「監禁愛5」 第2章
色々話し合い、気がつくと十二時を過ぎようとしていて、リーチはそろそろお開きにしようと口を開いた。
「済みません。泊まっていって下さいと言いたいのですが、お客様用の敷物が一切無いのです」
うちから出て見送るために通路を歩きながら名執は淡々と述べた。これに関して無くて良かったと名執は本気で考えている。そんな自分の心の狭さが情けない。
「気にしないで下さい」
エリックはこちらの本当の気持ちなど知らず、笑顔で答える。胸がちくりと痛むがこればかりは名執にもどうすることも出来なかった。
嫌なのだ。
とにかく嫌だ。
兄だと信じている瞳をエリックから向けられると顔を背けたくなる。
笑顔を向けられるたびに身体が強ばるのだ。
「先生……タクシー来てますね」
肩をつつかれ、顔を上げると入り口である自動ドアの向こうにタクシーが停まっている。リーチが気を利かせて先に呼んでくれていたのだ。
「じゃあ、また連絡します」
相変わらず笑顔を崩さず、エリックはタクシーに乗り込んで帰っていった。
「……こんな事を言ってはいけないのかもしれませんが、疲れました……」
これは本音。
そんな名執にリーチは何も言わずこちらの手を握ってくれる。温かい手は名執の強ばった心を溶かしてくれるようだ。
「頑張ったと思うよ」
「はい……」
来た道を戻りながらエントランスを抜けてエレベーターに乗る。扉が音もなく閉じると二人きりの空間の気安さでリーチは名執を抱きしめてきた。当然名執は逆らわずに、自分からも手を回して頬をリーチの胸元に密着させた。
「……やっぱり嫌」
名執がぼそりと言うとリーチは笑う。こちらは笑い事ではないのに。
「どうして笑う……」
顔を上げるといきなりキスの応酬を受けた。なま暖かい舌が口内で動かされると、気持ちと共に体温も高まる。
「……っあ……」
扉が開いたと同時に離された身体と口元に名残を見せながらも、名執はなにも言わずに通路に出た。リーチの方は何事もなかったような表情で後ろを歩く。
「リーチ……」
振り返ると、ちょっと首を傾げたリーチがこちらを見ていた。そんなごく自然な姿も名執は好きだった。
「何でもありません……」
ようやく自然に浮かんだ笑みに、リーチは小さく笑う。何事もはっきり言わずとも分かってくれているのだ。
こんな時、名執は幸せを感じる。
振り返ると側にいてくれる恋人。
どんなときも支えてくれ、決して放り出したりしない。
「なんだよ……?」
「リーチが今日来てくれて良かったと本当に思ったんです」
一人なら通夜のような夕食を摂っていただろう。
「そうか」
鼻の頭をかいてちょっと照れた仕草をする。一つ一つの行動が、名執にはとても愛おしい。自分がこんな事を考えるようになれるとは夢にも思わなかった。
いつだって、些細なことでリーチを愛していることを自覚するとき、幸せに浸れるのだ。
「今日は疲れました」
ふっと出た言葉は静まりかえった闇の中に溶けて消えた。
部屋に戻ると名執は何をするよりも先にソファーに座り込んだ。そんな名執にリーチがお茶を入れてくれた。
「済みません……」
「俺も飲みたかったからついで」
リーチは名執の隣に座る。
「そういえば……私は……父の優しい顔など……見た記憶無いんです……」
エリックが言った一言がずっと名執の心に残っていた。
名執には父親の笑顔を見た覚えがない。思い出すのはいつも背中を向けている姿。もしかすると、早い時期に名執の本当の父親が誰か知っていたのかもしれない。
それを考えると身が切られそうに痛む。
「ユキ……」
「なんだか……。ちょっと羨ましいです……」
「そうか……」
「性格もとても純粋そうで……。愛人の子だと普通もっと歪んで育ちそうなものなのに、私の方が……」
「こら」
名執の言葉を最後まで言わせずリーチは言った。
「だってリーチ……」
どう考えても不公平だと言う気持ちがある。両親どちら共にも疎まれていたであろう自分と、例え愛人の子であっても、母親の愛情を一心に受けたエリックの方がどれほど良いか分からない。
「過去のことなんかどうでもいいだろ。過去を思い出したり悔やんだり羨ましがったってどうにもならないんだからさ。今お前は幸せだろ?それで充分過去は清算できるよ」
「ええ。確かに今、私はとても幸せです」
リーチの肩に身体をもたれさせて名執は目を閉じた。
そう。
私は幸せだ。
「だったら、奴を羨ましがるのは止めろ。それにあいつはお前の出生の秘密は知らないんだから心配することもない。お前はただ、弟が出来たと喜ぶだけで良いんだよ」
「それでも……私はエリックがすんなり帰ってくれてホッとしているのです」
頭でどれだけ自分が今幸せだと思っていても、エリックの笑顔は名執の心を揺さぶるのだ。影のない笑み。そんな笑みを名執が獲得できるまでどれだけの時間がかかったのだろう。だがエリックは生まれたときからあんな風に笑っていたに違いない。
「ユキ……」
「私は……やはり弟と見ることは出来ません。出来るならもう会いたくない」
思い詰めたように名執はそう言った。
「ユキちゃんは何時からそんな狭い心の持ち主になったのかな?」
「昔から狭いですよ」
うっすら開けた瞳を床に向かわせながら名執は言った。すると名執の腰にリーチは腕を廻して、身体を引き寄せた。
「エリックの事を見ると眩しいんだろうな……。真っ直ぐに育ったところがさ」
やはりリーチにも分かっていたのだ。
「……そう言うのではありません」
だが名執は否定した。
同意してしまうと自分の心の醜さが露わになりそうな気がしたからだ。
「……たださ、あっちはすごく嬉しいみたいだから、あわせてやれよ……それも出来ないか?ほら、ケインやレイの時は出来ただろう。あれと同じだよ」
「……私……」
「お前の心境は複雑だろうけどさ……」
複雑を通り越して嫌悪している。そのことすらリーチは分かっているはずなのに、どうしてそこまで言うのだろう。
「ケインとレイとは違います」
「……ユキ」
「……こんな私のこと……嫌でしょう?だって何時まで経って過去のことにこだわるから……駄目だと自分でも分かっているんです。ですが、こればかりは……どうにもならないんです」
「嫌じゃないよ。ユキは亡くなった両親の墓参りに毎年足を運んでいるけど、良い思い出があったからじゃないんだろ?自分が生まれたことで起きた悲劇を償おうとしてるんだと俺は考えてる。でもな何度も言ってるけどユキは何も悪くないんだぜ。まあ……いくらそれを言っても納得できない部分があるのも分かるし、俺も強制する気はないけどな」
「……」
「ユキ……今お前はとまどっているんだよ。だけど慣れるとそうでもなくなるさ。大丈夫。俺が側にいるだろ……」
髪を撫で上げながらリーチは言う。
いい大人が駄々をこねるのはさぞかし見苦しいことだ。だが自分でも解決できずにここまで来たのだから仕方ない。
「私は……怖いのです……私が誰の子だという本当の事を知っているかもしれない……そう思うと怖いのです」
自分が本当は誰の子供なのか。
それを思い出すことを避けてきた。
なのに、エリックを見ると嫌でも思い出すのだ。
忘れたいことであるのに、どうしても事実として浮かび上がってくる自分の事。
それは宮原成人からもたらされた苦痛とセットになって名執を今でも苦しめていた。
「あいつは知らないと思うぜ。隠しているようにも見えなかった」
「……本当に?」
「知ってたら来ないだろう?そんな面の皮の厚い奴にも見えなかったしなあ……」
「そうでしょうか……」
「大丈夫だ」
リーチはそう言って今度は名執を抱きしめてきた。力強い拘束力が身体を覆うと、安堵感が一気に冷えてしまいそうだった心を温めてくれる。
「済みません……リーチ……」
「謝るなよ……こういう時の恋人だろ?」
宥めるように動かされるリーチの手は背中を行ったり来たりしていた。
「エリックとは兄弟では無いんです……それなのに嘘をつかなければならない事が辛い。だからといって理由を話すことは出来ません。永遠に話すことなんか出来ない。私は彼に嘘をつき通さなければならない。そのたびに私は忘れたい事実を何度も思い出すことになる。それが……今まで以上に辛い……」
「そうだな。良く分かるよ。立場は違うけど……俺もトシも似たようなものだから……。でもさ、ずっと日本にいる訳じゃない。だろ?少しだけ頑張ってみろ」
そういえばそうだった。
ずっと日本にいるわけではないのだ。
「少しだけ……」
リーチの胸に埋めていた顔を上げて名執は言った。
「うん。少しでいいさ。嫌な時は医者として忙しいって言って煙に巻いたらいい。但し、誘いを断るにしても相手を傷つけない程度にな」
額にかかる髪を梳かしながらリーチは緩やかに笑う。
「はい……少しだけ頑張ってみます」
兄のまねごとをしてみよう。
名執はようやくそう思えるところまで気持ちを落ち着かせることが出来た。しばらくの間だけだ。そうなると、やはり一日くらいはこのうちに泊めてやることも必要になるかもしれない。
何より、下手にこちらが硬化した態度を見せると、逆に不審に思われるだろう。それは名執も避けたかった。
「あ、それと、俺が欲求不満にならない程度に奴とは会ってくれよ」
名執はようやく顔に笑顔が浮かんだ。
「リーチお願いがあるんですが……」
「なに?」
「お客様用の布団セット買って良いですか?」
以前、リーチがこれは必要ないと言って捨てたのだ。
「駄目」
名執は苦笑するしかない。
「多分、今みたいな時に泊まれって言ってやりたいのは分かる。でも、例えお前に家族がいて兄弟がいても俺は駄目だって言うからな。血が繋がっていようがいまいが、嫌なんだよ、他の奴がこのマンションに入ってくるの……。なんか自分の家に土足で踏み込まれたような気がしてさ。そりゃ、ここはお前の家で、俺の家じゃないんだけど、俺が来たとき誰かが来ていた雰囲気とか残ってると絶対嫌なんだよ。俺、ここしか落ち着けるところ無いし、ここでも気を使わなければならない状況になったら、来られなくなってしまう……」
「リーチ……」
「あ、違う……来られなくはない。けど、……上手く言えないな……」
すぐに言い直したリーチであったがそれが本当の気持ちなのだろう。
「分かったって……いいよ。布団買って良いって……そんな顔すんなよ……」
「もう良いですから……」
「だから良いって……買えって……」
「リーチは本音を言ったのでしょう?私はリーチにとってここが落ち着く家であってほしいんです。ですから内装にも気を使ってきました。だからもう良いんです。私が先程行ったことは忘れて下さい」
「買え」
リーチは又そう言った。
どういう心の心境の変化か名執は理解できなかった。
「リーチ……。本当にもう良いんです」
「じゃ、俺が買ってくる。なら納得するだろ」
既に意地になっている。
「……リーチ……どうして怒っているんですか?」
「怒ってない」
そうリーチが言うと名執は暫くしてから「……布団は……私が買いますので……」と言った。こうなるとリーチは頑固だから名執が買うしか無いだろう。
「最初からそう言えば良いんだよ」
何となく互いに気まずい雰囲気の中、リーチの携帯が鳴った。
「隠岐ですが……はい。分かりましたすぐに現場に向かいます」
携帯を切るとリーチは立ち上がった。
「リーチ……」
「仕事だからいくよ。……その……言いすぎた」
それだけ言うとリーチは名執のマンションを後にした。
リーチは帰ってくるのだろうか……名執はそう考えながら一人でベットに横になっていた。色々周りがごたごたしていることで気が滅入っているのだ。何よりリーチを不機嫌にさせたことが一番気にかかっていた。
客用の布団を買うとリーチには言ったが名執はそれは止めておこうと考えていた。リーチが言った「来られない」という言葉が偽りのない気持ちだと気が付いたから。
リーチは最初名執の元に通いだしたとき、熟睡をすることが無かった。動物が環境が変わると落ち着きが無くなるのと一緒で、リーチもそこが自分のテリトリーだと理解するまでは、のびのびとすることは無かったのだ。
だが今はこちらが起こさないと起きないほど、深い眠りにつくまでにリーチはなった。それは他人が絶対ここを侵さないことに気がついたからであろう。まず名執を訪ねてくる親戚も両親もいない。友人もそれほどいないし、リーチの事もあってマンションに知り合いを上げたことは無かった。
それがリーチにとって安心する要素になっていたのだ。誰かが突然訪ねて来ることもない。どんな時間に行っても他人の気配が無い。それがリーチにとって何よりも望む環境なのだろう。
この場所は普段利一を演じ、更に四方にアンテナを張っているリーチの唯一、精神が休まるところなのだ。名執にはそれが充分理解していた。なによりリーチがそんな風にこの場所を思ってくれる事が名執の喜びでもある。それを壊したいと思わない。
一度壊れると修復するのに時間がかかるから。
買わない。
名執はそう決めた。リーチも多分安心してくれるだろう。
しかし、次の日エリックは自ら毛布を持参して名執のうちを訪れた。