『Dreamer』



 ふと、暗闇の中で自分の名が呼ばれた気がして身じろぎをした。
 気だるい全身が、まだ睡眠が欲しいと訴えている。
「もう少し…」
 くぐもった自分の声を耳に入れつつ、上布団を巻き込むようにして丸く包まる。
「ダメよ」
 涼やかで快活な声と共に、ひんやりとした手が、露わになった額に触れる。
「アキラ君、起きて。遅刻するわよ」
 んん、と呻きながら目を開くと、早朝の黄みを帯びた皓い陽光がまず最初に目に飛び込んできた。そしてその光を背負うようにして自分を覗き込んでいる人影。
 薄茶色の髪の毛が陽に透けて金色に輝き、端整な顔は優しげに微笑んでいた。
「アキラ君、オハヨ」
 むくりと起き上がって目を擦ると、人影の輪郭が鮮明になった。
 エプロン姿の杏が、姿勢を正す。
「朝ご飯、もう出来てるよ」
 言って身を翻す杏。
 同時に、腰で結ばれているエプロンの紐がくるりと輪を描いて跳ねるのがとても愛らしい。
「杏ちゃん」
 その様子があまりにも愛らしいので、思わず手を伸ばして杏の手首を取った。
 そのまま軽く引っ張って抱き寄せると、ほんのり木の匂いが鼻腔をくすぐった気がした。
(木?)
 疑問に思う意識が突如起こりつつも、自分は杏の細い身体に腕を巻きつけて口を開いていた。
「おはよ」
「うん、おはよ」
 杏はニッコリ笑って言った。
「朝ご飯は、アキラ君の好きなほうれん草のおひたしを作ったよ」
「杏ちゃ…」

 言いかけて、ふとガタン、という大きな音に意識が遮られた。
 急速に覚醒してハッと我に返った時、優しげに微笑んでいた杏の顔はどこへやら、冷ややかな視線で自分を見下ろす深司と目が合った。


「…おはよう」
 深司の言葉と同時に、神尾はガバッと上半身を起こした。
 部室の窓越しにとっぷりと日の暮れた群青色の空が覗き見えて、神尾はその瞬間、思い出した。
 委員会の仕事で部活を休んだ橘の代わりに、練習後部室に居残って日誌を付けていたこと、深司は暫く神尾の仕事が終わるのを待っていたが、教室に忘れ物をしたとかで少し席を外していたこと、誰もいなくなって静かになった後、練習の疲労からかウトウトとしかけていたこと、である。
「あ…アハハ…えっと、オレ寝てた?」
 尋ねるまでもなくそうだろうとは思ったが、何やら刺々しい雰囲気を醸し出している深司の様子はきっと、「わざわざ待ってやっているのに居眠りをしやがって」と責めているのだろうと感じ、神尾は乾いた笑い混じりにそう言うしかなかった。
 神尾のその推測が合っていたのかどうかは分からないが、深司はそのまま、こくりと頷いた。そして、視線をすっと落とす。
「?」
 怪訝そうに深司の視線を追いかけると、自分の手が深司の手首を掴んでいるのが目に入ってきた。
「!?」
「…いい加減離してくれない?痛いんだけど」
 なにやら訳が分からず、慌てて神尾は手を離した。
「………なんでオレ、深司の手掴んでんだ?」
「俺が知るわけないじゃん。寝てるのかな、って思って近づいたらいきなり神尾が掴んできたんだから」
「え、マジで?」
 神尾には、そのようなことをした記憶はさっぱり無かった。どうやら寝惚けていたらしい。
「…やたらとニヤけてて気持ち悪い顔してたけど、やらしい夢でも見てたの?」
「はぁっ!?」
 神尾は深司の言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「なんだよ!やらしい…ゆ…め………って……」
 神尾は言いながら、ふと夢の内容を思い出した。
 確か夢の中に、杏が登場した。
 杏はエプロン姿で、寝ている自分を起こしに来た。
 そして杏の手首を取って抱き締めて。
 神尾はそこまで思い出して、全身の血が逆流して、かぁっと顔が赤くなるのを感じた。
(あれは新婚生活一場面…?)
「…………」
 耳まで真っ赤にして押し黙ってしまった神尾に、深司がぽつりと言う。
「やっぱりやらしい夢見てたんだ」
「やっ、やらしくなんかねぇよ!」
 ムキになって否定する神尾を、深司が胡散臭そうに見る。「ならどういう夢だったんだ」と問いたげな視線に、神尾は思わず視軸を逸らせた。
「…寝言言ってたけど?」
 ポツリと深司が漏らした一言で、神尾は一瞬で動転して顔を上げる。
「っ!?ぜ、全然やらしくなんか無かったんだからな!ただ、なんか杏ちゃんがエプロン付けてて、んでオレを起こしに…!」
「ふーん、そういう夢だったんだ」
「…………!?…カマかけやがったなっ…!」
 神尾は更にみるみる顔を赤くして、深司を睨みつけた。
 しかし、深司は全く表情を変えることなく、「神尾が勝手に喋ったんだろ」と涼しい顔でそう言い放ち、更に続ける。
「それに『アキラ君』とか、自分で自分の名前呟いてて凄く気持ち悪かったんだけど」
 真顔でそう訴えてくる深司にどう反応してよいか分からず、神尾はしばらく呆然としていたが、ややあった後、深い深いため息を吐いた。
「悪かったな、気持ち悪くて」
 神尾はバツが悪そうに後頭部を掻いて、再び日誌に向かった。
 深司は神尾の対面にあるパイプ椅子を引いて座る。そして相変わらずの無表情で突然口を開いた。
「夢ってさ、その人の願望の現れなんだって?」
 ごん。
 神尾は勢いよく机に突っ伏す。
「具体的にどんな夢見てたの?」
「おまっ…!ま、まだその話続ける気かよ!もういいだろ、忘れろよその話は」
「寝惚けて手まで掴まれたんだから、内容を詳しく知る権利くらいあっても良くない?」
「なんでだよ!プライバシーの侵害もいいとこじゃねぇかよ!」
 なんとか話の矛先を変えたくて、少し高尚な訴えを起こしてみたが、深司は全く動じず、軽く目を伏せて口を開いた。
「プライバシー?夢にそんなものがあるかっての。ちょっと小賢しい知恵振りかざして話の矛先変えようとしちゃってさ、自分の都合が悪くなるといつもコレだ。全く、やんなっちゃうよなあ」
 ブツブツとぼやき始めて、こうなったら放っておこうと神尾が思ったその瞬間。
「で?」
 と、唐突に、深司は真顔で神尾の方を振り返った。
「…あ?」
 いきなりの切り返しに思考が付いて行かず、ぽかんと口を開けて見返す神尾を、深司は嫌そうに半眼で睨んだ。
「神尾ってやっぱり馬鹿?」
「やっぱりってどういうことだよおい」
 そう言って、神尾がペンを置いて本格的に抗議しようとした途端、がちゃり、と部室の戸が開いた。
 部室の戸の四角い枠に切り取られた薄闇の中、一人の人影が部室の光の中に歩み出る。
「よう、まだやっていたのか」
 後ろ手に扉を閉めた橘は、二人の方に歩み寄りながら言う。
「すまないな、仕事押し付けてしまって」
「俺は特に何もやってないですけど」
 深司がぼそりとそう言うと、橘は大らかに笑いつつ空いている椅子を引いた。
「どうだ神尾、進んでいるか?」
 椅子に腰掛けながら尋ねてくる橘を見て、神尾は唐突に先程の夢を思い出した。
(そういえば杏ちゃんが奥さんになれば、橘さんは義理の兄ってことになるんだよな…)
「神尾?」
 エプロンを付けた杏の可愛さを想像の中で反芻し、夢の新婚生活にトリップしていた神尾は、不意に耳に入ってきた橘の呼びかけに思わず答えた。
「あ、はい!何ですかお義兄さん!」







 その後、帰宅の途上。
「いや、マジでビビッた。一時はどうなるかと思ったよ」
 部室が見えなくなるところまで来て、ホッと胸を撫で下ろした神尾に、深司はぼそりと呟いた。
「…橘さんが鈍くてつまらない」
「お、おまっ…!つまらないって言い方はないだろ…!でも確かに鈍いよなあ…」
 神尾は部室がある方向を振り返って、先程の顛末に思いを馳せる。




 神尾が橘をお義兄さんと呼んでしまった後、気まずい沈黙が流れるかと思いきや、橘は高らかに笑ってこう言った。
「神尾、そんな間違い今時流行らんぞ!それじゃあ小学生が女の先生をお母さんと呼ぶようなもんだろ」
「………………………」
 神尾は思わず深司の方を見た。
 深司は係わり合いになりたくないのか、明後日の方を向いていた。
「………………………」
「そういえば青学の副部長は、時々部員に『お母さん』と間違えて呼ばれるらしいな。大石は一体どんなスタンスで――――」
「……………」
「……………」
 神尾と深司は返すべき言葉を失い、はあ、とか、そうっすね、とか橘の話に適当に相槌を打った。
 暫くの間世間話が続き、結局神尾が行っていた作業を橘が引き継いで、その場は事なきを得たのだった。




「―――まあ、実際のところ良かったんだけどさ、鈍くて。命拾いした」
「…”お義兄さん”の意味が分かったら、橘さん怒るかな?でも怒るってことは、それってシスコンってことだよね。橘さんってシスコンかな?」
「………………そうでないと願いたい」
 神尾は、「お前なんぞに妹はやれん!」と橘に殴られる図を想像して、心底それが実現しない事を、藍色の空に輝く一番星に願った。




<了>





※あとがき※