一目見た時から、何故か気に入らなかった。
 決して、口を開けば飛び出してくる珍妙なイントネーションの言葉のせいではない。
 背が低いことにコンプレックスを持っていたので、総じて長身の男をあまり良く思わない傾向があったが、単にそのせいでもない。
 どこがどう気に入らなかったか、明瞭に言葉にするのは難しいが、強いて言うなら、その目。
 レンズの奥に見える黒瞳は、中学二年生にしては大人びた色を宿していて、同年代の少年の誰よりも遠い所に焦点を定めているかのようなその目は、どこか達観しているようで掴みどころに欠けた。
「忍足侑士です」
 季節外れの転入生は、視線をどこに定めるでもなく、担任の紹介に続いてフルネームを名乗った。
 忍足がよろしくと短く言って、軽く会釈した時、一瞬だけ目が合った。

 その瞬間に、心の中で閃く、根拠の無い予感。

(――――コイツとは絶対、気が合いそうにない)




『氷帝ダブルス前史』




 クラスに転入生が来た次の日の、朝練でのことだった。


「向日、少し話がある」
 ストレッチの途中だった岳人の頭上から、張りのあるバリトンが降って来た。
 思わず背筋をピンと伸ばさせるような声に振り返ると、早朝であっても相変わらずピシと整ったスーツ姿の榊監督が目に入った。
 岳人は弾かれたるように立ち上がる。
「はい!監督……えっと、何ですか?」
 岳人は、何か呼び出しを食らうようなまずいことでもしただろうか、と自分のここ最近の行ないを思い返した。
 しかし数日遡ってみても、監督の逆鱗に触れそうな事件を起こした記憶は無い。
 岳人自身にやましいことをした覚えはなかったが、榊の全身から無意識のうちに放たれている威圧のオーラに、なんとなく体に緊張が走るのを感じた。
 岳人は、警察官とすれ違う時の一般人のような面持ちで、次の言葉を待った。
 しかし次に続いた榊の言葉は、岳人にとって意外以外の何者でもなかった。
「昨日、お前のクラスに忍足という男子が転入してきただろう。彼をテニス部に勧誘し、是非入部させて欲しい」
 岳人は想像もしていなかった榊の言葉に唖然とし、もう少しで間抜けな声を上げるところだったが、何とかそれを堪えた。

 呼びかけられて一体何かと思えば、転入生のクラブ勧誘。
 部員極少でクラブ存続も危うそうな弱小クラブとは違い、氷帝男子硬式テニス部の部員は既に200人を越えており、時期外れの転入生を入部させなければならないほど部員に飢えているわけではない。
 なのに、監督は転入生を入部させろという。しかも直々の命令。
 そこに余程の事情があるだろうことは、岳人にも安易に想像できた。

「忍足はテニス経験者なんですか?」
 岳人がそう尋ねると、榊は、ああ、と言って言葉を続けた。
「関西では、”天才”と呼ばれて名を馳せていた人物だ」
「天才…」
 岳人の脳裏に、一瞬忍足の顔が過ぎる。
 大人びて、達観したような瞳――――それは、天才と呼ばれるほどの類稀なるテニスの才能に支えられた自尊心故だったのか。

「実力の程は実際に目にしなければ分からないが…評判通りの腕ならば、正レギュラーとして迎えたいと考えていたんだが、どうやら忍足はテニスを続ける気はないらしい」
「…は?」
 岳人は思わず声を上げていた。
 ”天才”と呼ばれるほどの才能を持っていながら、テニスをやりたくない、というのはどういうことなのか。岳人には理解不能だった。
「どうしてそんな」
「詳しいことは分からない。ただ、昨日、忍足が教官室に挨拶に来た際に私が入部の話を持ちかけたら、彼はテニスをやる気はないと言った。それだけだ」
「…………」
「やる気のない者を無理矢理引き入れるつもりはなかったが、忍足の評判は無視するのには惜しい」
「……分かりました」
 岳人は、言ってこくりと頷いた。



(いきなり正レギュラーだって!?ふざけんじゃねぇよ!)
 監督が去ってから岳人は朝練の練習に参加したが、今日の練習は全く練習にならなかった。
 それというのも、榊の言葉がずっと頭の中でリフレインしていたからで、そしてその度に煮え滾るような怒りを覚えていたからである。集中も何もあったものではない。
(俺が正レギュラーになるまでに、どれだけの苦労をしたか!俺だけじゃない、他の正レギュラーだってみんなそれぞれ元レギュラーを打ち負かして、死ぬような思いでここまで這い上がって来てんだ。なのになんなんだよ忍足の野郎の待遇は!)
 岳人は腸が煮え繰り返りそうな怒りに任せて、地面を蹴り付けながら教室に向かった。
(そういや、跡部だって入部した時から正レギュラーだったな。アイツも忍足も、一般人とは次元が違うってことかよ!あームカつくムカつくムカつく〜〜〜〜〜〜!!)
 胸中でムカツク、と連呼しながら走っていたためか、いつの間にか教室の扉の前に辿り着いた時には完全に息が上がっていた。
「くそくそ忍足ッ!くそくそ跡部ッ!」
 岳人は肩で息を整えた後、吐き棄てるようにそう言って、がらりと教室の扉を開けた。
 教室の中は、始業ベルの時間までを考えると割合生徒が少なかったが、忍足はもう既に登校し、席に着いていた。忍足の周囲には数人の男女が群れている。
 時期外れな上に、私学という性質上、通常ならば途中で編入学があることはまずないので、珍しがられて質問攻めに遭っているのだろう。
 岳人は自分の席に着き、人垣ごと忍足を睨みつけた。
 まるで矢のように浴びせられるクラスメートからの質問に少々苦笑いしながら答える忍足の姿は、やはりかなり大人びては見えるものの、昨日教壇の上に立っていた時よりはずっと年相応に近く見えた。
「忍足君って面白いね!」
「関西人ナメたらあかんでー」
 冗談を飛ばしつつ朗らかに応対する忍足は、とっつきにくそうに見えた昨日とは別人のようである。
 岳人は、忍足のその表情を見て、徐々に自分の怒りが萎えるのを感じた。
(アイツが、本当にテニスの”天才”?)
 岳人は、あまりに普通に教室に溶け込んでいる忍足の様子に、内心首を傾げた。普通にそこら辺にいるような、一般中学生にしか見えない。
 跡部だったら、いくら教室で他の生徒の中に混じっていようと、己の卓抜した才能に相応しく、その存在を常に際立たせている。本人がそうしようと思ってそうなっているのではないだろう。跡部は、自然に、他の人間とは違う雰囲気を滲み出しているのだ。
(まあ、跡部の場合は雰囲気以前に言動が明らかに浮いてるからな…)
 岳人はふと、昨日の予感を思い出す。

 気が合いそうにない予感。

 忍足が、跡部のように同年代の人間とは一線を画した人間ならば、跡部と気が合わないのと同様に、自分と気が合うはずが無い。
(昨日の第一印象のままだったら、ソレっぽかったけど)
 ちらりとまた忍足を見てみるが、今は普通の中学生のように見えた。
 が、クラスメートの女子の次の言葉で、岳人の思考が不意に遮られる。
「忍足君は、前の学校では何のクラブに入ってたの?」
 何気なく発せられたその質問に、一瞬忍足の目に昨日の雰囲気が戻ったのを、岳人は見逃さなかった。
 しかし忍足は、巧妙に口元を綻ばせて、周囲の生徒には分からないように柔和な笑顔を取り繕って言った。
「硬式テニス」
「テニス部だったんだ!ウチの学校の男テニって強いのよ、知ってた?」
「ああ知っとる」
 忍足がやんわりと笑んでそう言ったが――――。
(アイツ、目が笑ってないでやんの)
 忍足を囲んでいたクラスメートの一人の声が、岳人の耳に届く。
「うちのクラスに、テニス部の正レギュラーがいるんだぜ。おーい岳人!」
 クラスメートが自分の名を呼ぶ。忍足に紹介するつもりなのだろう。
 これは忍足に入部を促すチャンスだと思い、岳人が腰を浮かせかけた次の瞬間、忍足の声が教室に響いた。
「あ、オレ、この学校ではテニス部入る気ないから」
(……監督が言った通りだな)
 岳人は冷静に思いながら、忍足の席に近寄る。
「え?なんで?」
 先程忍足に質問した女子が、目を丸くして尋ねる。
「俺が行っとった学校のテニス部は弱小チームやったからなー。関東強豪校の氷帝学園テニス部で、俺なんかが活躍なんて出来るはずないもん」
 忍足がへらへらと笑いながらそう言った瞬間、岳人の中で怒り混じりの疑惑が凝った。
「おい忍足」
 岳人は忍足を囲む人垣を押し退け、忍足の目の前に立った。
「なんやいきなり呼び捨てかい。まあ俺は構わんけど」
 岳人を見上げる忍足。
 顔には依然柔和な雰囲気を張り付かせていたが、その目だけは炯々と鋭く岳人の目を射抜いた。どこか挑発的な瞳。
 それは、昨日の自己紹介の時よりも更に岳人の神経を逆撫でさせた。
「お前、嘘吐いてんじゃねぇよ。弱小チームだった?俺なんか活躍出来るはずがない?よく言うよ」
 岳人の刺々しい口調に、さすがの忍足も表情を険しくする。
「……お前、名乗りもせんといきなり俺を嘘つき呼ばわりか?いくら俺でも黙ってへんで?」
「名前?オレの名前は向日岳人。氷帝男子硬式テニス部の正レギュラーだ」
 岳人は腕を組んで忍足を見下ろした。
「お前、関西では有名選手だったんだろ?聞いたぜ、”天才”って呼ばれるくらいだったってな」
「……………………」
 忍足は岳人の言葉を聞いた瞬間、研ぎ澄まされた刃物のような冷たい敵意を感じさせる視線を岳人に投げた。
「え、すごーい!」
 岳人と忍足の間に険悪なムードが漂っているにもかかわらず、岳人の口からバラされた忍足の過去に、女子生徒が場違いな声を上げる。
「だったら絶対テニス部入るべきだよ!すぐ正レギュラーになれるよ!」
「………悪いけど、俺はもうテニスやる気ないねん」
 忍足は岳人を睨んだまま、女子生徒に向かって静かに告げる。
「どうして?折角上手なんだから…」
「お前、監督の誘いを断ったんだろ?なんでだよ、理由を言えよ」
「理由?そんなの、何で初対面のお前に言わなあかんねん。俺はもうテニスはしない。それが分かれば十分やろ?」
「十分じゃねぇよ!俺はな、お前をテニス部に入部させろって監督から言われてんだ!」
 岳人はやおら、両手を机に叩きつけた。丁度その時、打撃音に被さって声が飛んでくる。
「お前ら何集まってんだ?もう授業始めるぞ。早く座れ」
 一時間目の授業の先生がいつの間にか教室に現れていた。知らない間に始業ベルが鳴っていたらしい。
「クソッ…」
 岳人は舌打ちして手を引っ込める。
 周囲にいた生徒がわらわらと蜘蛛の子を散らしたように去っていく中、苛立たしげに息を吐いて視線を逸らした忍足を一瞥して、岳人は自分の席に戻った。



 頬杖を突いて窓の外を睨むように眺めながら、岳人は悶々と思考が巡るままに任せていた。教壇の上に立つ教師の授業など、全く耳に入ってこない。
(なんなんだよ、あの野郎の物言いはっ…!)
 あの野郎、とはもちろん忍足のことである。
(敵意剥き出しにしやがって……って、確かにオレも、初っ端からちょっとキツい言い方したよーな気はするけど)
 先程の忍足とのやり取りを反芻して、岳人は自分の態度を少しだけ反省した。
 そうしている内に熱くなっていた頭がだんだん冷えてきて、岳人はふと忍足の言葉の一片を思い出す。
(そういやアイツ、『なんで初対面のお前に言わなあかんねん』って言ってたな。ということは、入部を断るのには一応それなりの理由があるってことだよな?)
 自問自答していると、また一つ疑問が浮かび上がってくる。
(そういえば…なんでアイツ、嘘を言ったんだ?)
 女子生徒の質問に対して、忍足は明らかに嘘を吐いていた。”天才”と呼ばれるくらいの実力がありながら、自分なんかが活躍できるはずがない、と言い切ったのだ。
 それだけならば謙遜とも取れないことはないが、岳人は、忍足が以前いた中学校の活躍を榊から聞いていた。忍足のいた学校の名は、関東圏の岳人でも耳にしたことがある関西地区強豪校のものだった。決して弱小チームなんてものじゃない。
 テニス部に入部することを拒否することに理由がある以上、忍足が過去を偽ったのは気まぐれだとは思いにくい。そこにも何らかの理由があるはず―――しかもその理由が入部拒否の理由と関係があるのではないだろうか―――そう考えることは、至極当然のことのように岳人は思えた。しかし――――。
(…理由があろうと無かろうと、オレは監督に頼まれた通り、忍足を勧誘するだけだ)
 岳人は内心そう呟きながら、胸中に言い知れない靄がかかるのを感じた。



「忍足!」
 終業のベルが鳴ると同時に、岳人は口を開いていた。
 名を呼ばれた本人は丁度鞄を持って席を立とうとしていたところで、岳人の声にぴたりと動きを止めていた。
「ちょっと話が…」
 岳人が言い終わるのを待つまでもなく、忍足は一瞬嫌そうに眉を顰めた。
 かと思うと、すぐににこっ、と笑顔を作り、コミカルに片手を上げてくる。
「じゃ」
 白々しいほど明るくそう言って、素早く身を翻す忍足。
「じゃ、じゃねぇ!待ちやがれコノヤロウ!!」
 岳人は、すたこらと立ち去ろうとする忍足の背中に向かって叫び、机の間を縫って追い掛ける。
 岳人は、忍足に入部を促すのに躍起になっていた。
 休み時間の度に忍足に入部を打診しようと考えていたのだが、朝の出来事で嫌な予感を抱いたのか、忍足は一日中、休み時間に入るとすぐ姿を消しており、岳人は一向に忍足を捕まえられずにいた。

そして今に至る。



 岳人は今日最後のチャンスを逃すまいと、必死に走る。
 忍足も岳人に捕まるまいと、必死に走る。
 全速力で追いかけっこを繰り広げる二人の男に、生徒たちがぎょっと驚いて道を開けていく。目を白黒させている生徒たちの顔を横目に映しながら、岳人は懸命に忍足を追いかける。
「待てっつってんだろー!」
「自分いい加減しつこいわ!」
「しつこくて結構!いいから止まれよ!」
「そっちが止まったら止まったるわ!」
「お前が先に止まれ!」
「そっちが先に止まらんかい!」
「テメーが先!」
「あーもー!こう言ったらああ言う!」
「それはこっちのセリフだ!!」
 だだだだだ、と派手に足音を立て、不毛な会話を繰り広げながら、岳人と忍足は廊下を駆け抜ける。続く膠着状態。
 しかし身長差に伴うストライドの差で、なんだかんだ言いながらも、忍足は徐々に岳人を引き離しつつあった。
(くっそー、このままじゃ逃げられる…!)
 岳人は忍足が階段の踊り場に差し掛かった時、一か八か賭けに出た。

 だんっ!

 階段の床を大きく蹴りつけて踏み込み、跳ぶ。
 忍足が音に振り返る。そして跳んでいる岳人を見て表情を凍らせるのが見て取れた。
「げっ…!」
 忍足の足が止まり、そして忍足は慌てて岳人を避ける。
「よっしゃ!」
 空中で拳を握って、岳人はそのまま踊り場に―――忍足の隣に着地した。
「お、お前、危ないやんけ!何跳んでんねん!?」
「あ、これオレの十八番。プレイスタイル。だから平気。そんなことより!」
 岳人はビシ、と忍足を指差す。
「待てっつってんのにひたすら逃げやがって!もー逃がさねぇぞ!」
 岳人の言葉に、忍足は一瞬言葉に詰まったようだったが、やがてウンザリとした表情で後頭部をがりがりと掻いた。
「あのなあ、俺はテニス部に入る気はないって朝言ったやろ?何遍聞きに来ても、答えは同じやで」
「それならそれで、納得の行く理由をちゃんと言えよ!理由も無くなんとなく断りました、で、ハイそうですか、と引き下がれるかこのボケ!」
「ッ!ボケとは何やねん、アホ!」
「アホとは何だアホとは!!」
 岳人は全く進展しない会話に地団太を踏んだ。
 そしてキッ、と忍足を睨み上げる。
「どうしてそう頑固なんだよお前は!つか、大体気に入らないんだよ!自分の才能を鼻持ちかけているような顔しやがって!」
「なっ…いつ俺がそんな顔してたっちゅーねん!?俺、まだこの学校来て2日目やで!?」
 心外そうに目を丸くする忍足に、岳人は指を突きつける。
「2日目だろうが何だろうが、そんなの関係ないね!」
 岳人は、忍足と初めて目が合った時のインスピレーションを思い出していた。
 どこか達観していて、大人びている忍足の瞳と自分の瞳がぶつかった時、感じた予感――――気が合いそうに無い、と根拠も無く思った。
 しかし今考えると、確かにそこに根拠は存在していたのだろう。
 今だから分かる。あの目は、他とは違う”天才”ゆえの余裕を秘めた瞳だった。
(きっと、無意識のうちにオレはそれを感じ取っていたんだ!)
「お前の目が、”俺はお前ら凡人とは違う”って言ってるんだよ!そりゃお前は”天才”だもんな!」
 悪罵が、頭に浮かぶ間もなく、口を突いて次々と飛び出す。
「汗水垂らして努力しなけりゃ正レギュラー一つなれやしないオレとかとは違って、お前は入部と同時に正レギュラーのポストを約束されてる。ハッ、そりゃそうだよな!お前は”天才”で他とは違って、何でもすぐに出来るんだろうからな!お前なんか、努力も苦労も知らねぇだろ!?ムカつくんだよ!そういうの……ッ!」
 岳人は、一瞬自分に何が起きたのか分からなかった。
 ただ、背中に強い衝撃を感じ、誰のものか知らないが女子生徒の悲鳴が耳に届き、胸に強い圧迫感を覚えて言葉が途切れた時、岳人はようやっと、自分の置かれた状況を理解した。
 忍足は、岳人の胸倉を捻り上げて掴みながら、岳人の体を壁に押し付けていた。
「自分、今、何て言った…?」
 忍足の肩が、怒りのためか小刻みに震える。
「俺が”天才”やから何でもすぐ出来るって?努力も苦労も知らないって?」
 奥歯がぎり、と軋む音さえ聞こえてきそうなほど、忍足の顔が般若のような形相に変わった。より一層胸倉を締め上げる手に力が篭る。
「よう覚えとけ。俺はな、天才って言われんのが一番嫌いなんや」
「な、なんで……」
「なんで?なんでもクソもあるかい!」
 瞬きさえ忘れ、血走った目を岳人の目に向けながら、忍足は続ける。
「最初は、そりゃ”天才”って言われて悪い気はせんかったわ。でも暫くしたら気が付いた。”天才”ってだけで、俺の努力が無になってしまったことをや!」
 岳人は、何か言いたげに少し呻く。
 しかし意に反して声が出ず、段々胸を押さえつける力が増してきているのを悟った岳人は、忍足の腕を両手で掴んだ。
 そこに至って忍足も少々行き過ぎたと気付いたのか、ようやっと岳人の胸倉から手を離す。
 忍足は一瞬、バツの悪そうな表情を岳人に向けたが、すぐにくるりと踵を返して背中を向けた。
「”天才”ってだけで…お前が思うように、俺が大した苦労もしてない、したはずがないとみんな思う。苦労せず、どんな技も習得出来たんやと考えてる。そんなこと、あると思うか?生まれながらに秀でている人間なんて、いると思うか?」
 先程とは打って変わった静かな口調の中に、岳人は、忍足の秘められた怒りの大きさを感じて眉を顰めた。
「”天才”という呼称ただそれだけで、俺がどんだけ努力してるか、誰も見ようともしない。俺自身が知っている俺の努力の成果は、全て”天才”ゆえやと置き換えられる。”天才”だから出来て当たり前やと。”天才”で、普通とは違うんやから、と」
 忍足が小さく息を吐く。
「”天才”ってのは天与の才能のことやろ?俺はそんなもん持ってない。俺がそこらの同年代の人間よりテニスが強いのは、そうなるよう努力してきたからに過ぎん。決して、生まれつきそうだったとか、なるべくしてなったわけやない。それは、俺自身が一番よく分かってる」
 忍足は身体の横に垂らした腕に力を込めて、拳をきゅっと握った。
「”天才”って言葉は、俺の努力や苦労をあっさりと無いものにしてしまう。”天才”というカテゴリに入れて区別することで、まるで全能であるかのように扱って―――”天才”ってのはあまりにも無神経なレッテルで…俺は大嫌いや」
「…………………」
 岳人は返す言葉を失って、口をパクパクと開けては閉じ、を繰り返していた。
「あ、えっと」
 岳人は一度深呼吸をしてから再度口を開く。
「”天才”って呼ばれんのが気に食わないってのは分かったけど………それってようは、天才って言われるのが嫌だからテニスやらないってことかよ?」
「…………………」
 無言の返答。
 そこに肯定の意を感じ取って、岳人はふと呟く。
「…それって、驕ってんじゃねぇの?」
「!?」
 忍足が凄い勢いで振り返った。
 岳人は一瞬、びく、と背筋を震わしたが、すぐに平静を装って口を開く。
「だってそうじゃんかよ。関西で”天才”って呼ばれてたからって、こっちでも呼ばれるかどうかなんて、やってみなきゃ分かんねぇじゃん」
「…悪いけどな、俺は全国区の選手やってん。生憎、井の中の蛙ってわけじゃあないんやで」
「でも、うちの学校には超中学生級の跡部とかいるぜ?そう簡単に”天才”なんて呼ばせてもらえるかっての。それに第一、贅沢すぎるぜ、お前のその悩み。そんなこと言って、結局は実力を自慢したいだけなんじゃねぇの?ってオレは思うね」
「なっ…!」
「ってのはウソ」
 怒って声を上げかけた忍足を、岳人はウソの一言で制す。
「確かにお前の言う通り、”天才”って聞いたら、普通の人間とは違うって思って線引きしちゃうし、努力も何もしてないように思うってのはあるよ。オレも実際そうだったし」
 岳人は、自分が言った言葉を一字一句思い出す。
 言った時は何も思わなかったが、今なら分かる。忍足に対して一番言ってはならないことを言ったのだ、と。所詮、”天才”は普通とは違うのだから、と区別をし、”天才”の苦悩など全く振り向きもしなかった。
「でもな、お前が分かってないこともある」
「…は?」
「お前が”天才”って呼ばれるようになったのは、そもそもその呼称に見合うだけの実力があったってことだろ。それって、少なくとも呼び始めた人たちの間では、お前の努力の結果が認められてたってことじゃねぇの?確かに、”天才”っていう言葉だけ耳にして誤解した連中は多かっただろうけどさ」
 唖然と棒立ちになっている忍足を一瞥し、岳人は言葉を続ける。
「誤解されんのがなんだってんだよ。お前はお前自身の努力とか苦労とかの存在を分かってんだから、それでいいじゃん。自分の努力や苦労が他人に見向きされないからってひねくれてんじゃねぇよ。言われなきゃ分からないことだってあるだろ?見向きされなかったら、100回でも1000回でも、自分のことを訴えりゃいいんだよ。言いたくないとかカッコつけやがって」
「…お前、口悪いなぁ」
 忍足はそう言って、ぷっ、と笑った。
「あ?何で笑うんだよ!?オレ、お前をけなしてんだぜ!?カッコ悪いことしてるって!」
「はいはい。かっこ悪かったなあ、俺」
 忍足は腹を抱えて、くくくと笑う。
「ようはお前、俺にテニスから逃げんなって言いたいんやろ?」
「…………は?…えーと……?…そうなる…のか………?」
 何が何やら良く分からなくなって、頭の上に疑問符を浮かべる岳人。
 忍足は目の前にある岳人の頭をぽん、と叩く。
「テニス部入部の件、考えたる」
 身長差を見せ付けられたような気がして、頭に載った手を払い除けようとした矢先のこの言葉。
「え?マジで?」
 頭に向かいかけた両腕を空中でぴたりと止め、驚愕にぽかん、と口を開けて見上げる岳人に、忍足は頷いた。
「ただし条件がある」
「条件?」




「2年の忍足侑士です。昨日はすみませんでした。テニス部に入部させてください」
 音楽準備室にいる榊の元を訪れた忍足は、出し抜けにそう言った。
 榊は、付き添ってきた岳人にちらりと視線を向けてから忍足に視線を戻した。
「関西での活躍は聞いている。ここでの活躍も期待している」
「ありがとうございます。でも一つ、入部にあたってお願いがあります」
「なんだ?」
 忍足は、榊の目をじっと見て告げる。
「ダブルスを中心にやらせて下さい。この…向日とペアで」
「ダブルス?君はシングルス選手じゃなかったか?」
「はい、関西ではシングルス中心にやってました。でも、ダブルスにも挑戦してみたいんです。必ず実績を打ち立ててみせます。やらせて下さい」
 忍足の強い視線が、榊の目の射抜く。
 一瞬、榊は眉を顰めた。何か言いたそうに一度口を開いて、また閉じる。
「……いいだろう。やってみろ」
「ありがとうございます」
 忍足はぺこり、と頭を下げた。


「失礼しました」
 部屋を出て、岳人は顔を顰めて忍足を見る。
「なんでオレとダブルスなんだよ。オレ、言っちゃ悪いけど、スタンドプレーが多いからダブルスには全く向いてないって言われてんだぜ?」
「向いてないって言われてようが何だろうが、自分が出来ると思ったら出来る。俺はそうして来たからな。それに、お前が何と言おうと、俺をもう一度テニスに引っぱり込んだんは、お前が俺を追っ掛け回してあれこれお節介なこと言ってきたせいやからな。お前が責任取るのが筋ってもんやろ」
「はぁ!?何言ってんだよ!オレは義務で追っ掛けてただけだぜ!?」
「結果は結果や。諦め」
 澄まし顔で言ってくる忍足に、岳人はぷち、とこめかみが音を立てた気がした。
(気が合いそうに無い、という直感はあながち外れてなかったかも)
「クソクソ侑士!横暴!」
「何とでも言え」
 拳を振り上げる岳人に、忍足は舌を出して逃げの体勢を取った。
「待ちやがれ!」
 岳人の怒声が廊下に響いて、また追い掛けっこの幕が開ける。



<了>




※あとがき※