「監禁愛5」 第1章
名執はその日、珍しく暇にしていた。暇と言っても診察と回診。それらにかかる雑務があるのだが、緊急の患者がいつもより少なかったのだ。
本日は予定通り、夕方に帰られそうですね……
自席でカルテをそろえ、顔を上げる。窓の外に広がる景色は、もう少しすると夕闇に染まるのだろう。
今週のプライベートはリーチの週だ。
名執はリーチの週になると月曜から気持ちが浮き立つ。まるで小さな子供が明日の遠足を楽しみにしているような気分だろう。
いい年をして、ちょっと恥ずかしいですね……
とはいえ、一週とびにしか会えない恋人は、名執より忙しい身である。一応今週からはリーチの週であっても、いつ緊急の仕事が入るか分からない。
リーチが言うには、昔はもっとうちに帰られないのが刑事の仕事だったらしいが、最近はよほどの重要事件にでもぶつからない限り、遅くなってもうちには帰られるし、休みもあるらしい。そうでもしないと若い人材が入ってこないからだそうだ。
もちろん、抱えている事件で、被疑者の逮捕が近いとか、潜伏先が見つかったという緊迫した事態が迫るとうちには帰られないだろうが。
今晩は何を作りましょうか……
ぼんやりと外の景色を眺めて名執は考えた。
今までは包丁を持つといい顔をしなかったリーチなのだが、最近はどうしても名執の方が帰る時間が早い。それもあって、夕食の担当がいつの間にか名執に回ってきていた。
ただし、あまり刃物を使うような料理は避けた方が無難だ。キャベツを千切りにするだけでもリーチはいい顔をしない。外科医の名執は仕事でメスを散々握っているのを知っているにもかかわらず。
「う~ん……難しいですね……」
包丁をあまり使わない料理は意外に難しい。だからといって総菜を買って帰るのも味気ないだろう。
色々と思案していると一本の電話が鳴った。
「はい。名執です」
「あの、ジャン・エリック様という方からお電話ですが……。先生ご存じですか?ちょっとたどたどしい日本語で先生のことを話されてるのですが……」
聞いたことのない名前だった。
「はあ……私も聞き覚えのない名前ですが、繋いでください」
電話はすぐに繋がった。
「……あの……僕……エリック言います」
本当にたどたどしい日本語だったが、若い感じがした。
「英語かフランス語なら構いませんが?」
名執が言うと、エリックと言った男性は今度フランス語で話し始めた。
「突然、こんな電話をしてしまって……失礼なこととは思ったのですが……」
「いえ……それより私は貴方のことを全く存じ上げませんが……どちらかでお会いしたことがありましたか?」
「いいえ……初めてです。突然……こんな事を言うと混乱されるかと思うんですが、僕……名執さんの弟になるんです」
……
これは間違い電話だろうか?
それともからかわれている?
不審に思ったが、電話をここで突然切るのも躊躇われた名執は再度聞いた。
「済みません。私には弟はいないのですが、ご冗談なら……」
「冗談じゃないんです。僕……その……どういったらいいのか……。多分兄さんには知らされていなかっただけだと思います」
いきなり兄さんと言われても名執は困る。
「……貴方のおっしゃることが分からないのですが」
「それは……当然ですよね。僕は知っていたことだけど母が黙っているように言ったから今まで話せなかったんです。その母も昨年亡くなりました」
……
よく分からない。
「……それでお母様は……」
「兄さんの父とうちの母は不倫の関係だったんです。だから今まで言えなかった。だけど母が亡くなって独りぼっちになったとき、すごく寂しくて……。それで連絡を取ってみようと思った。済みません。こんな話は聞きたくないですよね……。でも認知は……されてるんです。ちゃんと書類も持ってきました」
持ってきた?
持ってきたというのは日本に来ているのだろうか?
「もしかして……今こちらにいらしてるんでしょうか?」
「はい。成田についたところです。でもどちらに向かって良いのか分からなくて……。兄さんが東京に住んでいることまでは分かったんですが、住所とか分からずに……」
かなりおろおろしているのが電話口の様子から分かった。
冗談ではなさそうな雰囲気だ。
からかっているようにも見えない。
「分かりました。私もまだ仕事中なので動けませんが、今から言う場所に来てもらえますか?」
仕方なしに名執は言った。これ以上の言葉をどういえば良いのか分からなかったから。
「本当に?会ってくれるんだ……。良かった……ありがとう」
嬉しそうなエリックとは逆に名執は気持ちが沈んでいくのが分かった。
その日は珍しく事件も無く、早めに退庁すると、リーチは名執の家へと急いだ。が、マンション前で名執、それと見知らぬ外人を見つけて影に隠れた。
薄い巻き毛の金髪。
小柄な身体。
リュックを背負ってなにやら楽しそうに笑っている。
「あの外人はなんだ?」
じーっと木の陰に隠れて様子を伺っていると名執は見知らぬ外人とマンションへと入っていった。
「誰なんだろう……あれ……」
どことなく名執に似ているような気もしたが、側にいる外人の瞳は当然青かった。
さて、どうしようとリーチは思案し、名執の携帯に電話をかけようかと思ったが、今日リーチが来ることを知っているのだから、都合が悪いなら向こうから連絡が来るはず。
だが名執からそのような電話はない。と言うことはマンションに行っても良いと言うことだ。と、リーチは勝手に解釈して木陰から出ると、いつも通りマンションへの玄関に向った。
そうして目的の部屋の前まで来ると、キーを開けて中にはいる。すると待っていたとばかりに名執が迎えてくれた。
「今晩は先生」
そう言うと名執は「え?」と驚いた顔で言った。
「靴があるからお客さんが来てると思ってね」
リーチは小声でそう言った。
「そうなんです。私もまだ混乱しているのですが、私の弟だと言われて……」
困惑した名執は表情が暗い。
「兄弟……?」
「ええ、父が外に作った女性の子供だそうです。写真と出生証明書を見せて貰ったのですが、確かにそうでした」
複雑そうな笑みをようやく浮かべて名執はこちらを見る。
「良かったですね。天涯孤独じゃなくなったんですよ」
名執に弟がいたのは良いことなのかどうか、リーチにも判断が付きかねていた。元々一人で生きてきたような男なのだ。どこか排他的な部分をもつ名執にとって、いきなり懐に飛び込んで来るような人間は生理的に耐えられないはずだ。
それが名執という男だった。
だから気持ちを少しでも落ち着かせるようにリーチは明るく言ったのだ。
「……でも私は父の息子ではありませんので……兄弟とは正確には違うんですが……」
疲れたような表情で名執は言う。
忘れていた。
名執は正確には両親の子供ではなく、母親にあたる女性に懸想した祖父との間に出来たのが子供だ。それが原因で両親は無理心中で亡くなっている。当然祖父もだ。
こうなると弟ではない。
「……ユキ……」
今ここで抱きしめてやりたいほど、頼りない感じに名執が見えた。だが客が来ているのだからそれが出来そうにない。
「私には良く分からないので、リーチにも相手を見て貰おうと思いまして……」
「いいよ、で、やっぱりフランス語?俺は英語しか駄目だぜ。なんだったらトシを起こすけど、そいつ何処にいるの?」
フランス語とドイツ語が出来るのはトシだからだった。
「いえ、英語で話して貰うように言っています。私もそれほどフランス語が堪能ではありませんので…。彼はリビングで待っています」
リーチはリビングに向かおうとしたが、スーツを掴んでくる名執の姿に立ち止まった。
「どうした?」
「何となく……こういうの嫌です」
俯く視線が、名執が完全に相手を拒否しているのだと分からせる。よほど嫌なのだ。
「分かってるよ……」
「ごめんなさい……」
「お前が謝る事じゃない。だろ?ほら、待たせると不審がられるぞ」
「そうですね……」
ようやく名執は掴んでいたスーツを離して、歩き出した。
「あ……」
リビングに入り、リーチが顔を見せると向こうは立ち上がった。
髪は薄い金髪で癖がやや癖毛だ。瞳は真っ青で海の色のように見える。目鼻立ちが整い、肌は真っ白。名執とは違った綺麗さがあったが、綺麗と言うより可愛らしい。
兄弟だと言われると似ているかな?というくらいで間近で見るとあまり似ていなかった。
「初めまして。隠岐利一と申します」
リーチは利一モードでそう言った。
「こちらこそ初めまして。エリックです」
礼儀正しくエリックはお辞儀をする。
「エリックさん。この方は私の友人です。今日は一緒に食事でもと約束をしていましたので、夕食は同席されますが宜しいですか?」
精一杯の社交辞令で名執はそう言っているようにリーチには見えた。
「私は構いません。それより兄さん、その他人行儀な話し方は止めて下さい。私たちは兄弟なんですよ」
エリックは困ったような顔でそう言う。だがその一言が名執を更に追いつめていることにエリックは気が付いていない。
「そ、そうですね……」
困惑したような名執の表情がリーチに向いた。確かにいきなり兄弟だと言われても困るな……と、リーチは思った。
「先生、外で食事しましょうか?」
「夕食はホテルからコースを取り寄せていますので、大丈夫です」
「先生?」
エリックが不思議な顔でそう言った。
「私が医師なのは話しましたね。隠岐さんは元々私の患者さんなのです。そのときから私のことを先生と呼んでいらっしゃいます」
「そうですか……」
ふーんと言うような顔でエリックは席に座る。
そこに管理人からのインターホンが鳴った。
「ホテルから来たみたいですので、ちょっと出てきます。隠岐さんも座って待っていて下さい」
「そうさせていただきます」
名執が玄関へと走っていったのを見届け、リーチはエリックと向かい合わせになる位置に腰をおろした。するとその姿をエリックがじっと見つめているのに気が付く。
「なにか?」
「兄さんと付き合いは長いのですか?」
なにか物珍しいものでも見るように大きな瞳が興味深げに輝く。
「ええ。私がよく事故に巻き込まれましたので、その度にご迷惑をかけました。そういうわけで先生には頭が上がらなんです」
「事故?」
「私、刑事なんですよ。それでミスをして大けがすることが何度かありまして……」
「すごい、刑事さんなんですか」
驚いた口調でエリックは言った。
「そんなたいそうなものじゃないですが……」
照れた顔を作ってリーチは言った。
「警察手帳……見せて貰って良いですか?一度見たいと思っていたんです」
興味津々の顔でエリックは言った。
「良いですよ」
リーチはそう言って胸ポケットに入れている警察手帳を出した。
「アメリカのFBIみたいな形ですね。それに紐を通してあるんだ……」
最近手帳から、アメリカの連坊捜査局がもつような形式に変わった。すぐに顔写真を提示できるようにという事なのだが、以前のものより格好良くなり、リーチはお気に入りだった。
「落とすと大変ですから……」
紐がついているのはちょっと情けないかもしれないが、それは上着に掛かっており、絶対落とさないようにしているためだ。以前も紐を通してあったのに、落としたことがあったが、何故落ちたのか不明だ。酔っぱらっていたのだから、何故という理由など、思い出せないのも仕方ないだろう。
「銃とかは持たないんですか?」
「滅多に持ちません」
「そうなんだ……」
警察手帳をリーチに返し、エリックは不思議そうに言う。外国の人間からすると治安を守る警察官が銃を常備しない日本は驚くべき事なのだ。
「日本は安全な国ですから……一応ね」
エリックはその言葉に何処か安堵の表情を見せる。あれ?と、リーチは気になったが当然理由を聞けるほど仲がいいわけでもなく、気が付かなかった振りをつづけた。
暫く会話をし、相手がどんな性格か把握しようとリーチは試みたが、いまいちエリックという人物を把握できなかった。何となく会話を選んで話をしているようにも見えるが、そこに悪意があるのかどうか判断が出来ないのだ。
感じとしては悪い相手では無いとは思うが、想像の域を出ない。
もろもろを思案していると名執が帰ってきた。
「机の上に並べて貰いますのでちょっと席を空けてくれますか?」
そう言うと二人は席を立った。ホテルからやってきたボーイらしき人物が手際よく持ってきたコース料理を並べ始めた。
「すごい料理……」
エリックが並べられていく料理を見ながらそう言う。
「折角ですから張り込みました」
名執はそう言って笑みを見せた。
全部並べ終わるとホテルのボーイはいそいそと帰っていった。
「とりあえずワインでもつぎますね」
リーチはそう言ってワインを開け、グラスに注いだ。その間ちらりと名執の方を見たが、エリックを見る表情はやはり困惑気味だ。
いきなりこんな事になるとは名執も思わなかったのだろう。
「では頂きましょうか?」
名執がそう言うとリーチは「頂きます」と言って食べ始めた。普段の生活でホテルのコース料理などなかなか食べられないせいか、一口食べるごとに笑顔になる。そんなリーチがおもしろいのか、エリックがくすくすと笑いだした。
「……何かおもしろいですか?」
「いえ……隠岐さんがあんまり美味しそうに食べられるので……」
「あ、はあ……はは。薄給な刑事は滅多にこんな豪勢な料理は食べられませんので……」
思わず頭をかいてリーチは言った。
「あの……ところでどうして私のことを知ったのですか?」
名執がエリックに尋ねた。
「毎年……兄さんが、お墓参りに来ていたでしょう……。私は最初知らなかったのですが、友人が教えてくれました。それで……あれは誰なんだろうって……。それで調べたら兄さんに行き着いたという訳です」
「……普通に考えると私が憎いのでは無いのですか?貴方の母親は父と愛人関係であったのでしょう?」
「時々父は……兄さんの父でもあるのですが……家に来ていました。私の母は父が妻子のある男だと知っていたそうです。それでも僕を生んだ……。母は納得の上で貴方の父と関係を持っていたのです。ですから…僕がそれをとやかく言う訳にはいかない。もちろん初めて母の口から自分は父の愛人だと聞かされたときはショックを受けました。でも母は父を愛していた。父の家庭を壊そうとか、自分が妻になりたいとは思わなかったそうです。ただ愛している人の子供が欲しかった。それだけだった。それに父はいつも優しかった。僕は楽しい思い出や、優しい父しか覚えていないのです。だから憎いとか恨むとか……そんなことを考えたことはありませんでした」
一気にエリックは言った。
「そうですか……」
「兄さんに聞きたいことがあるのですが……」
「なんですか?」
「父はどうして自分の父親を殺して……貴方の母と心中をしたのですか?」
名執は一瞬顔色を青ざめさせたが、何とか平静を保ったようであった。
「……私も分からないのです……。私も小さかったですし、貴方のお母さまは何かその事を御存知ではなかったのですか?」
顔色は平静であったが、向こうからは見えない位置で、名執が自分の膝に置いた手を震えさせていることにリーチは気が付いていた。
「いえ……何があったのか全く分からなかったそうです。母も父が亡くなって……暫くすると身体を壊しまして……元々身体の弱かったせいか、母には辛すぎて耐えられなかったのでしょう。父が亡くなってから、もう起きあがることが出来なくなりました。そのまま伏せったまま去年の末に亡くなりました」
先程まで明るかった表情をやや曇らせてエリックは言う。
「申し訳ありません……辛いことを伺いまして……」
「いえ……そんなこと気にしないで下さい」
次に晴れやかな笑みでエリックは言った。
「今は働かれているのですか?」
話題を変えようとリーチは聞いた。
「小さなお店を今度営む事になりまして……。こちらに来たついでに日本の食材も見て回ろうと思ったんです」
「シェフですか?」
「ええ。腕はそんなに良くないですけど……」
頬を紅潮させて照れくさそうにエリックは鼻の頭をかいた。
「そうだったのですか……済みません、知らないとはいえホテルからコースなど取りまして……」
名執は慌ててそう言った。
「そんな……シェフだからって言ってもまだ駆け出しで……こんなコースを作られるほどの技量はないです」
「どの位こちらにいらっしゃるのですか?」
「一ヶ月ほど滞在する事にしています。日本の食材も良いのがあれば仕入れることが出来るように契約したいと思っています」
どことなく胸を張ってエリックは言う。
「大変ですね……」
リーチはなんとなくもうどうでもいいような気持ちに駆られていたが、とりあえず社交辞令を崩さない程度に返した。
「いえ、自分がなりたかった職業ですから、苦は感じません。楽しいですよ」
「それで、どちらのホテルに?」
「東京駅近くのホテルです。良かったら観光案内お願いします」
「え、ええ……そうですね」
笑顔で答えているようにみえたが、リーチには名執が無理しているのがありありと分かった。