『犠牲第一号』




「わーいわーい!!乾ん家って行くの初めて〜♪」
「いいなぁ…僕も行きたかったな」
 スキップしかねない勢いで嬉しそうに歩く英二を横目に、不二は不貞腐れがてら大きくため息をついた。
「今日に限って外食なんて、ツイてない」
「別に遊ぶわけじゃないぞ…って、英二、分かってるのか?」
「分かってる分かってる♪」
「英二……実は分かってないだろう?」
 飛びついてきた英二を軽く睨みながら乾が言う。
「大会前に補習が入ったら困るから、俺から物理を教わるっていう約束だろ?」
「そーでしたそーでした」
 こくこくと頷く英二。
「あ〜いいなぁ、僕も乾に物理教えて欲しいよ。そしたら点数20点は確実に上がるのに」
「不二は別に俺の助けなんて必要ないだろう?というか…お前が20点上げたら、ほぼ満点になるだろうに」
「そーだよ、不二は今のままでじゅーっぶん!!」
「ちぇっ」
 不二は言いながら、また一つ大きくため息をついたが、父親が久々に帰ってくるというのだから仕方がない。
 英二と、肩からぶら下がった英二をずるずると引きずりながら歩く乾を見ながら立ち止まる。
「じゃあ、僕、こっちだし」
 言って、不二は二人の進行方向と直角に交わる道を指差した。
「ああ、また明日な、不二!」
「また今度の機会に家に来なよ。いつでも歓迎するよ」
「ありがと、乾」
 不二は言って、少し名残惜しそうに手を振りながら道を曲がっていった。
「………ところで英二」
「にゃに?」
「重いから離れて」
「あ、ゴメンゴメン」


「ただいま」
 乾がそう言いながら家のドアを開ける。
「こんにちは〜」
 ドアを支えた乾の腕の下から英二が顔を出すと、奥のリビングから母親がとてとてと駆けて来た。
「おかえり。あ、貴方が菊丸君?」
 小柄でほんわかとした雰囲気の、可愛らしい人だった。
「はい。初めまして、菊丸英二です」
「いつも貞治がお世話になってます」
「あ、いやいや…オレのほうがいつもお世話になってるくらいです。今日も勉強見てもらうし。な、乾」
「な、と言われても…。威張ることじゃないだろう」
 言って、乾は後ろ手にパタンとドアを閉める。
「母さん、というわけだから、あまり邪魔しないでね」
「はいはい」

「乾のお母さん、美人だね」
 家の中の階段をとんとんと昇りながら、英二は乾の背中に小声で話し掛けた。
「そう?」
 振り返ることなくまんじりと答える乾。
「うん。あと、背、ちっちゃいんだな。乾みたいな子供がいるんだから、なんとなく大きい人だと思ってた」
「父さんが大きいんだ」
「え!?乾よりも?」
「いや、同じくらい」
「あ、そう」
「ここだ」
 乾がそう言って立ち止まったのは、何の変哲も無いドアの前。それを見て、英二がぼそりと呟く。
「…『乾の部屋』とか書いたプレートかかってたら面白かったのに」
「いや、俺の家族、全員『乾』だから」
「あ、そーいやそうか。乾って貞治だ、貞治」
「今思い出したように言うなよ」
 少々疲れたように言いながら、乾はドアを開けた。その刹那――。
「うわ、汚っ」
 英二が声を上げた。
 そして、部屋の中に足を踏み入れ、辺りを見回す。
「兄ちゃんの部屋みて〜。あ、でも、よくよく見るとそうでもないや」
「そんなに汚いかな?」
 英二の後に入ってきた乾が、鞄を床に置きながらそう問うと、英二も同じく鞄を床に置きながら答える。
「いや、こうして見ると普通なんじゃない?俺、大石と不二の部屋ばっか見てるからさ。あの二人の部屋ってめちゃくちゃ綺麗なんだぜー」
「知ってる」
 乾は言いながら、部屋の中心の座卓の上に載っているものをどける。
 英二は初めて来るからか、物珍しそうに本棚を眺めたり、机の上のものをいじったりしている。
 そして、ふと何かに気付いたように、英二の動きがぴたりと止まった。
 その様子を怪訝に思って、乾は勉強環境作りの手を止める。
「何だ?何か見つけたか?」
 英二は壁の一点を見詰めながら、呆然とした口調で答える。
「…ねぇ、乾ってなんでもメモる癖があるんだよね」
「ああ」
「そのメモって、テニスに関係あることとかじゃなかったの?」
「まあ、大半がそうだけど、それが何?」
「…じゃあ、これ何?」
 英二はようやっと乾の方を見て、今まで見詰めていた壁を指差した。
「?」
 乾は英二が指差す壁を見るが、乾の位置からでは何が書いてあるのか見えなかった。
(あそこには何を書いたっけ?)
 ノートに書いたことは忘れない乾だが、メモとなれば話は別だ。ただのメモでしかないのだから、そんな細々としたことまで覚えてはいられない。第一、忘れそうだからメモをとるのだ。
 乾は英二の指差す先を確認しようと、そこに近寄る。
 英二の肩越しに見た壁には、こう書いてあった。
“23日卵1パック78円 Kマート”
「……テニス?」
 英二が、背後に立つ乾を見返しながら呟く。
「ああ、それは卵が安いっていう広告を見たから」
「いや、そーじゃなくて、なんで卵…?」
 壁のメモを指でぐりぐりと囲みながら、英二は尋ねる。
 なんとなく答えを察しているのか、心なしか顔色が悪い。
 そんな英二に、乾はキッパリと言い切る。
「新作野菜汁の材料」
「ぅげっ!!マジ!?」
 叫んで飛び退く英二。
「不二がなかなか嫌がってくれないからね。このままじゃ罰ゲームにならないなと思って」
「そんな心遣いいらないよ!!乾、頼むから考え直して!」
「ちなみにここにはこういうメモが」
 英二の言葉をさらりと交わして、乾は別の壁の一点を指す。
 英二は恐怖に戦きながらも、僅かながらの好奇心に抗えずに、乾の指の先を目で追う。
 そこの壁にはこう書いてあった。
“マムシ酒30ml”
「…酒だし。しかもマムシ」
「元気になると思わないか?栄養たっぷりで」
「……………」
「ああ、そうだ。英二、試飲してみる?」
「ぅえ゛っ!!!?」
「丁度昨日レシピを完成させたところなんだ。英二、ラッキーだよ」
「いや、それってラッキーじゃないし!いいよ、オレ!!」
「遠慮なんかしなくていいよ、英二」
「え、遠慮なんかしてない!!」
 乾の顔は、眼鏡のせいで、いまいち表情が読み取れない。それがさらに英二に恐怖感を与える。
 英二はぶんぶんと首が吹っ飛んでいきそうなほど激しく横に振るが、そんな英二を完全に無視して、乾は部屋の隅のダンボールをごそごそと探る。
 そこから取り出したのは、ミキサー、軽量カップ、さじ類。
「へ…部屋に…道具、置いてあるんだ…?」
 完全に青ざめた顔で言う英二に、乾が答える。
「いつでも研究できるようにね」
 そして、そう言いながら、乾は机上の電話の子機を取上げた。
「あ、母さん?ちょっと部屋に持って来て欲しい物が…」
「ッうぎゃ〜っ!!やだ〜!!」
 乾が新野菜汁の材料をつらつらと挙げていく中、英二の叫びが乾の部屋に空しく響いた。


 翌日。
「乾の家、どうだった?」
「…来なくて正解だよ、不二」
「?どうして?」
「新作野菜汁が…」
「あ、もしかして英二飲んだの?いいなぁ、僕も飲みたかった〜」
「不二……お願いだから、野菜汁嫌がってよ…でないとまた犠牲者が……」


<了>




※あとがき※