はらりはらりと舞い落ちる桜は、まるで涙のようだと、そう思った。



『空近し桜の季節・外伝』



 卒業式中座りっぱなしで蓄積したストレスを発散するかのように、式が終了して外に出た途端、穏やかに晴れた春の空の下、卒業生の一団からわぁっと歓声が上がった。
 はちきれんばかりの晴れやかな笑顔。笑顔。笑顔。
 ほとんどの生徒がそのまま高等部に進学するため、卒業式につきものの湿っぽい雰囲気は、ここには全然ない。中学卒業という大きな節目に浮かれ、はしゃぐのみである。
「撮るよー!」
 カメラを構えるとすぐに、フレームに収まりきらなくなるくらいに大量の人間が集まってくる。
「おい押すなよ〜!」
「ちょっと男子!前に立たないでよー、映らないじゃない!」
 瞬間的に押しくらまんじゅうのようにごったがえす様子を横目で見つつ、朋香はふと、一人の人間の姿が見えないことに気がついた。
(あれ…桜乃?)
「朋香も写真に入ろうよ!」
 クラスメートの声が飛ぶが、朋香は「ゴメン、また後で!」と答えて、身を翻した。


「桜乃ー!桜乃ー!」
 朋香は賑わう校庭を後にして、桜乃の名を呼びながら校内を歩き回った。
 しかし、教室、女子トイレ、屋上、部室―――その何処にも桜乃の姿は無い。
「いないなぁ…どこに行ったんだろ、桜乃ってば」
 朋香は腕を組んで頭を捻った。
(桜乃の行きそうな所、他にあるかな?)
 無人の廊下をてくてくと歩きながら、朋香はふと、視界の端に映った薄ピンクの絨毯に気がついた。
「あ、桜並木…」
 校舎の入口から校門に続く桜並木の道。
 そこには、休み時間や放課後に、リョーマが背中を預けてよく眠りこけていた桜の木があった。
「………………」
 朋香は半ば確信しながら、窓の傍に寄る。
 額を押し付けるようにして窓の外に目を凝らすと、案の定、薄ピンクの絨毯の隙間に女子の制服が見えた。
 一本の樹の根元で、膝を抱えて俯いている女の子が一人。
 遠くからでも見紛うことがない、長い2本の三つ編みが、丸まった背中に垂れている。
「桜乃…」
(泣いてる…のかな)
 桜乃の制服の肩が戦慄く様子が、朋香にははっきりと見えた。
「…目が良すぎるってのも嫌なもんね」
 朋香は思わず自嘲する。

 あの桜の木は、件の木。

「そういえばリョーマ様、アメリカに行っちゃうんだったな…」
 呟いて、心にズキっと痛みが走るのを感じる。
 きっと、桜の木の根元で泣いている桜乃も、同じような痛みに苦しくて、遣る瀬なさを感じているんだろう。
 朋香はそう思って、少し目頭が熱くなるのを感じた。
「ヤバ…」
 丁度その時。
「あれ、小坂田さん。一人?」
「!?」
 驚いて、弾かれたように朋香が振り返ると、そこに立っていたのは、小脇に卒業証書を抱えたカチローだった。
 朋香と目が合ったカチローは、開きかけた口を一旦閉じる。
「…外に、何か見えるの?」
 カチローは一瞬口篭った後にそう言って、赤く潤んだ目を大きく見開く朋香から目を逸らた。
 カチローが窓の外へ視線を向けたその隙に、朋香は慌てて目を擦る。
「な、何も!それより、カチローは、なんでこんなところに居るのよ」
「僕はリョーマ君を探してるんだけど、小坂田さん、リョーマ君見なかった?」
「み、見てないわ」
 カチローは朋香の声を聞きながら、窓の外、桜の木の下にいる人物に気がついた。
 朋香もまた、親友を探してここに来たのだと察して、カチローは朋香に向き直る。
「小坂田さんは竜崎さんを探してたの?」
「…うん、まあ…そういうことだったんだけど…」
「けど?」
「もういいや」
「もういいって?」
 カチローが目を丸くして尋ねると、朋香は少し逡巡した後に、困ったように笑って答えた。
「桜乃、一人で居たいみたいだから」
「…そう」
 カチローはそう一言相槌を打って、窓の外に視線を向けた。
 朋香もつられて外を見やる。


 視線が外を向いたまま、二人の間に沈黙が訪れる。
 静かな時間が刻々と流れて、お互い少し気まずさを感じ始めた時、先に口を開いたのはカチローだった。
「あのさ」
 カチローは少し小首を傾げるようにして、朋香を見た。そしてただ一言、こう言った。
「大丈夫?」
 唐突に投げかけられた言葉に、朋香は冷水を浴びせられたような気がした。
 戸惑いながら顔を上げると、カチローはまっすぐに朋香を見ていた。
「大丈夫って…」
「小坂田さん、リョーマ君のこと好きだったでしょ?だから…」
 言いながら、カチローは窓の外に視線を向ける。
 薄青い空を見上げ、ゆっくり流れる白い雲を目で追いながら、カチローは言う。
「だから、その…辛いんじゃないかなって」
「…………………」
 カチローの言葉に、朋香は唇を一文字に引き結んで、ぷい、とそっぽを向く。
「ごめん、お節介だったかな」
 すまなそうにそう言って、カチローは目を伏せた。
 瞬間、目に入る窓の外の黒い人影。
 男子の制服に身を包み、一本のとある桜の木に向かって歩いているその影は、とても見慣れた後ろ姿だった。
(リョーマ君)
 カチローは思わず名前を呼ぼうと、窓の鍵に手を伸ばしかけた。
 しかしその時、目の前の朋香の目線がリョーマに向いているのが目に入り、カチローは動きを止めた。
 リョーマを見つめたまま微動だにしない朋香に、カチローはおずおずと声をかける。
「小坂田さん…?」
 窓越しの桜と、黒い人影を映す朋香の瞳が、僅かに揺らぐ。
「ねえカチロー」
「?」
「…恋って、するだけでも苦しいのに、失ってもなお苦しいのは、どうしてなんだろ…」
 力なく呟くように朋香の口から滑り出た言葉に、カチローは目を瞬かせる。
「失って…って……その……えっと…………ふられた…の?」
「別に、ハッキリそういうことがあったわけじゃないけど」
「じゃあ」
「確かめなくても分かるわよ。…リョーマ様を好きだったから、いつも見てたから、リョーマ様が誰を好きかってことくらい」
 朋香の視線の先を追うと、リョーマが桜乃の腕を掴んでいる様子が見えた。
 カチローは朋香の心中を思って、悲しそうに額を曇らせる。
「桜乃はいい子だから…リョーマ様が桜乃を選ぶんだったら、あたしは構わない」
 朋香は気丈にそう言いきって、目を伏せた。
「でも」
「…………」
「想うのは…自由なんじゃないのかな。失うとかそんなこと言わずに」
「………あたし、いつ会えるかも分からない人をずっと想ってられる程、強くない」
「…………」
「…あたし、自分がこんなに弱いなんて思ってなかったわ」
「小坂田さん」
 カチローがそう呼びかけると、朋香の瞳が一際大きく揺れた。
「ごめん、やっぱり大丈夫じゃないかも」
 朋香はそう言って、窓から身を起こす。
 より一層力の込められた口元は、込み上げる何かを必死で我慢しているようで。

「ごめん、カチロー…ちょっと、肩貸して」

 カチローが返事する前に、朋香の額がカチローの肩の上に落ちる。
 濃褐色の髪の毛が目の前をちらつくのをぼうっと見つめていると、くぐもった声が途切れ途切れに言った。
「カチロー、背伸びたね。…肩がこんなとこにあるなんて。…リョーマ様と、どっちが大きいの?」
「僕かな」
「…そう。リョーマ様、牛乳嫌いだもんね」
「うん。結局一日2本以上は絶対飲もうとしなかったもん」
「リョーマ様、カチローなんかに背、追い越されて…内心ムカついてるんじゃない?」
「”なんか”って何だよ。ひどいなあ」
「…うん、ごめん」
「……………。…もっと盛大に泣いてもいいのに」
「…ほっといて。人に…泣いてるとこ見られるの、嫌なの」


 そう言って、静かに、本当に静かに、音も立てずに泣く朋香の頭越しに、カチローは舞い落ちる桜の花びらを見る。


 はらりはらりと舞い落ちる、白くすら見える薄ピンク色の小さな花びら。
 風に揺れながら音もなく落ちていくその様子は、まるで肩で泣く少女の涙のようだと、そう思った。



<了>



※あとがき※