『手塚爺説』




「青学〜、ファイッ!!」
 程好く日が翳って快適な天候の中、青学テニスコートはいつも通り激しい練習が続いていた。
 その中、レギュラー陣は5分間の休憩に入っていた。各々皆、水分補給をしたり、顔を洗いに行ったりと、適当に散らばっていく。
 長いおさげをぱたぱたと揺らしながら、水道で顔を洗っているリョーマに声をかけようかかけまいか迷っている少女を遠くに見ながら、フェンスに凭れていた不二が呟く。
「竜崎先生のお孫さん、いつも来るね」
 同じく横でフェンスに凭れている手塚に向かって言葉を発したつもりだが、別に返事を期待して言ったわけではなかった。
 しかし、予想に反して、珍しく、手塚が口を開いた。
「そうだな。…女テニも休憩時間か?」
 不二は少々驚きながらも、それを表に出さず、会話を続ける。
「んー…わざわざ時間を割いて来てるんじゃない?」
「何故だ?」
「なんでって…そりゃ越前を好きだからじゃないの?」
「好き?だから会いに来るのか?」
「そうなんじゃない?」
 表情が変わらないのでいまいちよく分からないが、手塚が心底意外そうに問うてくるので、不二は目を丸くしてそう答えると、手塚は眉間に皺を寄せた。とはいっても、手塚は元々皺を寄せているので、その皺が増えただけだが。
「いかんな」
「どうして?」
 いきなり不機嫌そうになった手塚に身を起こしながらそう聞くと、手塚は不二を見ることもなくキッパリと言い放った。
「まずは交換日記からだろう」
 その瞬間不二は、突然後頭部を鈍器で殴られたような、大きな衝撃を受けた。
(…古っ……)
「…手塚、君、いつの時代の人さ…」
 不二はがくりと肩をおとしてツッコんでみたが、手塚は全く意に介さないようで、腕を組んだまま桜乃とリョーマの方を見ていた。
「リョーマは帰国子女だから分かってないのかもしれんな」
「いや、そうじゃないと思うな…」
 不二はかなり徒労感を感じながら、がたんとフェンスに凭れかかった。
(手塚……君って見た目だけじゃなく、考えも20代…。いや、交換日記っておじいさんとかそこらへんの世代なんじゃ…)
 ぼうっとそんなことを考えて、不二は頭を抱えたくなった。
 しかしその時、ふと、頭にとある考えが浮かぶ。
(…信じるかな。まさか信じないと思うけど…信じたら面白いかもしれない…)
「…ねえ、手塚。バンソウコウを貼る意味、知ってる?」
「…怪我をしたからではないのか?」
「そうじゃなくて、怪我してないのに貼る場合…つまり英二みたいな場合」
「いや、知らないな」
 不二は手塚がどのような反応を示すか少しわくわくしながら、口を開く。
「バンソウコウってキスマークを隠す為にするんだよ」
「………」
 ずるっ。
 手塚が腕を組んだまま足を滑らせて、フェンスががしゃんと鳴る。すっ転ぶ前に足に力を入れてこらえたようで、見事な足ズッコケを見せてはくれなかった。
「手塚、大丈夫?」
 少々残念に思いながら不二がそう尋ねると、手塚ははっと我に返ったように腕組み仁王立ちの王者ポーズをすかさず取り、思いっきり眉を顰めた。そして短く言い放つ。
「ふしだらな!!」
「………。手塚、君って本当に何歳?」
 不二は、無意識のうちにぼそりと小さな声で呟いていた。
「何か言ったか?」
「ううん、何も」
 取り繕うようににっこりと微笑む不二。
「英二ってモテるからね」
(おじいちゃんやおばあちゃんに)
 と、心の中で付け加えるが、それは口に出さない不二。
「英二のバンソウコウも………って、あれ?」
 不二は、いつの間にか隣にいた手塚がいなくなっていることに気付いた。
 次の瞬間、大石とダブルスのフォーメーション確認をしている英二に向かって突進する手塚の背中が目に映る。
「菊丸っ!!」
 コート中に響き渡った大声に、英二が驚きに目を丸くして振り向く。そして猪の如く突進をかましてくる手塚を見て、顔を引きつらせた。
「にゃ…にゃに!?っ手塚!?」
 そう尋ねる英二は完全に引け腰。
「不純異性交遊はいかん!!」
「んなっ…何の話!?」
「中学生たるもの、交際は清く正しく交換日記から!!」
「はぁっ!?一体何のこと言ってんだよ、手塚!!手塚!?ちょっと待てよ…って、う、わああああっ!!」
 勢いを落とさず突っ走ってくる手塚のあまりの怖さに、英二にはやましいところもないのに、思わず踵を返し、迫り来る恐怖から逃げる為に、全速力で駆け出した。
「待て、逃げるな菊丸!!」
「て、手塚!!止まって、止まって俺の話を聞けよ!!ねぇってば!!」

「なんかトムとジェリーみたいだなあ…」
 不二が心の中で英二に詫びながらそう呟いていると、突如パートナーが手塚に追われる身となって一人残された大石が、困惑しきった表情で近づいてきた。
「何なんだ一体?」
「うーん、まさか信じるとは思ってなかったんだけどね…」
 ぽりぽりと居心地悪げに頬を掻く不二。
「…何を言ったんだ?」
「英二のバンソウコウはキスマーク隠しだって」
「……不二」
「今時信じる人なんていないと思ったんだけどな」
「で、ああいうことになったわけか…」
 大石は、英二が逃げ、手塚が追っていった方向を見やる。不二もそれにつられて視線を移すと、遠く、サッカー部の練習コートを横切ってまだ追いかけっこを続ける二人が見えた。
「…あんなとこまで…」
 大石が疲れたように呟く。
「…休憩時間延びるかもね」
「そういう問題じゃないだろう」
 不二の言葉に大石がつっこんだその時。
「うぎゃあああああああっ!!」
 断末魔の叫びが風に乗って男テニコートまで響いてきた。
 気付くと、二人の姿は視界の中にはなかった。
「英二、哀れ…」
 大石は目頭を押さえながら呻くように言った。
「…ごめん、英二。ごめん、手塚」
 不二は見えない二人に向かって謝ったが、もちろん、二人がそれを聞いているはずもなく、恐怖のあまり滂沱する英二の首根っこを掴んで手塚が再びコートに現れたのは、暫く経ってからだった。

<了>



※あとがき※