「菊丸、ちょっと来い」

 固い声音が背中に突き刺さった時、唐突に思い出した。

 関東大会第一戦―――これに負ければ自分たちは引退なのだと。

 中学最後のテニスになるのだと。



『Believe your power』



 振り返ると、手塚と竜崎先生が階段の上からこちらに視線を送っていた。
 二人の強張った表情が、何か悪い知らせがあるのだと告げている。
 不安が、胸中に暗い影を落とした。
 自分が呼ばれるということは、まだ会場に到着していない大石のことではないのか。
(大石の身に何か…?)
 胸にわだかまる不安を振り払うように、英二は努めて明るい口調で言う。
「なになに?いつも以上に気難しそうな顔しちゃって」
 言いながら、階段を昇って二人の前まで近寄ると、手塚は複雑な色を瞳に浮かべながらも、決然と、簡潔にただ一言言った。
「菊丸、大石が出られなくなった」
「………え?」
 英二は、手塚の言葉を理解するのに数秒を要した。
 砂に染み込む水のようにじわじわと理解が及んで、英二は呆然と聞き返す。
「大石が、出られないって……氷帝戦に?」
「そうだ。妊婦さんを助けた時に右手を怪我したらしい」
 眉間に皺を寄せながら答えた竜崎先生の言葉に、英二はキュッと拳を握った。
「怪我の程は見てみなければ分からないが、二週間で完治すると本人は言っている。とりあえず今日は、大石の出場は無理だ」
 手塚の言葉に、英二はごくりと唾を飲み込んだ。
 途端に、不安が襲い来る。

 いつだって、ダブルスでコートに立つ時は大石と一緒だった。
 負ける悔しさも、勝利する喜びも、全て一緒に分かち合ってきた。
 まるで、一心同体のように。

 なのに、今日、最高の強敵と戦うこの時に、パートナーが―――大石がいない。

 半身をもがれたような心地に、英二は身震いを禁じ得なかった。

(このダブルスが最後になるかもしれないのに…!)

 もしこの試合に負ければ、青学の全国制覇への道は閉ざされ、そこで自動的に三年生の引退が決定する。
 引退してしまえば、もう青学テニス部としてテニスをすることはない。
 ”青学テニス部の黄金ペア”として、大石とダブルスをすることは、もうなくなるのだ。

 もし、負ければ。

 相手は昨年準優勝の氷帝学園。簡単に勝てる相手ではない。
 負ける可能性を、考えたくなくとも考えてしまう。
 考えまいとすればするほど、頭から離れない。

(大石―――――)



「菊丸、お前は桃城と組め。D2だ」
 手塚の声に、英二はハッと我に返った。
「…今、何て?」
「桃城と組むんだ」
「桃と?」
「いささかの不安はあるが、それが最良の手だろう」
 手塚が腕を組んでそう言った。

 桃城と組む。大石じゃなく、桃城と。この大舞台で。
 桃城に不満があるわけじゃないが、即席ペアで氷帝に対抗できるのか、不安が胸に募る。
 ”負けたら終わり”というプレッシャーと、大石がいない不安。
 二つが混じり合ってどんどん増幅し、それらが肩に大きく圧し掛かり、胸を強く圧迫する。
 顔面蒼白の英二の腕を、がし、と誰かが掴む。
 顔を上げると、腕を掴みながらじっと目を覗き込んでくる竜崎先生と視線が合った。
「菊丸、あんたは強い。豊富な経験がある。輝かしい実績もある。ダブルスにおいて、桃城には無いものをあんたは持ってる。今まで培ってきたものを信じるんだ」
 痛いほどにギュッと腕を掴まれながら放たれた言葉を聞いて、英二は少しの遅滞と逡巡の後、こくりと一つ、頷いた。




『いけいけ氷帝っ!』
『やれやれ氷帝っ!』
『氷帝!』
『氷帝!』
 氷帝、氷帝、と連呼する氷帝テニス部員の喚声が、ぐるりとコートを取り巻く。
 総勢200人にも及ぶ人間の喚声は、地を震わしかねない勢いで、怒涛の如く、コートに足を踏み入れる英二と桃城に襲い来た。
「何人いるんスかね、奴らの応援団は」
 ったくゾロゾロと、と呟く桃城に、英二は額を曇らせた。
「やだなぁ、この雰囲気…」
 コートに足を踏み入れた英二は、まるで何かの結界に囚われたかのような錯覚を覚えた。
 又は、蜘蛛の巣に捕らわれた虫のような。
 何をしても、勝てないような気分になる。気力が殺がれる。
 殺気にも似た気配が、コートに満ち満ちていた。

(こんなにも気分が悪いのは、大石がいないからなんだろうか。それともオレ、心の底では負けちゃうって思ってんのかな…。負けたら、終わりだ。大石とのコンビも、全国大会の夢も―――)





「ザ・ベスト・オブ1セットマッチ、青学サービスプレイ」
 氷帝、氷帝、と連呼する氷帝テニス部員の喚声を割って、試合開始のコールがコートに響いた。
 先ほどまでは轟く大音声と熱気に圧倒されていた英二だが、コールが耳に届いた刹那、頭が急激に冷えていくのを感じた。
 緊張のあまり胃が中空に浮かんでいるような妙な浮遊感も、それと同時に消え失せる。
「ほいっとね」
 相手校の身軽な前衛が打ってきた球を軽く横に跳んで返球する。
 腕に、ボールを打つ衝撃が伝わる。
 ちゃんと身体が動く。

 いけるかもしれない―――――そう思ったのも束の間だった。



 矢鱈身軽な敵前衛の動きに翻弄されて、あっと言う間に1ゲームを先取された。
「おい菊丸、もっと跳んでみそ」
 挑発的な敵前衛の台詞を、英二は黙って背中で受け取った。
 いつもなら何か茶化して返答するところだが、喉が詰まって何も言葉が出てこなかった。
 胸に渦巻くのは負ける恐怖。大石がいない不安。後がないプレッシャー。
「英二先輩、まだまだこれからッスよ!」
「ああ……そだね」
 英二は俯きがちに答えた。
 だがその声はか細く、心ここにあらず、といった感じだった。
「強いな、ヤツら…」
 独り言のようにぼつりと呟かれたその言葉を聞いて、先輩、と桃城が呼ぶ。
 振り返ると、桃城が真摯な目をこちらに向けていた。
「勝てない、とか思ってるでしょ?」
 本心を言い当てられて一瞬息が詰まるが、意図の読めない言葉に疑問符を浮かべる。
 そんな英二の様子に気付いたのか気付かなかったのか、桃城はそのまま続けた。
「どっかのエライ人が言ってましたよ。”悲観主義は気分によるもので、楽観主義は意思によるものだ”って。いつもみたいな前向きになれないなら、そうなろうって自分に言い聞かせるまでッスよ」
 言って、桃城は不敵に笑んだ。
 つられて口元が緩む。

 ―――曲者。

 不意に、頭の中にその単語が浮かんだ。
 手塚が桃城を表現する時に、時々使う言葉だ。
 その意味が、手塚が桃城をそう評する理由が、英二はこの瞬間に少し分かった気がした。




 しかし、その後もゲーム展開は変わらず、氷帝優位に進んでいた。
(このままじゃまずいぜ―――アイツを何とかしないと)
 桃城は標的を敵前衛に定めた。
(動きを封じてやる!!)
 桃城は渾身の力を込めて、ジャックナイフを放つ。
 敵前衛は予想通りジャックナイフを拾いに行き、空中で半ば弾かれるようにして、かろうじて返球してきた。
 球は孤を描き、落ちてくる。チャンスボールだった。
 英二の目に、それはまるでコマ送りのように映った。
 しかし―――。

(どうしたら、どうしたらいいんだ)

 自分のアクロバティックが通じない。
 桃城のジャックナイフが返された。

 体勢を整える時間は充分にあるのに、何故か身体が動かない。
 まるで足に根が生えてしまったように足が重くて動かない。手首に枷が嵌められたように腕が重くて上がらない。
 どんどんと近づいてくるその球を、英二はただただ凝視する。

 そうこうしている間にも、ボールは刻一刻と目の前に迫る。

(どうしたらポイントが取れる…?)

 ドクン、ドクン、と胸が大きく高鳴り始めたその時。


「英二先輩、オッケー!」
 大きな声が、見慣れた影と共に英二の横を通り過ぎた。
「桃!」
 金縛りに遭ったように動けない英二の横を走り抜け、桃城は高く跳躍した。
 そしてボールを直下に叩きつけるように、大きく腕を振り下ろす。
 打球は猛スピードで相手コートに突っ込んでいった。
 決まった―――と誰もが思ったその瞬間。
 丸眼鏡の敵後衛が背を向けていた。
 英二も桃も、見慣れた体勢だった。
 膝を曲げて腰を落とし、右腕をピンと伸ばしているその姿。
「あれは不二先輩の『羆落とし』!?」
 青学のテニス部員から驚嘆の声が上がった。


「………」
 桃城はぎり、と奥歯を噛む。
 起死回生の作戦だった。
 自分の持ち技をフルに使い、ポイントを上げ、試合の流れをこちらに向けるつもりだったのに、見事に破られた。
 ただ破られただけならともかく、こちらの起死回生の作戦を覆したことによって、相手側は更に波に乗っていくことになる。

 状況は悪化した。




「ゲーム氷帝4-0!」
 審判の声と同時、総勢200人に及ぶ氷帝部員たちの歓声がコートに轟いた。
『氷帝!氷帝!』
 沸き上がる氷帝軍団の大音声に押し潰されそうな錯覚を覚えながら、英二はふらりと立ち上がった。
「だめだ、強すぎ…」
 そう呟いた横で、桃城も同じく呟いていた。
「畜生…」
 その声は、自分の持ち技二つが次々と破られた悔しさが存分に含まれていた。そして同時に、その声には何かが含まれていた。

 何か――――。

 英二はハッと息を飲む。



 微かな既視感。



 桃城の方を振り返ると、いつもぎらぎらと輝いていた双眸が、光を失いかけていた。
 絶望を、敗北を感じている瞳だ。

(あれは、さっきまでのオレの瞳だ)

 そして、声に含まれていたのは、「諦め」だ。




『さあ挽回だ!!』

『大丈夫だよ、英二』

『諦めるな、諦めなけれりゃ必ず弱点は見えてくるんだ。チャンスはどこかにあるハズ』

『俺達の力を信じよう』



 ダブルスの試合で負けそうになると、大石がよく言ってくれた言葉が脳裏に次々と蘇る。




「0-30」
「………くそぅ…」
「さ、サクサク行こか」


『さあ挽回だ!!』
 ――――そう、挽回しなきゃ。

 パァン。


『大丈夫だよ、英二』
 ――――そう、オレには経験と実績がある。大石とのダブルスの実績が。

 パァン。


『諦めるな、諦めなけれりゃ必ず弱点は見えてくるんだ。チャンスはどこかにあるハズ』
 ――――そう、弱点はどこかにある。完璧なヤツなんていない。チャンスはそこにある。

 パァン。


『俺達の力を信じよう』
 ――――ああ、そうだな。信じなきゃ。勝てるって!


 パァン!


 唐突に、ショット音が耳元で鳴り響いた気がした。
 同時に、腕に伝わってくる衝撃。
 その時になってようやく、自分が、球を打ち返したのだということに気付いた。
 いつの間に、足が地を蹴っていたのだろう。
 自分の身体は宙に浮いていた。



 着地体勢を取る事が出来ず、ドサリ、と地面に落ちたのも束の間、英二は素早く起き上がった。
 打ち返されてきた球をすかさずバックハンドで捉える。
「させないっ!」
 ボールはネットを掠め、相手コートに落ちた。
「15-30」
 審判のコールが、湧き返った観衆の声を縫って空に響き渡った。

 そして無意識の内に、英二は、右手首でラケットをシュルン、と回転させていた。


 パシ、と回転したラケットの柄を掴んだ英二に、ひょこひょこと桃城が近寄ってくる。
「エージ先輩!」
 桃城は、少し驚いたような顔をしていた。
 そんな桃城の表情を横目で捉えつつ、英二は相手コートをじっと睨み据える。

 強敵だ。
 小柄で身軽な前衛と、天才的な後衛。

(でも、オレは負けない。信じるから。力を。大石と培ってきた力を。決して諦めたりしない!)


 桃城の言葉が胸に浮かぶ。

 悲観は気分によるもの。
 楽観は意思によるもの。


 信じ込んでみせる。

 自分たちは勝つんだ、と。
 また大石とダブルスをするのだ、と。
 大石とのダブルスで、勝ち上がっていくのだ、と。


 竜崎先生の言葉が胸に浮かぶ。

『菊丸、あんたは強い』

(信ずるに足るだけの力、それを、オレは持ってる!)



 英二は斜め後ろに立つ桃城に向かって言った。
 記憶の中で語りかけてくる大石と同じような、強く、力に満ちた、信頼に足る口調で。

『大丈夫だよ、英二』
「大丈夫だよ、桃」

『諦めるな』
「諦めるな!諦めなけりゃ、必ず弱点は見えてくるんだ。チャンスはどっかにあるハズ」

 スッ、と腕を伸ばし、立てたラケットを握り締めた拳を桃城に突き出す。
 ラケットで分断された桃城の顔には、驚愕が満ちていた。
 桃城の見開いた目に、らんらんと目を輝かせる自分の顔が映っていた。

 英二は一呼吸置いて、ゆっくりと噛んで含めるように言った。

「オレ達の力を、信じよう」

「せんぱ…」
「なーんて、全部大石のウケウリだけどねん」
 何か言いかけた桃城を遮ってそう言った英二は、茶目っ気たっぷりにウィンクを飛ばした。
 途端、桃城は弾かれたように腹を抱えて笑い出す。
「エージ先輩らしースねっ!でも…………」
 桃城がそこで言葉を切って英二の目を覗き込んだ。
 覗き込んできた桃城の瞳には、もう絶望も、敗北感も、諦めも無い。
 あるのは、いつも通りの、自信に満ちた瞳。
 その瞳を輝かせながら、桃城は言った。
「頼もしいっスよ」



 自分の力を信じて戦う。
 絶対に、負けたりしない。これで中学最後のテニスにしない。最後のダブルスにしない。

(勝って、また大石とダブルスをするんだ。絶対!)



「まだまだこれからっスね」
「うんにゃ」
 桃城の言葉に、英二はしっかりと頷いた。




<了>




※あとがき※