五.邦楽アンサンブル彩<AYA>(これが彩の正式名称です)
そんなことにお構いなく話は続くのですが、
二人に会い、意気投合。2ヶ月に一度のハイペースで次々ミニコンサートを開始し、
毎回違う曲に取り組み、狂ったように箏を弾き始めました。
箏を休んでいた間に知らない曲は山のようにあり、また長沢勝俊、吉崎克彦、
宮田耕八朗、牧野由多可・・・・数知れない現代曲の波。
コンサートが終わるごとに次の曲を決め、熾烈なパート争い、(主に私とりー子さんでやってました)
1週間に2日は朝から晩まで、暗くなるまで3人で練習。
演奏をテープにとり、聞いては反省しまた演奏と言う練習スタイルや、
細かいリズムは、16分音符まできっちりあわせると言うこだわり。
練習に次ぐ練習の中から、出来たものを、舞台にかけたい
と言う今の私の演奏に対する基本は、この頃の気が狂ったような、彩の練習の中から、確立されました。
そのうちりー子さんのご主人、Mさんもグループに加わり一段と活動は活発になりました。
そして90年に鶴見緑地で行われた、花博への出演。
今思っても楽しい日々でした。それはともに演奏出来る仲間があるという幸せ。
ただただ舞台に上がるだけでも幸せ。なんてったてすごく自分たちが上手だと思ってたのが本当に幸せでした。
もちろんそれは大きな誤解だったのですが。
演奏内容についてまだ、こういう演奏がしたい、聞く人に感動を与えたいとまでは行かないけれど
とても自己満足していて思えば一番幸せだったのです。
、
勢いは止まらず、ついにNHKの邦楽オーデションを受けに行き初めてなのに合格。
花博出演の時に、名前を付ける必要があったので、邦楽グループ彩という名前はすでにできあがっていたのですが
ほんとうに、四人での活動を意識したのはこの頃からかもしれません。
オーデイション合格を機会に、大きな会場のでのコンサートを企画し、コンサート「光彩」を始めました
六.邦楽アンサンブル彩<AYA>その2
この光彩シリーズが始まり、演奏すると言うことに対する意識がどんどん変わってゆきました。
当初は、2ヶ月に1度のミニコンサートでしたが、年に1度の大きな舞台が活動の中心となり、
アンサンブル曲も1年に1曲と決め、さらに徹底的に絞り込み始めました。
演奏活動は、秋の「光彩」を中心に回り、終わるたびに来年度の曲を決め、
ひたすら練習、暗譜、の日々。いい経験でした。。
でもこの頃よく言われた意見。「綺麗にまとまっているけど、迫力がない」
本人たちはその意見にとても傷ついたけど何とかしようといつも格闘していました。
練習をよくしたと言うことと、素晴らしい演奏だと言うことは、全く別問題です。
今も彩のメンバーとやるとき、練習が出来ていないとすかさず追求されるので、練習という武装はかかせません。
手抜きをすると「今の変だよ」と必ずチェックが入るのです
内心(ばれちゃった)と思いつつ甘かった武装を悔やんでみてももう遅い。
。
彩の演奏会を聞きに来てくれたお客様の中に、円ちゃん、そしてユウ様のお名前が見えました。
七.邦楽アンサンブル彩<AYA>その3
「継続は力なり」と言う言葉がありますが、何かを続けると言うことは、本当に大変です。
彩の演奏活動と並行して、メンバーそれぞれは子育ての真っ最中。
初めてあった頃、他の二人の子供たちは、まだ幼稚園前。
私の3人の子供たちも、一番下がようやく幼稚園に入った頃でした。
舞台が待っているのに、かわいい息子は喘息の発作を起こしたり、手術を何度もしなくてはならなかったり
親が手術したり、家庭第一に徹すると、とても自分の思うような演奏活動は無理。
いつキャンセルしなくてはならないかわからない要素が多すぎたのです。
それでも、メンバー助け合って
「0月0日に、00が来られなくなったら、代わりにこの曲をしよう」
と言うように何かありそうなときは、必ず他の曲を用意して、練習したものでした。
しかし光彩も、回を重ねるうちにとうとうこの体制もほころびはじめ
だんだん活動は沈静化せざるを得なくなりました。
それとともに何年も同じメンバーだけで演奏活動を続けてきたので
お互い少し、他の人との活動もしたいと思うようになったのかもしれません。
それぞれが、少しずつ違う人との演奏を始めました。
ひとり言.3