なんで。どうして。
 なんで、なんで、なんで。

 渦巻く疑問の言葉が、怒りの奔流に錐揉みしながら喉の奥に凝っていた。

 
 襟元を鷲掴んだ手に一層力が篭もって、指の間で擦れたカッターシャツが、固く噛み締めた自分の奥歯と同じように、ぎり、と音を立てる。

「何とか言えよ、大石!」





『決意を胸に』





 大石が部室の扉を開けて出てくるのを、物陰から見つめていた。
 夕日を浴びて黄昏色に染まった大石の横顔はいつもより多少強張って見えたが、それほど落ち込んでいる風にも、悔しがっている風にも見えなかった。ただ何かを悟ったように、いつもと同じように黙々と戸締りを行っている。
 平然と、涼やかにすら見える表情。
 それを見ると、かぁっと頭に血が上るのを感じた。

(なんだよ、ソレ…)

「大石!」
 矢も盾もたまらず物陰から飛び出して、呼び止める。踵を返した大石の前に、そのまま仁王立つ。
「英二」
 自分を見据えた大石の顔が、僅かに歪んだ。



「なんだよ、あの試合は」
 自然に動いた口から滑り出た声は、自分でも驚くほど恐ろしく低く、そして冷たかった。
「どういうつもりだよ。お前、何を考えてんだよ」
 キッと、大石の目を見る。
 強い敵意を剥き出しにしているだろう自分の目とは対照的に、大石の目の中には何の変化も見られなかった。こうなることを予想していたかのように、大石の目は一縷も揺らがなかった。

 ただ、歪んだ表情の中で僅かに悄然とした色を見せる眼差しの中に、英二は大石の思考を垣間見た気がした。




 そうだ、大石だって分かってる。分かってるんだ。
 それは俺だって理解している。けれど。


 自分の胸の中で、抑えていた感情が徐々に沸き立っていくのを感じる。
 むくむくと、いびつな風船が膨らむように湧き上がる感情。
 
 それは、怒り。
 
 煮えたぎるように熱く、それでいて苦い何かが、胃の上あたりに漂う。




「一緒に全国に行こうぜって約束したじゃんか。一緒に全国ナンバーワンダブルスになろうぜって約束したじゃんか」

 そうだ、確かに約束したのだ。
 最初は他愛もない夢物語に過ぎないと思われたその約束。
 けれど、二年で全国大会に出場してからは、確実に果たすべき約束へと昇格したその誓い。

 その約束が、誓約こそが、青学での自分のテニスの全てだったのに。
 そう思っていたのは――――。

「お前にとって、オレとの約束なんてその程度のもんだったのかよ」
 吐き捨てるように言い放った言葉に、大石の目が初めて揺らいだ。
「違う」
 即座に返ってきた言葉には、心外だといわんばかりの響きが篭もっていた。
 呆然と目を丸くする大石の表情に、更に怒りが薄く募るのを感じた。

(それなら、何で…!)

「なら、なんであんな試合するんだよ!オレをダブルスに誘ったのはお前だった。それが、なんだよ。レギュラー落ちだって?お前が?ふざけんじゃねぇよ!オレをここまで引っ張り上げたのはお前だろ!?なのにここに来てあっさり自分だけリタイアかよ!?ふざけんな!無責任にも程があるぜ!」

 熱を帯びた自分の言葉が自分の耳に舞い戻るたび、火に油を注ぎこむように心が煽られた。
 膨張した怒りの膜が今にも破けそうなのを自覚しながらも、口から滑り出る言葉が止まらない。

「負けたら、全国のコートに立つことすら出来ないのは分かりきってたことだろ!こんなとこで――――躓いてんじゃねぇよ!!」

 悲鳴のように叫んで、怒りが心内で弾け飛ぶのを感じた次の瞬間、自分の手の中に大石のカッターシャツが巻き込まれていた。胸倉を掴み上げた手はあまりに強く握り締めすぎていて、白く変色している。
「何とか言えよ、大石ッ!」
「…………」

 大石が、揺らいだ目を隠すように瞼を閉じた。

 英二は、固く閉じられた瞼の向こうに、苦悶の色を映した瞳を見た気がした。





 ふと、思う。
 熱された頭の片隅に、冷えた思考がぽっかりと湧き上がる。


 ああ、俺は何をしているんだろう?


 苦しむ友の顔を前に、小さな、ほんの小さな疑問が胸を巣食う。


 日中の熱気の残滓を含みつつも肌に心地よい爽やかな夕風が、落ち着け、と言わんばかりに、すっと肌を撫でた。

 その時。

 固く引き結ばれた大石の唇が不意に開いた。
 そして短い言葉を紡いだ。


「ごめん」






 瞬間、自分の体の中を何かが駆け抜けた。
 強いて言うなら、それは衝撃。動揺。狼狽。
 そして即座に訪れる、脱力感。瞬間的に湧き上がる、悔恨。
 そして、虚しさに彩られた怒り。


 鼻の奥の方で熱い塊の存在を感じたその刹那、目尻からしょっぱい雫が溢れ出た。



「…馬鹿野郎ッ!」



 なんで謝るんだよ。
 なんで言い返さないんだよ。



 叫んだ言葉の陰で呟く。


 
 お前は、全然悪くないじゃないか。
 なのに、なんでそんな顔するんだよ。

 なんで、なんで!!





「ごめん、英二」

 もう一度同じ言葉を呟いた大石の表情は、大きく揺らいでいた。
 いや、大石の表情が定まらないのじゃない。

 自分の瞳に浮かんだ涙の膜が、大石の表情を揺らめかせていた。


「ごめんな」

 三度目の、たった一言の短い言葉は、英二の胸を温かく抉り、優しく包んだ。
 胸の中にぬくもりが満ちたのも束の間、そのぬくもりがそのまま、目から溢れて頬を伝った。

 悔しくて、悔しくて、自分のふがいなさが悔しくて、涙が止まらなかった。

 まるで幼子のように、わあわあと声を上げて泣いた。

 まっすぐ立っていることも出来なくて、襟刳りを掴んだ手をそのままに、大石の肩に額を付けて、まるで、縋りつくようにして泣いた。






 自分でも分かっていた。

 大石に怒っているんじゃない。

 大石が怪我を庇っていることに気づかなかった自分に怒っているのだ。

 何がゴールデンペアだ、相手の不調に気づきもしないで。

 怪我が完治していないことを隠されたのは、自分が至らなかったせい。

 オレに、自分の苦しみを背負わせるわけにいかないって、大石は考えたんだ。

 オレが、他人の重荷を背負えるだけの器を持ち合わせていなかったから。

 オレが、自分のことしか考えられていなかったから。
 

 肝心な時に力になれない自分の不甲斐なさが身に染みた。

 どうして手首の怪我のことを話してくれなかったのか、と責めるのは簡単だ。

 でもそれは、自分の情けなさを直視できずに、他人に、大石に、責任を転嫁しているだけに過ぎない。

 未熟な自分を認めたくなくて、何もかもを大石のせいにしたかった。大石が裏切ったのだと、思い込みたかった。

 自分の非を相手の非にすり替えるなんて、最悪だ。





「ごめん大石。最低だ…オレ」
 嗚咽の合間に言葉が漏れた。
「一番つらいのは、大石なのに…」
 泣き喚いてじんじんと声が響く頭に、不意に負荷がかかる。温かい手の感触だった。
「もう泣くな」
 苦笑気味の声が、頭上から落ちてくる。視線を上げると、もらい泣きしたのか、少し潤んだ目が自分を映していた。
「俺の方こそ、辛い思いをさせてごめんな」
「謝るなって言ってるのに」
「でも、ずっと一緒に頑張ってきたから。コンディションを整えられなかったのは俺自身のせいだし、やっぱり、ごめん、って思う…」
 呟くように言った大石の言葉が、微かに無念の響きを帯びていた。
 そこに、計り知れない大石の悔しさが潜んでいる気がして、ふと、部室から出てきた時の大石の横顔が思い出された。
 いつもとあまり相違ない、どちらかというと無表情に近かったあの横顔は、あまりにも大きすぎる感情の波を抑えるのに精一杯で、むしろ緊張の糸が張り詰めていたゆえだったのだと、唐突に理解した。




「大石」
「何?」
「オレ、強くなる」
「英二はもう十分強いよ」
 大石の言葉に、ぶんぶんと首を振る。

 まだだ。まだ足りない。

「強くなるから、オレ」

 ―――――ちゃんと大石に頼ってもらえるくらいに、強くなるんだ。


 そして強く、強く自分に念じる。


 ―――――ゴールデンペアの名前に見合うパートナーになるんだ。絶対に。


 言葉にはしなかったが、自己嫌悪に塗れた心の奥底に沈んでいた決意を掬い上げた英二の頭を、ぽんぽんと手のひらが軽く叩いた。
 がんばれ、と励ますような、或いはありがとう、とお礼を言うようなその仕草に、胸が涙の温度で満ちた。






<了>






※あとがき※