完全に、自分の身体の動きは自分の意識の範疇外だった。
 自分の意識はさっきから、もうダメだ、動けない、と訴え続けている。
 それでも、身体はそんな意思と関係なく動き続ける。
 何か見えない力に引っ張られているように。




『過ち、そして勝利、そして涙』




 ぷつりと意識が途切れていた。
 いや、途切れたことは自覚していなかった。試合が終了するまで。

『ゲームセット、ウォンバイ不動峰神尾、7-6』

 試合のアナウンスが耳に流れ込んできて、急速に世界が開けた。光が満ちた。
 拳を握り、歓喜の声を上げて、勝利の実感を身体に満たす。
 しかしその実、自分がどうやって試合に勝ったか、あまり思い出せなかった。
 思い出せるのは、タイブレークに持ち込み、必死になって、飛び込むようにして、執念でボールを打ち返したあの一球が最後。
 それから先は、自分がどのようにプレイしたのかほとんど記憶が無く、異常な高揚感だけが余韻として身体に残っているだけだった。
「神尾!」
 ベンチから飛び出して、仲間が駆け寄ってくる。喜びに満ちた顔。弾む声。

 途端に、力が抜けた。


 張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、かくん、と膝が落ちた神尾を見て、一番前を駆けていた石田が強く地を蹴り、最後の数メートルを全速力で縮めた。
 神尾が地に倒れこむ前になんとか体を支えた石田は、ほっと息を吐く。
「アキラ、大丈夫か?」
 石田の肩越しに桜井の声を捕らえながら、神尾は目を閉じて全身で大きく息を一つ吐き、笑顔で答えた。
「疲れた」
「大丈夫かよ?」
 声に目を開けると、内村が顔を覗き込んでいた。
「どうってことない」
「嘘つけ、立てないくせに」
 ニヤッと笑って言う内村に、神尾もうっさいなと言ってニヤリと笑顔を返す。
「お疲れ、アキラ」
 不意に、石田が支えているのとは逆の方の脇の下に腕を差し入れながらそう言ってきたのは森だった。
「センキュー、森」
「お疲れ様。もっとも俺だったらもっと短時間で危なげなく勝てたと思うけど」
「深司…労いたいのか文句言いたいのかどっちなんだよ」
 深司の相変わらずのボヤキに苦笑していると、ふと目の前に現れた人物が声を上げた。
「神尾、よくやったな」
「橘さん…」




 都大会準決勝、交通事故による身体的精神的ダメージをおして試合に臨もうとした。自分たちの代わりはいなかったから。
 たった7人の仲間。誰も代わりになることは出来ず、誰一人欠けることが許されない。
 だから、自分たちの怪我のせいで試合を放棄したくなかった。チームの足を引っ張りたくなかった。
 それに何より、諦めたくなかった。負けたくなかった。
 負けたのは地区大会決勝の青学戦のみ。あれ以上黒星を重ねたくなかった。


 でも結果的には、最悪の結末を迎えた。
 負ける直前での試合放棄。それが橘への非難の嵐を生んだ。
 指導者としての倫理を疑われ、卑怯だと罵られ、橘の名声は一瞬にして地に堕ちた。


 橘さんはそんな人じゃない!
 虐げられていた自分たちに救いの道を示し、一緒に新しい道を歩んでくれた人なんだ。
 誰よりも親身になって指導してくれて、ここまで実力のあるチームに育ててくれた人なんだ。
 試合に出たのは橘さんに言われて出たわけじゃない。自分たちの判断で、橘さんに事故の事実を隠して勝手に試合に出ただけなんだ!

 そう訴えたくても、自分たちの行ないが周囲の非難を招いたのは事実で。そして橘さんが部長として最高責任者であるのも事実で。
 気付けば、良かれと思って選択した行動が、誰よりも恩に報いたいと思っていた人を追い詰めてしまっていた。


 悔しかった。自分の未熟さが。浅はかさが。


 あの時、無茶をするんじゃなかった。
 事故のことを隠さず、橘に話すべきだった。
 そうしていたら、試合放棄によって敗北はしただろうが、橘を窮地に追い込むことはなかった。

 自分はあの時、選択を誤ったのだ。

 その過ちを晴らしたいと強く願って臨んだ今日の試合。

 勝利した自分は、あの時の浅はかな自分から、少しは卒業できただろうか。
 橘の恩に、少しは報いることが出来ただろうか。




「神尾、よくやったな」
 橘の一言が、優しく、温かく、神尾を包む。
 橘の置かれた立場に思いを馳せれば馳せるほど、自責の念が積もる一方だった練習の日々を、神尾は橘を見上げて思い出す。
 あの試合の後も全く変わらず、それまでと同じように自分たちに接してくれた橘。それがどれだけ救いだったか―――。
「橘さん…」
 自分たちのせいで周囲から白い目で見られるようになってしまっていたのに、温かく迎えてくれる橘の姿勢が、本当に嬉しい。


 地区大会からずっと、いや部を立ち上げたときからずっと目指していた全国大会。そこに手が届いた。自分の手で、全国大会行きの切符を手に入れた。
 辛かったこと、苦しかったこと、様々な苦難の経験が胸に去来して、感謝とも感激とも感動ともつかない、熱い感情が満ちた。


「橘さん…」
 もう一度橘の名を呼んだとき、ツンと鼻の奥が痛んだ。
 目の奥に熱さを感じた時には、目の前の橘の姿がぼやけていた。
「おいおい、泣くのはまだ早いぞ?」
 橘の苦笑いしている雰囲気が、口調で伝わってくる。
 そうですね、と言いながらも、涙が溢れてくるのは止まらない。
「神尾、みっともねえぞ、そんなに泣いて」
 そう言う内村の目が少し赤くて、桜井が笑う。
「お前も泣きそうな顔してるぞ」
「うっせえな!」
 帽子を目深に被り、涙を隠そうとする内村に、神尾を支える石田と森が笑う。笑った形に下がった彼らの目尻にも、少し光るものが見えた。
「そういう涙は全国大会優勝まで取っておけ」
 橘は涙する二年生たちを励ますように順々に叩いて、笑ってそう言った。




<了>




※あとがき※