河内寺(地元自慢)
地元自慢です.自宅徒歩1分の所から白鳳時代(645〜710年)の寺の跡が見つかりました.

塔跡、礎石5基で確認 河内寺跡 四天王寺式配置か 東大阪
(毎日新聞2005年02月23日)

 5世紀中期以降、河内地方で勢力を伸ばした豪族、河内氏が建立したとされる河内寺跡(東大阪市河内町)から、7世紀後半の塔の礎石5基、基壇などが見つかった。東大阪市教委が22日までに発表した。同市教委は「当時の地方豪族の活動を知る上で貴重な資料」と話している。
 同市教委は昨年3月、河内寺跡の調査を開始。約100平方メートルを発掘したところ、礎石5基、基壇などを確認した。礎石は一辺が90センチ前後ある。東西の一列には、約2メートル間隔で4基が並んでいた。見つかった5基の配置状況などから、全16基の礎石があったと推定される。礎石は、同時に出土した瓦の経年程度から、680〜690年ごろの築造と見られる。
 礎石が見つかった一帯の下部から、乱石積の基壇も確認された。同市教委は、基壇は一辺約10。7メートル、高さ約1。4メートルの規模と推定しており、飛鳥時代を代表する川原寺跡(奈良県明日香村)の塔跡と同規模という。塔跡の確認により、河内寺は▽講堂▽金堂▽塔▽中門が直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置だったと見られる。
 河内寺は、河内氏が飛鳥時代後期に創建した寺とされる。河内氏は5世紀中期以降に朝鮮半島から渡来した豪族で大和政権から「直」の姓を受け、軍事などに従事。奈良時代以降、河内国河内郡の郡司となり、現在の府東部一帯を支配したと伝えられている。
 現地説明会は26日午前10時から。問い合わせは同市教委文化財課(06・4309・3283)へ。


って言うか,我が家も東大阪市河内町で,発掘現場は徒歩1分のところにあります.すげぇ.昔からここにこのお寺跡があるのはわかっていたのですが,最近までぼろ家が上に建っていたのです.で,それが火事で燃えてしまって,更地になったので発掘ができるようになったようです.また,その家跡周辺は遺跡であるのがわかっているので,今も家が建てられず畑のままです.

新聞記事
写真1 真ん中付近の石が,塔へ登る石段.
写真2 礎石.
写真3 発掘の様子.
写真4 礎石拡大図.この上に塔の柱が乗っかってた.
写真5 記事にある東西に並んだ4基の礎石.
写真6 現地説明会のご案内.わが母校です.地図の「現地説明会会場」から下に延びている矢印の道路が,我が家だったりします.

 我が家一体は歴史があるらしく,裏の家の建て替えの時には,ちょっと掘っただけで埴輪(覚えているのでは50cm以上ある舟形の埴輪)が出土しました.ただ,これらの埴輪は確かに古いものではありますが歴史的価値はそんなにないそうです.

 その他,05年02月26日の日記もご覧下さい.

以下同月27日追加.いろんな新聞社のサイトに記事が載ってました.2社掲載.

読売新聞社

大阪・河内寺跡
塔の礎石5基見つかる
◇焼失後も信仰対象か

 「河内」の地名の由来ともされる河内氏一族によって創建された大阪府東大阪市の河内寺跡から、塔跡が見つかったと二十二日、東大阪市教委が発表した。出土した瓦などから、飛鳥時代後期(七世紀後半)に建てられたとみられる。建物の基礎となる礎石が五基、ほぼ当時のまま残っており、専門家は「これほど保存状態が良い塔跡は少なく、氏寺の今後の研究の貴重な資料」と注目している。
 敷地の西側から出土した柱跡九か所のうち、五か所に直径九十センチ前後の礎石が残されていた。北側の東西一列は四基すべてが残っていた。塔の基礎部分は、他寺の塔と比較するとやや規模が小さいが、市教委は高さ二十―三十メートルの三重、または五重塔が建てられていたとみている。
 塔は十二世紀ごろに焼失したとみられるが、今回、塔跡の南側から十五世紀ごろに建てられた仏堂とみられる建物跡が見つかったほか、焼失後に盛られたとみられるがれきが出土しており、同市教委は「焼失後も周辺の住民が信仰の対象として仏堂を建て、塔跡をがれきで覆って守ろうとしたため、保存状態が良かったのでは」としている。
 森郁夫・帝塚山大教授(歴史考古学)は「おそらくさらに深い場所に塔中央の心礎も残っており、舎利などが見つかれば河内氏の財力や勢力を解明する手がかりになるだろう」と話している。
 現地説明会は二十六日午前十時―午後三時。近くの縄手北中グラウンド集合。

河内寺
 渡来系の豪族で大和政権に軍事、外交面で仕えた河内氏一族が飛鳥時代に創建。後に河内郡の郡寺となったとされる。市教委は伽藍(がらん)配置について北から南に一直線に講堂、金堂、塔、中門が並ぶ「四天王寺式」だったとみている。  


朝日新聞社

金堂想定の場所から塔の礎石出土 東大阪・河内寺跡

 7世紀の飛鳥時代に創建された大阪府東大阪市河内町の河内寺跡で、金堂跡とみられていた場所から塔跡とみられる礎石5個が出土した。発掘調査した東大阪市教委が22日、発表した。飛鳥・白鳳時代の塔跡の中でも保存状態が極めて良く、仏舎利などを収めた「心礎」も残されている可能性が高い。また、塔や金堂などが一直線に並ぶ「四天王寺式」の伽藍(がらん)配置と判明、当時の寺院の実態解明に貴重な資料となりそうだ。
 発掘では、礎石が置かれる基壇や階段跡、多数の瓦などの遺物が出土した。基壇は10.7メートル四方で法隆寺の五重塔よりやや小さく、三重か五重の塔とみられる。
 塔の礎石は4個4列の計16個。今回は北端の列の4個が完全な状態で見つかった。また西端の一列は2個が抜き取られていたが、痕跡で位置が確認できた。中心部に盗掘の跡が見られず、市教委は地下に心礎が残っていると推測している。
 市教委は当初、過去の調査で見つかった回廊との位置関係から今回の発掘地点を金堂跡と想定していたが、正方形の礎石の配置から塔跡と断定した。これまで講堂跡としていた遺構は金堂跡で、同寺の建物配置は講堂、金堂、塔が一直線に並ぶ「四天王寺式」とわかった。
 河内寺は百済からの渡来人の子孫とされる河内氏の氏寺。出土した瓦の比較から、塔は680〜690年ごろに建てられ、12世紀中に焼失したらしい。金堂は塔より早く、630〜640年ごろの建立と見られる。
 現地説明会は26日午前10時〜午後3時。前日までの問い合わせは同市教委(06・4309・3283)へ。
 <京都大学の上原真人教授(考古学)の話> 今回は出土していないが、状態からして心礎も地下に完全な形で残っているだろう。周囲の石段や溝などの遺構の状態もよく、同時代の塔跡の中でも歴史的価値が高い。国史跡としての保存が望まれる。