昼休み、用があって購買に立ち寄ると、そこはいつの間にか改装されており、棚の配置が変わっていた。
とはいえ、元々店内はそれ程広いわけでも品物が多いわけでもないのですぐに目当てのものは見つかったのだが、物珍しさにかまけて普段は立ち寄らない文具コーナーに立ち寄ると、見慣れぬ白いラックが目に入ってきた。
「?」
何を置いているのかと近くまで寄ってみると、そこには少々洒落たポストカードが数枚並んでいた。
そのようなものには大して興味が無いので何気なく通り過ぎようとしたら、ふと下の方から、真っ青な色が目に飛び込んできた。
思わず足を止めて屈み込んで見ると、見事なほど真っ青な空を写したハガキだった。
葉書を二分するように、黄色の荒涼とした大地の地平線がくっきりと横切り、中央に通った黒いコンクリートの一本の道が葉書の中心の点に向かって集束していっている。
それは、どこまでも続く奥行きを感じさせる見事な写真だった。
神尾は、こういった空をどこかで”聞いた”気がした。
『The blue sky』
そう、あれは、忘れもしない、今から丁度一年程前の、一年生の秋。
口の中に鉄の味が広がっている。
何度口をゆすいでも、その不快な感覚が取れない。
「ってー…」
神尾は口の端を拭った。
透明な水に混じって、細い紐のような薄く赤い筋が手の甲に刻まれる。
「…畜生」
あまり口を動かすと痛みが走るので、ただその一言に、顔を殴打してきた先輩への精一杯の恨みを込め、神尾は吐き棄てるように呟いた。
しかし気分は全く透かなかった。
殴られた時、殴り返せたらどんなにいいか。しかし後輩という立場上、それも出来ない。
(テニスの試合だったら絶対負けねぇのに)
神尾には自信があった。
同年代の並大抵のプレイヤーには負けない自信が。
しかし、ここ不動峰中学では、一年生には試合に出ることなど全く許されていなかった。まして、部内の練習試合でさえ球拾いにまわされて、ほとんどと言っていいほど試合をさせてもらえなかった。
それが不動峰中学硬式男子テニス部の伝統なのだと言う。
(そんな伝統、クソクラエだ)
強い者がレギュラーに選ばれる。それが当然なのじゃないのか。
年功序列なんて馬鹿げてる。能力重視のこの社会にあって。
いや、そうでなくとも、先輩達は陰険だ。
パシリは日常化しているし、廊下ですれ違ったら即座に礼。深く頭を下げないと、「頭が高い」と言って頭を押さえつけてくる。
常に、目元と口の端に侮蔑とも軽蔑ともつかない嘲るような笑みを浮かべてあれこれ命令してくる先輩たちは、いやらしいことこの上ない。
先輩達がもう少しマシな人たちだったら、まだこの体制下でも納得できたかもしれない。
だって自分は、テニスがしたくてクラブに入ったのだから。
テニスをするためなら、少々の我慢ぐらい出来る。
だがしかし、先輩たちの傍若無人な振る舞いは、その我慢の限界を軽く越えてしまうほど酷かった。
テニスがしたい。強いプレイヤーと戦いたい。
切実にそう思う神尾にとって、先輩はただの障害でしかなかった。
しかしそれも時限式。
先輩達はいずれ卒業する。
自分もやがて二年になる。そうなればレギュラーの座を狙える。
楯突いた罰として殴られた時は、いつも、そう自分に言い聞かせた。
(半年過ぎたから、あと半年我慢すれば………って、それまで我慢出来そうにないな)
また再びムカムカと腹が立ってきた神尾は、腹いせに洗面台を力任せに蹴った。
コンクリート作りの洗面台は作用反作用の法則で、等倍の力を神尾の足に返してくる。
「……痛ぇ」
我ながら何やってんだ、と情けなくなりながら思わずしゃがみ込んだその時。
「すみません」
頭上から涼やかな声が降った。
「?」
振り返ると、私服姿の女子の姿があった。
引っかかりなくさらさらと靡く髪が、どことなく同じクラブ仲間であり友人である深司のイメージと被るが、彼の髪は漆黒であり、今目の前にいる彼女は薄茶色だった。
「あの、購買ってどっちですか?」
大きな目に黒目勝ちの瞳が印象的な、なかなかの可愛い子だったが、見覚えが無い。
それほど大きな公立中学でもないので、印象的な顔立ちの女子なら分かるはずなのだが。
「………転校生?」
立ち上がりながら尋ねると、女の子はこくり、と頷いた。
「ええ、そう。明日からここに通うことになってます。………えっと、何年生の方ですか?」
「俺?一年生」
神尾がそう答えると、その女の子はぱあっと顔を輝かせて、ニッコリと笑った。
「ホント?私も一年なの。同い年ね」
笑った顔がとても可愛かった。
「私、杏っていうの。貴方は?」
「神尾」
「神尾君ね」
杏は何回か神尾君、神尾君、と呟いた後、ヨシ覚えた、と言って満面の笑みを浮かべた。
そして何か思い出したようにポン、と手を打って、杏がくるりと神尾を振り返る。
「あ、そうそう。購買の場所、教えてもらえる?私その用事で来たんだったわ」
「購買に何の用なの?」
「明日一年生は体育の授業があるんだって?なんか体操服買っておけって先生に言われて」
「ああ、なるほど」
神尾はそう言ってから購買への道順を説明しようとして、ここから購買への最短地図を頭の中に浮かべてみたが、ふと思い直した。そして、やおら提案する。
「一緒に行こうか?購買まで」
「え、いいの?部活中なんじゃないの?」
杏が目を丸くして問うてくる。
放課後に体操服姿でいるから、そう推測したんだろう。ドンピシャで大当たりだ。
「いいよ。今は、なんか部活に戻りたい気分じゃないし。さぼる口実が出来た」
「?」
不思議そうに首を傾げる杏に、神尾は少し微笑んだ。
口に痛みが走ったので微妙な笑顔だったが。
「えーと…」
「杏よ」
購買に向かう道すがら、言葉に迷っている風の神尾を見て、杏がそう言う。どうやら名前を忘れられたと思ったらしい。
しかし神尾が言葉を発するのを躊躇っていたのは、名前を忘れた為ではない。
杏、というのは下の名前っぽいと思ったからだ。
呼び捨てにするのはなんだか気が引けるし、「さん」付けもなんだか堅苦しいし、かと言って「ちゃん」付けはなんだか馴れ馴れしい。第一、女子を「ちゃん」付けして呼んでいた記憶があるのは小学校低学年までだ。
しかし何にせよこの三つのうちいずれかの呼び方を採用しなくてはならないわけで――――神尾は自分の中で最も適していると思われるものを選んだ。
しかし。
「杏……さん?」
「やだ、気持ち悪い」
一蹴された。
「「ちゃん」でいいわよ。前の学校でもそうだったから」
杏がそう言いながら、苦笑いする。
それにつられて少し笑ってから、神尾は痛みに引き攣りそうになる口元をなるべく動かさないようにしながら口を開く。
「あー…じゃあ、杏ちゃん…は、どこから来たの?」
言ってから、神尾はやっぱり、どこかくすぐったさを感じた。
昔に戻ったような―――又は、なんだか杏と特別な関係にあるような――――そんな錯覚を起こしかける。
しかし、勝手にどぎまぎしている神尾を他所に、杏はスラリと答えた。
「九州よ」
「そうなの?あんまり訛りとかないから、関東圏かと思った」
「小4まではこっちにいたのよ。親の仕事の都合で2年強、向こうにいただけ。だから越してきた、って言うより、戻ってきたって言った方が正しいんだけど」
「そうなんだ」
「でも私、あっちの空、好きだったなあ」
「空?」
鸚鵡返しに尋ねた神尾に、杏は、「うん、特に青空がね」と言って頷き、そして顔を上向けた。
右手と左手の親指と人差し指で長方形を作り、ファインダーをのぞくように、それ越しに空を見る杏の瞳に、薄い雲を所々抱えた青空が映った。
「向こうの空は遮るものが少ないのよね」
「遮るもの?」
「そう。東京の空は無数の電線で切り取られちゃってるし、高層ビルも立ち並んでるし、すごく狭いなって思うの」
杏は視線を神尾に戻し、どこか誇らしげに微笑んだ。
「向こうの空はね、広いの。空気も少し街を離れるとよく澄んでて………空の色がとても深いのよ。特に青空が」
「そんなもん?」
「田舎に行ったらそういう風に感じたりしない?って言っても、九州で私が住んでいた所はそこそこ都会だったんだけどね」
言ってクスクスと笑う杏。
陽光が髪の間から透けて、笑顔が一際輝いて見えた。
「こっちにはこっちのいいところがあるけど、青空はあっちの方が好きよ」
(――――って言ってたっけなあ)
神尾はポストカードを手にしたまま、頭の中をぐるぐると想い出が巡るのを止められないでいた。
購買へ向かう道すがらした他愛もない話は、その後すぐに目的地に辿り着いた為、強制終了した。
もともと、それほど規模が大きいわけでもない公立中学校。購買など校内のどこに居たって、ほんの数分で辿り着く距離なのだ。
体操服を無事購入した杏は、その日、別れ際に一言、言った。
神尾君と一緒のクラスになれると嬉しいな、と。
その笑顔があまりにも眩しくて。
そのような言葉が女の子の口から聞けるのがすごく嬉しくて。
特別な意味など含まれていないと分かっていても、その日一日、ずっと舞い上がっていたことを今でも覚えている。
今思えば。
(あの時から好きだったのかもしれない)
杏を。
一枚のただの葉書を契機に、こんなにも鮮やかに、記憶が蘇る。
『空の色がとても深いのよ。特に青空が』
旅行をしたことが無いわけじゃない。東京以外の空を知らないわけじゃない。
でも神尾は、あの日杏が言った空が、よく分からない。
(こんな色なのかなあ?)
神尾はポストカードをまじまじと見つめた。
ふと。
葉書の空に、両手の四本の指で四角を作って、空を見ていた杏が被った。
そういえば、切り取られた空は嫌いだと言っていた気がするけれど、この葉書のように、とても深い青に、どこまでも続いていきそうな空は、杏が好きだと言っていた空に近い…かもしれない。
あれから杏は、まだ一度も九州に行っていないようだった。
会いたい友人もいただろう。見たい空があっただろう。
だが杏はずっと、片時も離れず、全国大会目指して頑張る男子テニス部員達を陰から支えてくれた。それがどれだけ部員たちにとって、そして神尾にとって力になったことか。
杏がテニス部の世話をしてくれたのには、彼女の兄が部を統率していたということがあったからかもしれない。でも、ありがたいことに違いはなかった。
そういえばまだ、その時のことについて面と向かってお礼を言っていない。
テニスをしたいという思いを叶える糸口をくれたのが橘ならば、杏は神尾が更に楽しくテニスをすることに貢献してくれた人だ。
今更気恥ずかしいという気もしたが、部に多大な貢献をしてくれた―――いや、もっと個人的にも力を与えてくれたことに対して、礼を述べなければならない。そう切実に感じた。
(お礼にプレゼントしようかな、コレ)
杏は初めて会ったあの時のことを覚えているだろうか―――いや、忘れている気がする。
『ありがとう』と言ったら、何のことだか分かるだろうか―――いや、分からないだろう。
まあ、それでもいい。
杏ちゃんの好きな空を、プレゼントしよう。
精一杯の、ありがとうの気持ちを込めて。
<了>
※あとがき※
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