今井町重要文化財
重要文化財
今西家住宅(昭和32年6月18日指定)
今西家は、永禄9年(1566)今井町に入町した十市兵衛遠忠の一族で、もと河合氏を名のっていたが、三代目から今西姓になった。惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権をゆだねられていた。
八つ棟づくりは、その役柄に相応した建物で、棟札には慶安3年22日(1650)の年代が記され民家というよりも城郭を思わせる構造で、今井町の西口にあり、その西側は環濠となっている。外壁を白漆喰塗籠めとし、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造の破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺きの堂々とした外観をもっており、わが国の民家建築史上貴重な建物である。
上田家住宅(昭和47年5月15日指定)
上田家は、屋号を「壺屋」といい、今西家、尾崎家とならび今井町惣年寄をつとめていた。この住宅は、延享元年(1744)の祈祷札がありこの頃の建設とみられる。入母屋造本瓦茸平入、つし二階建で、大壁造の妻をみせた外観は重圧な感じをあたえる。構造面で、棟通りに対してほぼ対称的な梁組は古式で、入り口を西に構えているのも珍しい。
豊田家住宅(昭和47年5月15日指定)
豊田家は、屋号を「紙八」といい、「紙半」から分家し、この家に住むようになった。この家は、もと、西の木屋(材木商牧村家)で大名貸しや藩の蔵元等をつとめた。建物は寛文2年(1662)のもので、屋根は入母屋造本瓦茸、軒は高く、2階は出桁造、2階正面壁に、丸に木の字の紋があり、外観は今西家と同じように、豪壮で古い手法がみられ、今井町における上層町屋の優れた好例である。
中橋家住宅(昭和47年5月15日指定)
中橋家は、屋号を「米彦」といい、江戸時代は米屋を営んでいた。この家は、稱念寺の斜め筋向かいに面し、18世紀以降の文書を比較的に多く所蔵し、天保から嘉永にかけて、稱念寺に経料を納めた記録もあり、幕末には繁栄していたことが知られる。この住宅は、18世紀末の建物と見られ、19世紀初期頃正面のみ、つし2階を増設した切妻造本瓦茸の商屋で、修理の際一口のカマド跡も発見された。
旧米谷家住宅(昭和47年5月15日指定)
旧は米谷家で、屋号を「米忠」といい、金具商を営んでいた。年代は、形式構造から、18世紀中頃の建築と推定される。切妻造本瓦平入で、内部は5間取りで、他家とは異なる。土間部分は、煙返しなどが取付けられ、農家風のイメージが強い。また、裏庭にある蔵前座敷を付属させた土蔵は、嘉永2年(1849)の建物である。
音村家住宅(昭和47年5月15日指定)
音村家は、屋号を「細九」といい、金具商を営んでいた。年代は形式構造から、17世紀後半頃の建築と推定される。屋根は切妻造本瓦茸平入で、正面のみ、つし2階を設けている。後主屋の西北隅に、二間続きの「つのざしき」を増設し、さらに安政元年の大地震の翌年(1855)には、つのざしきに接続して、西側に「ざしき」を建設し、床、棚、書院、風呂、便所も付属して、西側道路に門を開き、直接ざしきに通じるようになっている。
高木家住宅(昭和47年5月15日指定)
高木家は、屋号を「大東の四条屋」といい、酒造業等を営んでいた。この建物は、切妻造本瓦茸平入2階建で、前面の格子は木割が細く、吹寄せのところもあり、幕末の家らしい質、保存が良く、幕末期の2階の発達した今井町上層民家の好例である。
河合家住宅(昭和51年5月20日指定)
河合家は、屋号を「上品寺屋」といい、家蔵文書によると、昭和9年(1772)には、すでに酒造業を営んでいたらしい。建物は太い格子を入れ、2階は塗籠となっている。屋根の東側は入母屋造、西側は切妻造本瓦茸で、外部意匠にみるべきものがあり、また、内部においても、座敷を2階に配した点に特色がある。
稱念寺本堂(浄土真宗本願寺派)
今井町は、この寺の境内地に発達した寺内町である。本堂は、近世初頭に再建されたもので、外廻りに角柱をならべた大規模な浄土真宗寺院の特徴をよく表した建物で、屋根は大きな入母屋造本瓦で東面している。付属建物も数多く存在し、明治10年、天皇畝傍行幸のとき行在所となった。