『後悔−時=?』




 今日の昼の出来事である。
 図書室で、本棚最上段の本があまりにもぎっしり詰まっている為に両手を使わなければならず、目的の本が取れずにいると、丁度現れた大石が腕を伸ばして取ってくれた。
 差し出された本を右手で受け取ると、そんなに左肩は痛むのか、と痛々しい表情で問われた。
 いや、と答えたが、こちらの表情が翳ったように見えたのか、大石はさらに痛々しそうな顔をして、瞳の色を曇らせた。
 大石は、少し迷うように目線を泳がしていたが、やがて手塚に視線を定めてこう言った。

「後悔、してないか?」

 一瞬手塚には、何のことだか分からなかった。
 しかしそれが、先日の氷帝戦S1、対跡部戦のことを指しているのだと分かって、手塚は大石の瞳を見返した。手塚の返答を待ち望みながらも、その内容への不安が一杯に詰まった、不安定な瞳を。
 手塚は跡部との試合を脳裏に思い浮かべながら、口を開く。
「後悔…」



 跡部の狙いは、数球打ち交わしたところで既に気付いていた。
 跡部が持久戦に持ち込もうとしていること。そうして焦って攻め急がせることでこちらにボロを出させようとしていること。
 しかし、出してやるボロなど、持ち合わせが無い。完治した肘の具合は良好で、自分の思うがままに動いてくれていた。

(お前がそれくらい見抜けないわけではないだろう?)

 手塚は、テニスボールを手にしてコールを待ちながら、ベースライン上で構える跡部を見据える。
 何としても勝利を手にするという、殺気にも似た決意が跡部の身体に漲っているのが分かる。しかし跡部のダークブラウンの瞳は相変わらず冷たい光を放ち、汗で濡れた頬は引き攣るようにして僅かに笑った―――ような気がした。

(……………)

 手塚は釈然としないまま、サーブを打ち込む。目まぐるしい勢いで、テニスボールがコート上を行き来する。
 お互い甘い返球は有りえない。一球一球が相手を追いつめるような厳しい球である。
 しかし手塚は、跡部の試合運びに違和感が拭えない。
 決して手堅く守りの体勢に入っているわけではない。積極的に攻めて来ないわけでもない。
 しかしやはり、どこかがおかしいのだ。
 強いて言うなら、予定調和的な攻め方をしてくる、と言ったら良いのだろうか。
 手塚と跡部、各々自分の意志で攻めたり守ったりしているはずなのに、調和的な均衡関係の下で試合が進行している奇妙な感覚。
 手の内が読まれている、というのではないようだが、まるで跡部の掌の上で踊らされているようで、正直気持ちの良いものではない。

(跡部、何を考えている?)

 手塚は挑戦状の意味を込めて、わざとロブを上げる。
 跡部はネットに詰めて来てスマッシュしてくるかと思いきや、そのままボレーで返してきた。
 そして跡部は酷薄そうに笑んだ。
「ヒジはたしかに完治したかもな、手塚!」
(……なるほど)
 手塚は跡部の一言で全てを察する。
 一球一球重ねるごとに、肘とは違う部分に爆弾を抱え始めていたことに。
 ほんの僅か、それは気付くか気付かないか本当に微妙なところの違和感が、左の肩に積もっていっていることに。

(なるほど、それで持久戦か)

 跡部の手の内に察しがついて、手塚はほんの少しだけ逡巡した。


 持久戦。

 それは取りも直さず、肩を壊す道へ一直線に突き進むことを意味する。
 肩の故障はテニスプレイヤーにとって致命的なものに発展する可能性がある。選手生命にも関わる恐れがある。


 まずい、と思わなかったわけではない。
 跡部の挑戦に乗ることに、迷いを感じなかったわけではない。

 しかしその時脳裏に浮かんだのは、一つの言葉。



「手塚君、キミには…青学テニス部の柱になってもらいます」



 それは手塚が一年生だった時に当時の部長から言われた言葉。

 そう言われたのは、入部して間もない頃。
 名門といわれた青学が数年間都大会止まりという結果しか出せずにいた、停滞期の事。


 当時の部長は、その言葉と同時に、こうも言った。
 全国への夢は一瞬たりとも諦めたことはない、と。

 それはきっと、部長だけの夢ではない。
 「青学テニス部の柱になれ」と言ったからには、全国大会は、部員一人一人のみならず、”青学テニス部”が見る夢なのだ。数年間の部員たちの願いが、その夢に集約されている。
 部員たちに願われて願われて大きく膨らんだ全国への夢は、とても重い。
 青学テニス部に失望して部を辞める決意をしていた手塚にとって、その夢が託されたことはとても大きな意味を持った。

 手塚は、ラケットを、人を傷つける凶器として扱うようなプレイヤーがいることに心底失望したが、そんな人間ばかりではないのだ。
 全国への夢を胸の内に育んでいた先達は多々いて、この数年間、皆悔し涙を飲んできていたのだ。
 そんな純粋なテニスプレイヤーである先達が抱いてきた夢、大和部長が抱いている夢。
 そんな夢を叶える可能性を自分の中に見てくれたのなら―――。

 そうして手塚は部に戻り、己の持つ力を余す所無く発揮したのだ。




「手塚君、キミには…青学テニス部の柱になってもらいます」
 大和部長の声で、手塚の脳裏に言葉が鳴り響く。

 柱は、夢を現実にするために必要不可欠のもの。
 夢は自分だけの夢ではない。レギュラーだけの夢でもない。現役部員だけの夢でもない。
 青学テニス部でプレイヤーとしてテニスをしてきた、全ての選手が描いてきた夢なのだ。
 だから。

(決して、柱は折れてはならない)


 手塚はその瞬間、あえて持久戦に挑む覚悟を決めた。




「後悔…」
 手塚の言葉に、大石が息を飲むのが雰囲気で分かった。
 手塚は続ける。
「後悔なんてしていない」
 大石の表情が瞬間輝く。しかしそれも束の間、すぐに額を翳らせた。
「本当に?」
「ああ」
 手塚は深々と頷く。
「俺があそこであの選択を取らなかったら、その時こそ後悔していただろう」
 青学テニス部の大きくて重い夢を現実に変えるため、その役目を託されて自分はあの時部に戻ったのだから。
 青学テニス部の柱として、青学テニス部のために存分に闘って、どうして後悔などするだろう。

 青学テニス部が夢見る全国大会。
 その夢は、純粋なテニスプレイヤーの心と同時に、青学テニス部に降り積もった彼らの時間を含み持っている。

「俺一人の夢を選んで後悔することは、ただ単に無駄な時間を増やすだけのことだ。だから俺は、跡部の挑戦に乗って、真剣勝負に出たんだ。後悔のしようがない」
 手塚は大石に言い聞かせるように、もう一度、後悔はしていないとキッパリ言って、言葉を打ち切った。
 大石はそれを聞いて、ややあった後にこりと笑った。


 後悔−時=真剣勝負。

 それが、青学テニス部の柱の選択。




<了>





※あとがき※