『見えるもの、見えざるもの』



「あっつー」
 ボタンを一つ外して緩めた襟首をはためかせ、汗ばんだ体に風を送りながら、忍足は暑い日差しに熱されたコートの隅に腰を下ろした。
「そんなとこに座ってちゃ余計に暑いだろうがよ」
 声に視線を上向けると同時、視界が真っ白なもので覆われる。
「あ」
 物を言う間もなく、顔が柔らかい何かに覆われた。
 顔に手をやり、ようやく、タオルが降って来たのだと理解した忍足は、そのまま手を滑らせて顔の汗を拭った。
 タオルを掴んで肩にかけると、それを待っていたかのように、タオルを降らせた張本人は、胸の前で腕を組んで苦々しげに言った。
「保護者だろ?ちゃんとアイツ見張っとけ」
 フェンスに背を凭せ掛けてそう言った跡部が目で指したのは、忍足のダブルスのパートナーである岳人。
「誰が保護者やねん。俺はダブルスのパートナーっちゅうだけやで」
 半眼で言い返しながら跡部の視線の先を目で追うと、ジローと岳人が向かい合ってぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「何しとんねん、あの二人」
「俺が知るか」
 うんざりと言う跡部。
 忍足は口の周りに手を当てて、岳人を呼んだ。
 岳人はすぐに、くるり、と振り返って、二、三言ジローと言葉を交わした後、すたすたこちらに歩いてきた。
「何やっとったんや、自分」
 忍足が声をかけると、岳人は口を尖らせて言った。
「いい加減身体が鈍って仕方ねぇんだよ」
 岳人がそうボヤくのも無理は無い。
 氷帝学園の男子硬式テニス部は、200人を超える部員を抱える大所帯である。
 レギュラーも、正レギュラーと準レギュラーに分かれており、関東大会まで正レギュラーはほとんど試合に出ない。
 岳人も忍足も正レギュラーの一員であるので、未だ、全国大会に向けての予選となる地方大会の公式戦には出ていない。
 日々の練習はもちろん欠かしていないが、試合独特の緊張感や高揚感を体感できないのは辛い。だがしかし――――――。
「だからってなんでジローと一緒に飛び跳ねなあかんねん」
「どっちが高く跳べるか競争してた」
「……………」
 大真面目な顔をして答える岳人に忍足はなんだか言い返す気力を無くし、ちらと目だけを動かして跡部を視界に捉えると、跡部は盛大にため息を吐いていた。
「来週にはイヤでも飛び跳ねることになるだろうよ」
 来週には関東大会が始まる。そこから氷帝は正レギュラー全員が出場するのだ。
「んなこと分かってるけどー」
 岳人はいまいち納得のいかないといった顔で、ふっ、と息を吐いた。それに合わせて、岳人の前髪がフワリと舞い上がる。
 それは、何か気に食わないことがあった時の岳人の癖だ。忍足はそれを見逃さなかった。伊達に岳人と正レギュラー内でダブルスを組んでいるわけではない。
「岳人、何が言いたいねんな」
「え?」
「何か気に懸かっとることがあるんやろ?」
 岳人はそう言われて忍足に目をやったが、すぐに跡部に視線を移し、口を開きかけたが、またすぐに閉じた。言うのを躊躇っているのか、岳人の目が宙を彷徨う。
「何やねんな、気持ち悪い」
 はっきりしない岳人に忍足がそう声をかけると、岳人はうっせぇな、と一言毒づいてから、思い切って口を開いた。
「なあ、跡部…宍戸、どうしてんの?」
「あ?宍戸?」
「あれからクラブに姿見せないじゃん。どうしてんのかなあって思って」
 岳人が言う”あれから”というのは、都大会で不動峰中学に氷帝が敗れてから、という意味である。


 都大会は大波乱だった。氷帝が、ノーシードの不動峰に負けたのだ。
 それも、当時正レギュラーだった宍戸がS3で敗れてストレート負け。
 宍戸の対戦相手は、不動峰の部長、橘桔平だった。
 橘桔平は九州の二強に数えられる全国区の選手である。宍戸には15分という短時間で勝ってしまった。
 もし氷帝の選手が橘に勝てるとしたら、跡部以外にいなかっただろう。全くもって、不運としか言いようが無い采配だったが、負けは負け。
 氷帝テニス部監督の榊の方針は、負けた選手は使わない、である。
 宍戸はレギュラーを下ろされた。


「俺が知るかよ」
 岳人の問いに、跡部がにべも無く答えた。
「なんだよ、お前部長だろ?」
「部長だからって部員全員の動向を隈なく把握できるか。俺の知ったことじゃねぇよ」
「冷てぇ!ちゅーかむしろ職務放棄じゃねぇの!?部長には部長なりの責任ってモンがあるだろ!?」
「いらん気を遣わなくちゃならん責任なんかクソ食らえだ。何とでも言え。とにかく俺は宍戸がどうしているのかなんて、全く知らねぇな」
 キッパリと言い切る跡部に、岳人はムスッと睨み返す。
 一触即発しそうな雰囲気を漂わす二人の合間にいる忍足は黙って成り行きを見守っていたが、どちらとも口を開きそうにないので、忍足はやれやれ、と言った感じで口を開いた。
「跡部、お前、宍戸が何してんのか、知っとんのとちゃうんか?」
「はぁ!?何だよソレ!跡部、お前嘘吐いてたの!?」
「忍足、当てずっぽうでいい加減なこと言うんじゃねえ」
 跡部が、忍足に向かって盛大に顔を顰めた。
「何を根拠にそんなこと言いやがる」
「うん?別に根拠らしき根拠はないんやけど」
「お前な…」
 跡部が疲れたように唸る。
「でも実際、宍戸、何しとんのやろな」
 忍足がそう呟くと、岳人が眉を顰めながら低い声で跡部に問うた。
「なあ、宍戸が正レギュラーになる可能性って、もう無いの?」
「監督は負けた奴は使わない。それはもう周知の事実だろうが。いくら橘相手とはいえ、あいつは負けたんだ。レギュラー入りの可能性は無い」
 跡部が断言すると、岳人はぎり、と奥歯を噛んだ。
「……おかしいぜ、負けた奴は使わないなんて。…結果が、全てだなんて」
 岳人の強く握られた拳が血の気を失って白く色を変える。
 珍しく本気で怒っているらしく、固く引き結んだ口元が、わなわなと震えていた。
「一回の負けが何だよ!ただ一回負けただけでレギュラー降ろされるなんて…ようは正レギュラーになる為にどんだけ努力したかなんて、全然関係無いってことだろ?そんなの、そんなのおかしいじゃん」
 そう言って、岳人は跡部を睨みつけた。跡部は平然とそれを見返してただ一言言う。
「確かにな」
「だったら、跡部から監督に言ってくれよ!ちょっとは考慮してくれって」
 言いながら詰め寄りかけた岳人に、不意に忍足の静かな声が突き刺さる。
「岳人、お前は何に怒ってるんや?下手な同情や憐れみなら、宍戸に失礼やで」
「侑士!」
「お前は努力を評価しろって言ってる。…どうやって評価するんや?努力してない人間なんておらへんで」
「でも、何をやっても出来る奴っているじゃん!跡部なんかモロにそうだろ!?逆に何をやっても不器用な人間ってのもいるしさ」
 跡部は自分の名前を出されて、ほんの僅か、普通の人間になら見逃されてしまいそうなほど僅かに、どこか不快そうに目を細めた。
「なるほど、確かにそうかもしれん。けどな、本当に何をやっても出来る、なんてことがあると思うか?」
「実際いるじゃん、目の前に」
 岳人が―――こちらは傍目にも分かるくらいに―――、盛大に嫌そうな顔をして跡部を目で指した。
「なんで努力してない、なんてお前に分かるねん。まあ……実際はどうか知らんけどな。確かに俺は跡部がくそ真面目に努力してるとこなんて見たことないけど」
「ハッ、俺がそんな泥臭いことすると思うか?」
「相変わらず減らず口叩くなぁ、お前は」
 忍足は呆れて跡部を見上げる。跡部はフン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ほら、跡部はこう言ってるぜ?」
「言っとるだけやろ?口ではなんとでも言える」
 忍足の言葉に、跡部がヘッと軽く笑う気配がした。忍足は構わず続ける。
「努力してるかしてないか他人がそれを知るためには、努力している場面を目にするか、直接尋ねるしかないやろ。でも実際、必死でドロドロの努力してるトコなんて、他人に見られたくないって思うのが普通やと思わん?努力しているトコをひけらかすってことは、”自分はこんだけ頑張ってんのやぞ”って主張するってことやろ。それを主張するってことは、自分の努力を評価しろって訴えてることと同義や」
「それは……そうかもしれないけど、でも、努力してるのをひけらかすってことのどこが悪いってんだよ。別に努力してることを表立って言ったっていいじゃん。結果だけで評価すんのってバカらしいよ、やっぱり」
「なら聞くけど、努力していることを隠しているヤツはどうやって評価したらいいん?隠れて努力しているヤツは、誰にも努力してることを知られないわけや。そういうヤツは評価されないでいいんか?」
「それは…」
「努力なんて第三者の目に触れなければ、あって無いようなもんや。努力を認めるってことは確かに大事かもしれんけど、実際努力ってのをそんなに過大評価したらあかん、と俺は思う。努力は結果が出てこそ、それを主張する意味がある」
 岳人はまだ納得が行かないのか、釈然としない様子で忍足を見返していたが、言い返す言葉が見つからないらしく、ただ頬を膨らましていた。
 暫く沈黙が流れたが、それを最初に破ったのは跡部だった。
「結果ってのは後からちゃんと付いてくる。宍戸があんな風に無様に負けたのは、アイツに慢心があったからだ」
 言って、跡部はフェンスから身を起こした。
「忍足、お前こそ宍戸が今何してるのか知ってるンじゃねぇのか?」
「何を根拠にそんなこと言うん?」
 忍足は飄々とした表情で、跡部と同じ言葉を返すと、跡部はクッと口元を歪めて笑った。そしてやおら岳人の方に向き直って言う。
「岳人、宍戸が何してるか俺は知らねぇけどな、さっきも言ったように結果は後から付いて来るんだ。宍戸は自分に好ましい結果を手元に引き寄せる為に”何か”してることだろうよ」
「は?」
 跡部の言っている意味がすぐに飲み込めず、間の抜けた声を上げる岳人の脇で、忍足はプッと吹き出した。
「笑うな」
 跡部が嫌そうな顔をしてぴしゃりと言うので、忍足は更に笑いが込み上げてきそうになり、それを抑えるので必死だった。
 跡部はフンと苛立たしそうに息を吐くと、サッと身を翻してどこかへ歩いていった。
 まだ少し飲み込めていないような岳人を見上げ、忍足は立ち上がる。
 汗も大分引き、もう身体は軽い。
「跡部も言ってたけどな、結果は努力した分ちゃんと付いてくる。努力なんて、みんな、他人に分かる所であれ、分からない所であれ、してることや。あって無いような努力を最終的に”在るもの”にするのは、結果や。自分の努力の集大成を見せつけるのは結果しかない。宍戸はそれが分かっとるんやろ」
「……どっかで、オレたちの目に見えない所で努力してるってこと?」
 忍足は曖昧に相槌を打ちながら、宍戸を探すなよ、と一言告げた。



<了>




※あとがき※