いつ頃から気付いていただろうか。
神尾君が自分に対して、友達以上の特別な感情を抱いてくれているということに。
漠然と、そうなのじゃないかと感じていた。
何か決定的な出来事があったワケじゃない。けれど。
ちょっとした仕草、表情、声音の変化。
少しずつ少しずつ堆積していく細かな変化の数々。降り積もる違和感。
それらの理由を、原因を、きっと、無意識の内に感じ取っていた。薄々と分かりかけていた。
でも今、あたしは、それをもっとハッキリと、明確に感じ取っている。
なぜなら――――ふと、気が付いてしまったからだ。
涼風に洗われる髪の間から見えた、真っ赤な耳。それは不自然なくらい見事に赤い。
前を真っ直ぐに向いた顔をこちらから窺うことは出来ないけれど、耳の色を見たら、今一体どういう表情をしているのか、容易に想像できる。
だから――――真っ白なカッターシャツに覆われた、少し細身の背中には何も変化が見えないけれど、もしかしたら………そこに耳を押し付けたら、激しく高鳴る鼓動の音が聞こえてくるのかもしれない。
そう思い至って、漠然とした予感が確信に変わった。
(ああ、神尾君はあたしのこと好いてくれているんだ…)
内心の己の呟きを噛み締めて、あたしは、胸がキュッと締め付けられるのを感じた。
『棘』
きっかけは些細なことだった。
自転車で街中を走っていたら、見慣れた後姿を見かけた。部活の帰りなのだろう、その後姿は制服で身を包み、大きなテニスバックを背負っていた。
「神尾君」
自転車を横付けして名を呼ぶ。
「杏ちゃん?」
見慣れた後姿――――神尾君が、少し驚いたように振り返った。
「今帰り?」
「うん」
「良かったら乗ってく?」
「え、いいよそんな」
「遠慮しなくていいよ〜。二ケツは慣れてるから、あたし」
「でも男を乗せて走るんじゃ、重くて疲れるんじゃない?」
「神尾君はスレンダーだから大丈夫よ」
「いや、でも…やっぱり悪いよ、女の子に漕がせるなんて」
「兄貴乗せて走るのなんてしょっちゅうやってるよ?」
「でも………んー…分かった。じゃあ俺が漕ぐから、杏ちゃんは後ろに乗って」
「へ?」
「俺が漕ぐ。体格差から言ってもそれが妥当じゃない?って言っても、杏ちゃんが嫌じゃなかったら、だけど」
「ありがと、全然嫌じゃないよ。んじゃ、お言葉に甘えさせてもらうね」
そう言ってあたしはサドルを譲り、神尾君がサドルに跨るのを見届けてから自分の自転車の荷台に座った。
「サドルの高さ、合わないんじゃない?」
「大丈夫。そんなに違わないよ」
そして、兄と二人乗りをする時のクセで、そのまま何も深く考えずに、あたしは神尾君の体に腕を回した。
その瞬間、白いカッターシャツに覆われた背筋が一瞬強張った気がしたのは、きっと気のせいじゃなかった、と今になって思う。
神尾君は優しい。
今だって、乗らないかと誘ったのはあたしなのに、神尾君はあたしのことを心配して、自転車を自分が漕ぐなら、と提案した。
(神尾君、部活後で疲れてるはずなのに…)
それにサドルの高さについて文句も言わず、調整することもしなかった。
実際のところ、サドルの高さが問題にならないわけが無いのだ。
あたしと神尾君の身長差は10センチ強。それだけ違えば、サドルの高さは大分異なるはず。
何故調整しなかったのかは、ただ面倒臭かったとかいう理由の可能性もあるかもしれないけど、今はその理由ではないと何故か確信的に思う。
きっと、あたしに時間を取らせるのが嫌だったとか、手間掛けさせたくなかったとか、そういう理由なんだと感じる。
(自惚れかもしれないけど)
自嘲めいた苦笑を心の中で漏らしながらも、あたしは自分の考えを簡単に一蹴出来ない。
神尾君があたしのことを好いてくれているのは確かだと思う。
なぜなら、神尾君がクラスの女子から「優しい」という評価を受けていることは聞いたことが無いからだ。
でもあたしは、神尾君は優しいと思う。それはきっと―――。
(神尾君が優しいのは、あたしにだけだったからなんだ…)
神尾くんのことを好きか嫌いか、と訊かれたら、あたしは「好き」と答えるだろう。
でもその「好き」というのは、恋愛でいう「好き」じゃない、と思う。
あたしの「好き」は、きっと神尾君の「好き」とは重さが違う。
あたしの「好き」は、精々友達同士のそれに過ぎない。
授業のノートを貸し借りしたり、他愛もない話で盛り上がって笑い合って、時々一緒に登下校したり、一緒にテニスをして遊んだり。
一緒にいると楽しい。
一緒にいてあまり嫌な思いをすることがない。
すごく楽に付き合える。
だから神尾くんのことは「好き」だ。
でも、神尾君の「好き」は―――恋愛でいう「好き」の一般的な定義は、多分そうじゃない。
恋愛感情として誰かを好きになったら、想い人の僅かな言動でさえとても気になって、とても些細なことで一喜一憂するほど心が不安定になると思う。少し目が合うだけでドキドキしたり、ちょっと肩が触れ合っただけで死にそうなほど気分が舞い上がると思う。
また、手を繋いだり、腕を組んだりして相手に触れたいと望みながら、そこへ踏み出すのにすごく勇気がいると思う。そして更に、その人とキスしたいと思う時もあるだろう。
神尾君のことは、「好き」だと答えられなくもない。
でも、神尾君とこうやって、身体がかなり密着した状態になっていても、あんまりドキドキしない。
普通、あたしぐらいの年齢の女の子が、男の子にこういう風に触れたらドキドキするもんじゃないのかと思ったりしないでもないけど、あたしの場合、兄貴との年齢が近すぎるせいか、どうもその通常の男女の距離が良く理解できない。
(そうなると…恋愛として好きとか友達として好きとかを論じる以前に、なんだかあたしの感覚に問題がある気がするな)
ふと、そう思う。が、同時に、やっぱりその問題だけではないと思う。なぜなら。
(神尾君とキスしたいとか思ったことないもんなぁ……)
そこまで考えたことが無くとも、手を繋ぎたいとか腕を組みたいとすら思ったことが無い。
あたしはちらりと、神尾君の顔色を窺うように目線を上げる。
しかしやっぱり、前を向いた神尾君の顔が見えるはずも無く、相変わらず赤い耳だけが目を突く。
(やっぱり、好きな人とこんなに身体がくっついてたら赤くなっちゃうもんだよね…)
あたしは今、兄さんと二人乗りやっている時と、なんら感覚的に違いがない。動悸が早まったりしないし、顔が赤くなったりもしない。
あたしは神尾君がサドルに跨った時、なんの躊躇も無く、まるで当然のように神尾君の腰に腕を回した。
神尾君はあたしの腕が神尾君の身体を包んだ途端、背中を強張らせた。
ほんの一瞬の、ほんの些細な反応の違い。
しかしここに、大きな隔たりがある。
あたしは神尾くんのことを、友達と同じように思っている。
でも神尾君はそれ以上に、あたしのことを、女として「好き」だと思ってくれている。
それは大きな、そして決定的な違い。
(あたしの想いと神尾君の想いには、天と地ほどの差がある――――)
神尾君の想いに応えることはきっと無理だ。
神尾君の「好き」とあたしの「好き」は、その程度が違いすぎる上に、質も異なる。
もちろんこれから先、神尾君と手を繋ぎたいとか、腕を組みたいとか、キスしたいと思えるくらいに「好き」になるかもしれない。神尾君の言動に一喜一憂するほど、彼に夢中になるかもしれない。
でも今は確実に、あたしはそうじゃないと言える。
言えてしまうからこそ、神尾君の想いを確信して胸が痛い。
好きだけど想いに応えることが出来ない。
(嫌いなわけじゃない…でも違う。神尾君の「好き」とは…)
嫌いじゃない=好き、というように、感情がいとも分かりやすい公式で出来ていたらどんなに良かっただろう。
でも実際はそうじゃない。
人間の気持ちなんて複雑で、入り組んでいて、白黒はっきりつけられるようなもんじゃない。
あたしが想いに応えられないことを告げたら、神尾君はどんなに傷つくことだろう。
好きなのに傷つけなければならない。
それを考えると、とても辛い。
「杏ちゃん、着いたよ」
気がつくと、あたしの家の前に来ていた。
「あ、ありがと…って、これじゃあたしが神尾君を二ケツに誘った意味がないじゃない!」
「え、いや、でも」
神尾君はあたしの言葉に、ちょっとうろたえたように口篭もった。
あたしはおかしくなって、プッと小さく吹き出す。
「神尾君、イイ人過ぎだよ」
言いながら、あたしは自分の胸がちくりと痛むのを感じた。
神尾君には傷ついて欲しくない。
辛い思いをして欲しくない。
苦しんで欲しくない。
神尾くんの事が「好き」だから。
でも嘘を吐くことの方がよっぽど残酷だと思うから、あたしは神尾君を傷つける方を選ぶしかない。
告白される時が来たら、ちゃんと伝えようと思う。
あたしの気持ちを。
「え?」
あたしの言葉を聞き逃したのか、それとも意外でもう一度尋ねて確かめたかったのか、神尾君はちょっと間抜けた顔で聞き返してくる。
あたしは更にクスクス笑った。
「しゃーない、うちでお茶でも飲んでいきなよ。奉仕して喉渇いたでしょ。ダメとは言わさないわよ」
あたしは、まだ少し周章気味の神尾君の手を引っぱって、家の門扉を開けた。
「ただいまー。兄さーん、神尾君連れて来たよ〜」
<了>
※あとがき※
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