を伏せていた。
 目線の先には薄い雑誌。
 写真が掲載された光沢のあるページをパラリと捲るその仕草が、漫画雑誌などをパラパラとぞんざいに繰る自分とは違う優雅さに満ちているように見えて、更に、教室のその場所だけが浮き立って見えた。
 神尾は、浮き立った世界の中一人雑誌に没頭する杏に声をかけるかかけまいか、ひどく迷っていた。
 それもこれも、杏を中心にしたその世界が、自分が入ることによって壊れてしまうような気がしたからだ。
 それほどまでに、杏が釘付けになっている雑誌に向ける眼差しは真剣で、他の何者も受け付けないような一途さに満ちていた。
 しかし。
 一瞬、杏は虚空に目をやった。
 そして、杏を見る神尾に気付いた。
「あ、神尾君、いいところに」
 実のところ神尾は先ほどからずっと杏を眺めてたのだが、杏は今になって初めて、神尾の存在に気付いたらしかった。
「ねえ、どれがいいかしら?」
 杏は言いながら、最前まで穴の開くほどじっと見ていた雑誌を神尾に見せた。
 その雑誌は、お菓子のレシピが載っている雑誌で、バレンタイン特集のものらしく、表紙には、艶やかな黒褐色のチョコレートでコーティングされたチョコレートケーキが載っていた。
 神尾はどきり、とする。
 去年のバレンタインは瓶詰めのキャンディで、テニス部の男子全員同じ物を貰った。つまり義理。それとなく聞いてみたところ、本命はないとのことだった。
 今年も告白はおろか、友達以上の何の進展もみられていないので、去年と同じようにテニス部員のみ義理を貰えるものだと思っていた。
 なのに手作り雑誌を杏が見ている。
(まさか俺に…?)
 一縷の希望が神尾の胸に過ぎる。
 だが。
(ンな都合の良いことがあるワケないよな)
 瞬時に考えを改める。
(ってことは…)
 神尾は、杏が誰か自分以外の別の男に手作りチョコを渡すつもりなのだと思った。そう思うほうが、より納得できる。
 そうやって思考が帰結したことに対して一抹の哀しさを覚えたが、直後に、頭の中にフッと疑問が湧いた。
(まさか杏ちゃん、誰か好きなヤツが出来たのか?)
 手作りでも義理チョコというのは存在するものだが、その時の神尾の頭の中は短絡的に、『手作り=本命』の方程式が成り立っていた。
 誰にあげるのか、と漠然とした嫉妬が胸を渦巻く。
 不安でドキドキと鼓動が速くなり、一言も声が出なかった。
「神尾君?」
 沈黙してしまった神尾に、杏が不安そうに声を上げた。
「そんなに真剣に考えなくてもいいよ?」
 心配そうな杏の声に、神尾はハッと我に返る。
「あ、いやその、だって本命にあげるなら、ほら、ちゃんと考えなきゃ…」
「?誰が本命にあげるって言ったの?」
「は?」
 神尾は間の抜けた声を上げる。
 そして神尾は杏に言われて初めて、杏が「手作りチョコを本命の人のために作る」などと一言も言ってないことに気付いた。
 完全に早トチリであった。
 神尾はかあっと頭に血が昇るのを感じた。
「やだ、神尾君、手作りチョコは全部本命行きのモンだと思ってたの?」
「あ、いやだって……」
 神尾は手作りチョコが自分の中で何か神格化されていたことに初めて気付いた。
 手作りという行為には作った人の思い遣りが込められており、手間暇かけることが愛情を示す証になるのだと漠然と思っていた節があった。
 しかしそれを口に出して説明することはできず、神尾はまた黙した。
 続く言葉はないと判断したのか、杏はクスリと笑って言った。
「今受験で大変な兄さんの気を少しでもほぐそうと思って、美味しいチョコレート菓子を作って、バレンタインであげようと思ったの」
「ああ、なるほど」
 受験で大変な兄、というのは、不動峰中学男子硬式テニス部元部長の橘桔平である。
 少し前までは、夏で引退したものの身体を訛らせたくないのか、それともただ単に身体が疼くのか、かなり頻繁にテニス部のコートに来ては後輩に混じってテニスをしていた。
 あまり頻繁に来るので受験勉強の方は大丈夫なのか、と畏れ多くも尋ねた事もある。
 しかし尋ねるたび橘はいつも笑って、大丈夫だ、と言っていた。
 事実、定期テストや模試でも、橘の成績が悪かったためしなど一度も無い。一体いつ勉強しているのやら不思議な程であった。

 何はともあれ、足繁くコートに来ていた橘の姿を、最近は見ていなかった。
 流石に受験が本番に近づいてきたので、テニスは自重しているのだと思われる。
 杏の言葉からすると、その通りだったのだろう。

(杏ちゃんは橘さん想いだなあ)
 兄想いの杏に神尾が心を和ませていたのも束の間。

「で、好きなチョコレート菓子作ってあげるって言ったらさ、”出来不出来の分からない手作りより美味しい売り物のチョコレートの方が良い”って言いやがったのよ」
 杏は憤懣やるかたない、といった体で言う。
「大体兄さんってデリカシーが無いのよね。かーわいー妹が折角兄さんのためだけにチョコ作ってやるって言ってるのにさ。なんであんなのがモテるのか分かんないわ」
 トゲをあちこちに生やした口調と、先ほどの兄想いの杏との雰囲気のギャップに、神尾は危うく咳き込みかける。
「まー、たくさんチョコレート貰って来てはちゃんと自分で食べてるから、舌が肥えているんだろうとは思うけど。自分で全部消費するのは偉いと思うわよ。でもそれとこれとは話は別よ。もうちょっと言い方があると思わない?ねえ神尾君」
「え、ああ、うん、そうだね」
 いきなり話の矛先を向けられて、神尾は反射的に頷く。
「神尾君もそう思う?だからあたし、リベンジしてやろうと思って」
「り、リベンジ?」
 突如出てきた不穏な発言に神尾が鸚鵡返しに尋ねると、杏は、うんそう、と大きく頷いた。
「すっごく美味しい手作りチョコを作って兄さんを見返してやるのよ。度肝抜いてやるのよ。見てらっしゃい、兄さん。―――ってなワケで神尾君、どれがいいと思う?」
 杏が言いながらパラパラとページを捲った。
 次々に過ぎ行く美味そうなチョコレート菓子の写真。
 しかしチョコレートの種類にも菓子の分類にも大して興味の無い神尾は、どのチョコレート菓子も同じ物のように見えてくる。まして作った事も無いのだから、そう感じるのは当然かもしれなかった。
 だから。
「………ど、どれでもいいんじゃない?」
 思わず神尾はそう言う。
「なによー。もうちょっと真剣に考えてよ」
 神尾の言葉に杏が額を曇らせてそう抗議するが、神尾にはどこがどう違うのか良く分からないのだから意見のしようがないというものである。
 神尾はあたふたとパッと頭に閃いた考えを述べる。
「あ、杏ちゃんが橘さんへの想いを込めて作ったものなら、橘さん喜んでくれるよ、きっと」
「買ったものの方がいいって言ったわ」
 不貞腐れながら言う杏に、神尾は更に言い募る。
「そんなの、照れ隠しだろ。違う?」
「……まあそうでしょーね」
 杏はそう言って頬杖をついて考え込む。
 視線を窓の外に投げた。その視線の先には対面する校舎にある図書館。
 図書館の窓際に並んでいる自習用の机の一隅に、話の中心人物、橘桔平の姿が見えた。
「…仕方ない、許してやるか」
 杏は目元と口元を和らげてそう呟いた。
 そして脇に立っている神尾を見上げる。
「ありがとね、神尾君。まあ適当に何か作るわ。兄さんの為に。おいしいって言ってもらえるように頑張る」
「うん、頑張って」
「お礼に、神尾君にもおすそ分けするね、手作りチョコ」
 杏はそう言って微笑んだ。

 杏の手作りチョコ。
 夢のような話だった。
 それが兄である橘桔平の為であろうと、杏が作ったものには変わりが無い。
 降って沸いた幸せに、神尾の表情はその日一日中弛緩していた。
 深司が気持ち悪い、と評したほどに。



<了>




※あとがき※