「菊丸君、放課後もう一度来なさい」
「えぇー!?先生、放課後はオレ部活あるんだって!だから勘弁してよ!」
「君がテニス部で頑張ってるのは知ってるわ。でもね、今のままじゃ成績のつけようもないの」
 授業終了と同時に出口に雪崩ようとする生徒の波に乗ってそそくさと音楽室を出ようとしていた英二を呼び止めた音楽教師は、そう言って、聞こえよがしなため息を吐いた。
 トントンとグランドピアノの蓋を人差し指で叩きながら、若い女性の音楽教師は、とにかく、と口を開く。
「放課後もう一度、音楽研究室に来なさい。もう一度テストします」
 音楽教師はそう言って、英二が手に持っているリコーダーをスッと指差した。



『いつでもどこでも誰とでも』



「もぉーーーー、たかがリコーダーのテストじゃん!定期テストの類じゃないんだから、見逃してくれたっていいじゃーん!」
 終礼が終わってまだ喧騒冷め遣らぬ教室に、英二の声が響き渡る。
「はいはい。文句はいいから、今日でちゃんと合格できるよう、少し練習しよう?」
 不二は、英二の不満の言葉を軽く流して、リコーダー曲集を鞄から取り出した。
「さすがに、メロディーの班別が付かないくらい吹けないってのはまずいよ」
「むぅ」
 視線を楽譜に落としたまま放たれた不二の言葉に、英二は返す言葉が見当たらない。
「英二が部活で疲れてて練習できなかったのは、僕だって先生だって分かってるよ」
「部活のハンデは不二も一緒じゃん」
 英二が不貞腐れて、机に頬杖を突きながら言う。
 不二は、今日の音楽の授業時間に行われたリコーダーのテストには一発合格していた。
 不二は顔を上げる。そして、不貞腐れている英二に、少し憂いの帯びた笑顔を向けた。
「人間誰だって、得意分野と不得意分野があるよ」
「不二の不得意分野って何さ」
 不二はテニスが天才的に上手い。テニス以外のスポーツでもいかんなくその身体能力を発揮する。勉強も出来る。音楽も得意。乾汁だって平気。
 なんでもソツなくこなしてしまう不二に、果たして不得意なことなどあるのだろうか。
 少し僻みっぽい気持ちになりながら、英二は不二を半眼で睨む。
 不二は、うーん、と少し悩むような素振りを見せた後、ぽつりと言った。
「…裕太?」
 英二は思わず、ポカーンと口を開ける。
「裕太…って弟さんだろ?何、なんで不得意分野?」
「よく解らないから」
 不二はあっけらかんと言い放った。
「……………」
 なんとなく返す言葉に詰まって英二が押し黙っていると、不二は特にどうということもなく、唐突に口を開いた。
「そんなことはさておき、先生は英二のことを考えてわざわざ追試の時間を取ってくれたんだ。感謝しなきゃ」
 話の筋が元に戻るのが急激過ぎて一瞬考えが追いつかなかった英二は、ややあった後、素っ頓狂な声を上げた。
「感謝!?なんで!?」
 不二は少し仰け反って、自分の耳を塞ぐ。
「そんな大声出さなくても聞こえるよ」
「あ、ゴメン…ってか、そうじゃなくて!なんでオレが感謝しなけりゃならないの!?」
 ばん、と机を叩いて不満そうな声を上げる英二の頭を、不二は薄いリコーダー曲集の本で、ぺし、と軽く叩いた。
「リコーダーのテストでちゃんと点数稼いでおかなきゃ、期末試験で辛くなるからだよ」
「……は?」
「先生の説明を聞いてなかったの?リコーダーのテストは、今学期期末試験100点分のうち30点分に当たるんだよ。20点分は平常点、つまり期末試験での筆記テストは50点分」
 不二は、疑問符を浮かべている英二の目を見ながら続ける。
「僕が思うに、今回のリコーダーのテストは、副教科だからってロクに勉強しない生徒のための救済措置だと思うんだ。ここで30点取っておけば、筆記の点が悪くてもなんとかなる。更に平常点が良ければ…って、まあ殆ど出席してたら平常点はほぼ満点だろうけど、とにかく平常点が良ければ、リコーダーのテストと合わせて筆記テストと同等の点が取れる。逆に、リコーダーのテストを落としてしまったら、筆記で挽回するしか術がなくなる」
「なるほど、よく分かった。でもなんでオレが先生に感謝しなけりゃいけないのさ?そこは、やっぱまだ分かんない」
 再び席に腰を落ち着けた英二は、素直に不二に尋ねた。
 不二は、そんな英二の様子にクスリと笑う。
「僕たちはこのまま大会を勝ち進めば、関東大会が期末試験付近に重なることになって、まともに試験勉強なんて出来なくなる。副教科なんて、なおさら手を回す暇がない。だから先生は、部活に精を出す英二のためを思って、わざわざ追試の機会を作ってくれたんだよ。ね、感謝しなきゃいけないでしょ?」
「う…」
 英二は言葉に詰まって口をつぐんだ。
 しかし困ったような英二の顔と沈黙が、不二の言葉を肯定したことを雄弁に語っているのを見て取って、不二は満足そうに微笑んだ。



 英二は、元々音楽が苦手なわけではない。
 音楽を聴くのは好きだし、歌うのも好きである。しかもそれは下手の横好きのレベルではなく、そこそこ上手い部類に入る。
 家に居て暇な時などは、兄のエレキギターを戯れに爪弾いたりもしていたから、コードも理解できるし、簡単な楽譜ならばそれなりに時間をかければ読むことが出来る。
 リコーダーに関しても、小学生の頃は、遊びでチャルメラやら正露丸の旋律を吹いているうちに、授業で教わる以前に運指を覚えてしまったくらいだった。
 だから、練習を始めてまず最初に行うことは、楽譜に書かれた音階を理解すること―――だったはずだった。
 しかし。
「楽譜読むの、めんどくさい〜」
「…時間かけたら読めるんだから、自分で読みなよ」
「そんなことしてるうちに、部活の時間が削られていくだけじゃん!だから今日のところは!」
 英二は、両手をぱん、と合わせて不二を拝む仕草をした後、不二の机の中から覗くリコーダーを指差した。
「ね、お願い、吹いて」
「耳コピするつもり?」
 不二は半ば感心しながらも、苦労を避けようとする姿勢に少し呆れた。
「そんなだから、譜面を読む能力が伸びないんだよ?」
「次はちゃんとやるからさー!今日のところはお願い!このとーり!」
 再び不二を拝み倒そうとする英二の頭頂を見つめながら、不二はため息を吐いた。
(耳コピなんて器用なこと、よく出来るよね。普通は楽譜読んだ方が早いように思うけど…まあ、英二らしいといえばらしいか)
「分かった、じゃあ吹いてあげる。今回だけだよ?」
 不二は最後に念を押しながら自分のリコーダーを組み立て、おもむろに旋律を奏でた。
 英二は、じーっと不二の指の動きを見ながら、一言も喋らずに不二が奏でるメロディーに聞き入る。
 よほど集中しているのだろう、英二は不二が吹き終わるまで微動だにしなかった。
「ここまでがテスト範囲。ここのリピート記号は無視。繰り返しは無し」
 リコーダーを下ろして不二の指が譜面を指し示して初めて、英二はこくりと頷く動きを見せた。
「よし、大体分かった!」
 英二がそう言って、自分のリコーダーをしゅるん、と回した。
「筋は分かったから、細かいところは楽譜見て頑張る」
 そう英二が言った所で。
「あれ?二人して何してるの?」
 聞き慣れた声が廊下から響いてきた。
 声の主は、教室後方の開いたドアの向こうに立っていた。
「タカさん」
 不二が名を呼ぶと、河村の後ろから乾もひょこ、と顔を出した。
「リコーダーの音が聞こえてきたが、不二だったのか。まさか今の演奏の出来で、お前が追試食らってるわけがないよな?」
「どーせ追試食らったのはオレだよーだ!」
 英二が乾に向けて舌を出す。
「不二にリコーダー教えてもらってたんだい」
「そうなんだ」
 刺々しい口調の英二をなだめるように、河村がやんわりと言った。
「でも英二は器用だから、すぐ合格するよ。ね?」
 河村の言葉を、不二がこくりと頷いて同意する。
「あと少し練習すれば大丈夫だよ、英二は」
「へっへー。それ見たことか乾ー!」
「俺は別にお前を馬鹿にした覚えはないぞ?」
「そう言われればそうか」
 英二が妙に納得するのとほぼ同時、河村が、あっと声を上げる。
「急がなきゃ。クラブに遅れる」
 全員が河村の視線の先を追う。時計の針が既に4時数分前を指していた。
「俺たちは行くが、不二はどうするんだ?」
「僕は…」
「不二、部活行ってきてよ。あとは俺一人で頑張るし」
「でも」
「大丈夫だって!さっき一度吹いてもらってるし。菊丸英二を信じなサーイ!」
 変なイントネーションでおどけてみせる英二に、不二はぷっと笑った。
「じゃ信じることにしようかな。菊丸教を」
「胡散臭い宗教だな」
「乾にだけは言われたくないやい!」



 河村と乾と不二を部活に送り出した後、英二は荷物を全部持って音楽室へと向かった。
 普段なら音楽室は、放課後になると、楽器の練習をする吹奏楽部の部員たちで一杯になるのだが、今日は誰もいなかった。
「あり?」
 不思議に思いながら音楽室の防音扉を閉める。開いた窓からは外の音が流れ込んできていた。
「腹筋30回始め!」
 張りのある少女の声につられて外を眺めると、男女入り混じった数十人の団体が、校庭の一角で2人1組になって腹筋を行っていた。
 その団体の中に、吹奏楽部に所属しているクラスメイトの姿を見つける。
「あぁ、今日はブラバンは筋トレの日か〜」
 吹奏楽部は、基本的には週一で走り込んだり筋トレを行ったりしている。文化系のクラブと分類されるにしてはハードで、ブラバンは半体育会系だよ、とクラスメートが笑って言っていたのをふと思い出した。
「ま、静かでいいよな」
 そう英二が独り言を呟いて窓から離れようとした時、窓の外で、おーい!と声がした。
 聞き慣れた声でなければ、その言葉が自分に向けられたものだと英二は気づかなかっただろう。だがその声はあまりに聞き慣れ過ぎていた声だったので、英二は反射的に振り返っていた。
「大石!」
 予想通りの声の主が、校庭からぶんぶんと手を振っていた。
「これからリコーダーのテストなんだってな!頑張れよ!」
 ランニングのついでに音楽室の真下まで足を伸ばしてきたのか、額や頬に汗の珠を浮かべながら叫ぶ大石に、英二も手を振って応える。
「すぐに合格してそっち行くから、手塚によろしく言っといて!」
 英二の言葉に大石が大きく頷いて踵を返した。またランニングに戻るのだろう。

 英二が大石のその背中を見送っていると、背後で防音扉がガチャリと開く音がした。
「誰…」
「あ、菊丸先輩」
「あ、あれ?おチビ?」
「………………」
「………………」
 扉付近で足を止めたリョーマと窓際に突っ立っている英二は、お互いの手に握られているものを同時に見止めて黙り込んだ。
 先に沈黙を破ったのはリョーマ。
「先輩、追試っスか?」
「おチビも?」
「………………………………………ッス」



 二人は音楽室の端の机に陣取って、お互いのリコーダー曲集を広げた。
「おチビの課題曲は…って『エーデルワイス』なんだ?簡単じゃん!なんで一発合格出来なかったんだよ」
 リョーマは憮然とした表情を英二に向ける。
「テスト当日に笛忘れてきてただけです」
「だけって…それは十分反省すべきところだろ」
 あくまで傲岸不遜なリョーマの態度に、英二は苦笑する。
「菊丸先輩は違うんスか?」
 リョーマはまるで、英二の答えを予想しているかのような口調で尋ねてきた。
 英二はリョーマの意を汲み取って、机の下で拳を握って引き攣った笑顔を向ける。
「はっははは!まー、俺はリコーダー忘れてきたりなんてヘマはしないよ」
「んで、吹けないヘマをやらかしたわけですね」
「…おチビ、喧嘩売ってんのかなー?」
 ニッコリと英二が尋ねると、リョーマも笑顔を返す。
「まさか。気に障ったのなら謝りますよ」
 そう言いながら、それは少しも謝罪する気があるとは思えない口調だった。リョーマは満面に笑顔を浮かべている。
 英二はそれを見て、ぷちぷち切れそうになる血管をなんとか理性で抑えた。
 ふと、音楽室の一角を占める棚に目が行った。棚の扉に嵌められたガラス越しに、たくさんの楽譜が並んでいるのが見えた。
「お?」
 怒りも忘れ目を奪われて棚に歩み寄る英二を、リョーマが怪訝そうに見つめる。
 がらり、と棚を開けると、中にはアンサンブル譜がたくさん入っていた。主に吹奏楽部用だったが、よく見るとリコーダーアンサンブルのものも混じっている。
 戯れに一冊手に取る。目次を見る。見慣れた曲名の羅列。
 思わず、その楽譜を抱えて席に戻る。
「何を持ってきたんですか?」
 リョーマの問いに、英二はにっと笑った。
「おチビはこのパートね。俺はコレ」
「先輩、楽譜読めるんスか?」
「あんまり早くは読めないから、こうやっていきなり見て吹くってのは無理だけど。でもこの曲なら知ってるから多分吹ける。おチビは?」
「まあ、読めますけど…」
 リョーマは言いながら、英二が嬉々として開いているページに印刷されている文字を見た。
「『おさかな天国』………」
「魚を食べると頭が良くなるー♪ってヤツだろ?」
「そうッスね…」


 即席のリコーダー合奏を強いられ、なんとか危ういながら一曲(『おさかな天国』)通し終わると、英二が嬉しそうにぺしぺしとリョーマの頭を叩く。
「やるじゃんおチビー!じゃ、次コレな!」
「…『愛のうた』…?」
「ほら、アレだよ。引っこ抜か〜れて〜あなただけにーついて行く〜♪っていう、ゲームのCMソング!」
「…ああ、ピクミン」
「それそれ!次コレ!」
「まあ、いいッスけど…」
(完全に当初の目的、忘れてますね?)
 リョーマは内心でツッコミを入れた。
 しかしツッコミを言葉に出来ないまま英二に強要されること更に2、3曲。
 いい加減そろそろ追試を済ませて部活に行かなければとリョーマが思い始めたその時に、唐突に投げ遣りな拍手が耳に届いた。
 ぎょっとして二人が振り向くと、肩越しに、英二とリョーマに追試を言い渡した若い女性の音楽教師の姿が見えた。
 英二はその時になってようやっと、自分が追試の練習をするために音楽室に来ていたのを思い出した。
(げ、やば…)
 即興の合奏に夢中になってしまって、ロクに練習をしていなかった英二は内心青ざめた―――が。
「全く、なかなか来ないと思ってたら…」
 音楽教師は下ろした腕を胸の前で組んで、ため息を吐き、言った。
「もういいわ。二人とも合格」
『?』
 予想だにしていなかった音楽教師の言葉に、二人は頭上に疑問符を浮かべた。
「課題曲より難しい曲をほいほい合奏されちゃ、合格をあげないわけにはいかないでしょう。特に越前君。君は『エーデルワイス』だったはずなのに」
 教師は言ってクスリと笑った。
「菊丸君、越前君、二人とも部活頑張ってらっしゃい。関東大会進出、期待してるわ」
「先生、ありがとー!」
 英二は満面の笑みで謝意を述べ、リョーマと共に手早くその場を片付けた。
「行くぞおチビ!」
「ウィーッス」
 音楽教師が見守る中、二人はテニスバックを引っ提げて慌しく走っていった。



<了>



※あとがき※