Angel Sugar

「唯我独尊な男―忘却―」 第1章

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 ジャックが病院に運ばれた。
 恭夜が利一からそういう連絡をもらって病院に駆けつけた時には、まだ状況がよく分からなかった。
 大事故に巻き込まれても涼しい顔で擦り傷一つなく立っていそうなジャックだ。だからそこまで心配はしていなかった。
「隠岐、連絡もらって来たんだけど」
「恭夜さん……」
 病室の前に立つ利一は、困惑したような表情をしていた。思わず恭夜は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「え、何その……妙な顔」
「いえ……あの……」
 利一は、はっきりと言わず、もごもごと言葉を濁している。
「もしかして……ジャック大けがしてるのか?」
「そうではないのですが。あっ、恭夜さん!」
 引き戸を開けて恭夜は病室へ飛び込んだ。
 ジャックはクッションに凭れ、座っていた。が、その頭には真新しい包帯が巻かれていて、顔色もどこか青白い。それ以外、気になるような怪我はしていないようだった。
「……なんだよ。大丈夫じゃないか……。隠岐の奴、驚かせやがって。あんたが入院だなんて、ありえないもんな。で、何があったんだよ?」
 ほっと胸をなで下ろしつつ、恭夜は傍らにあった椅子を引き寄せて、座る。ジャックに状況を聞こうとするまえに、あり得ない言葉が耳に飛び込んできた。
「……お前は誰だ? どうしてべらべらとうるさく話している?」
「……は? 何を言ってるんだよ、ジャック」
「見知らぬ者と話す趣味はない。出て行け」
 背筋が凍りそうなほど冷たい目を向けられた恭夜は、椅子から転げ落ちそうになりながら立ち上がると、廊下へ飛び出した。
 そこで利一は先ほどと同じように立っていたが、やはり困惑した顔をしている。
「おおおおお……隠岐! どうなってるんだよ!」
「お話をされて気づかれたと思いますが……ジャック先生、記憶を失ってらっしゃるようなんです」
「……冗談はよせよ」
「冗談ではありませんよ」
 利一は生真面目な顔でそう言った。
 とてもふざけているようには見えないし、なによりジャックのあの態度は、恭夜に決して向けないものだ。
 ということは、これは夢でも嘘でもないのだろう。
「ジャックが……記憶を……失ってる?」
 利一は大きく頷き、言った。
「ええもう、私のこともご存じではないのです。綺麗さっぱり、忘れていらっしゃるようです。交渉人としてお仕事をされているのは覚えていらっしゃるので、ここ数年の記憶が飛んでいるようです。この場合、どうしていいのか……」
「どうして……って。そりゃ、お前……まずは怪我が治るのを待つんだろ」
「いえ、そういう心配ではなくて、まずご両親に連絡するのですが、相手はジャック先生ですし……どうしましょう?」
 確かに普通は家族に連絡して、家族の元で静養させるのが一番だろう。が、ジャックの家庭環境は複雑で、恭夜としても連絡はさけたい。
「両親に連絡なんてしたら、あの執事のサイモンがまた来るぞ! あいつ……ジャックを連れ帰りたくて仕方ないんだからさ」
「……う~ん。あの人ですか……困りましたね」
 利一も被害にあったことがあるからか、腕組みをしてうなった。彼らが再び訪れたときのことを想像し、ぞっとしているのだろう。
 だがここには恭夜がいる。
 ジャックの恋人である、恭夜が。
 恭夜が面倒を見ればいいことであって、家族はこの際関係がない。
「なんだよ。普通は夫か妻とか連れ帰るんだろ。この場合、俺だ!」
「そうですね」
「俺に権利がないっていうのか?」
「いえ。そうではなくて……ああいう状態のジャック先生の面倒を見るのは……相当覚悟されていないと……」
 利一は、怖いことを口にしていた。
「相当……って」
「恭夜さんのことを忘れているんですから……ジャック先生にとって今は他人です。他人対する対応はご存じなはずですよ」
 ジャックは好き嫌いがはっきりしているタイプだ。いや、尊敬する人もいなければ、友達もいないと豪語する男と、一緒に暮らすのは確かに厳しいだろう。
 暴力こそないが、言葉でネチネチと弄ばれて、自殺に追いやられる可能性も、ないとはいえない。
 そいういう人間だと普通に想像できてしまうのも、ジャックだからだろう。
「……うん。確かに……そうかも。でも、だからって、放り出すわけないだろ。俺は……その……ジャックの……こっ……こっ……恋人なんだから……さ」
「そこはさらりと恋人って言えないんですか? そういうところが心配なんですよ」
「大丈夫だよ」
 恭夜が自分のことすら忘れてしまったとき、ジャックは言葉では感謝しきれないほど、かいがいしく面倒を見てくれたのだ。
 今度は恭夜がジャックにお返しをする番だった。
「そうおっしゃられても、恭夜さんのことをジャック先生が受け入れてくださるかどうかが、問題なんですよ……ね」
「……え?」
 利一の言葉に恭夜は目を見開いた。何を言われたのかすぐに理解ができなかったのだ。
「今、恭夜さんはジャック先生にとって他人ですから。拒絶されて当然あるかと」
「だったら、無理やりでも受け入れさせるよ。あいつの帰る家は俺の家でもあるんだ。しかも名義は俺なんだからな!」
 出て行けと言われても、居座る権利が恭夜にはあった。
 もっとも贈与されているので、元の持ち主はジャックだといえば、そうだが。書類上はすでに恭夜のものだから、追い出されることはない。
「……強気ですね」
「ふっ、奮い立たせてるんだよ。いろいろ……いろいろとだっ!」
「分かりますけど」
 言葉にして自分を奮い立たせている。今から躊躇していては、この先、やっていけないからだ。
 恭夜は両手で頬を叩いて気合いを入れると、ジャックのいる病室に戻った。
「ジャック」
「またお前か……何の用だ」
「いいか、あんたは……おっ……俺の……」
「恭夜さん」
 利一の声に力づけられるように、恭夜は言葉を続けた。
「俺の恋人だ! 忘れていたとしても、あんたは俺の……恋人だから、一緒に暮らしてる家に連れて帰るからな!」
 恭夜が高らかに宣言すると、ジャックはじっとこちらを見つめ、嫌そうに目を細めた。
「……なんだよ」
「変だな……お前だけ……」
「俺だけ?」
 特別に思えるとか、何か思い出せそうとか、期待して次の言葉を恭夜は待った。
 が――。
「とてつもなく頭が悪そうだ」
「……あ、そう。好きに言ってりゃいいよ」
 恭夜は再びジャックに背を向けて病室を出ると、利一に聞いた。
「な、隠岐。ジャックを連れ帰っていいのか?」
「まだ検査結果が出ていないらしくて……一泊はしていただくことになりそうです」
「じゃあ、俺も泊まった方がいいかな」
「完全看護だそうですよ」
 なら、病室で寝泊まりはできないだろう。
 今、恭夜にできることといえば、彼の記憶を取り戻すきっかけになるものを、探して持ち込むことだ。
「そか……じゃあ、とりあえず家に帰って、あいつが思い出せそうな写真とかみつくろって持ってくるかな。古典的だけど……」
「本当に……大丈夫ですか?」
「なんとかなるよ」
 恭夜は、できることはすべてやるのだと決心したのだ。すると意外なことに、動揺などまるでせず、地に足がしっかりついている気分になっていた。
「じゃあ、隠岐。俺、一度、家に帰ってくるよ。ジャックが逃げ出しそうになったら、掴まえて引き戻してくれよ。ここから出したりしないでくれ」
「努力しますが……」
「が、ってなんだよ」
「いえ。なんとかします。安心して自宅に戻ってください」
「悪いな、隠岐」
 恭夜は利一に背を向け、長い病院の廊下を歩いて、エレベーターホールを目指した。



 やっと帰ったか――。
 ジャックがため息をついていると、利一が病室へ入ってきた。
「ジャック先生、本当にこんな馬鹿なことをされるつもりですか?」
「……ああ」
「急にどうして……」
 利一であっても事情は説明してやれないが、恭夜としばらく離れる必要がある。それが恭夜を護ることになるからだ。
「事情は聞くな。だが、しばらく恭夜を私から引き離しておきたい。その間、お前が面倒をみてやってくれ」
「……いえ、恭夜さんのお兄さんの恭眞さんにお願いしようと思っています。こういう場合は兄弟の方がいいでしょうから」
「そうか」
 恭夜の兄は頼りないが、仕方がないだろう。
 あのモップのような毛の犬も、恭夜の慰めになるかもしれない。
「ジャック先生、どうせならこういうことはなさらずに、はっきり恭夜さんに打ち明けられたらどうですか?」
「……だめだ」
「私には……恭夜さんがジャック先生を見捨てるようなことは絶対にないと思うんですよ」
「大丈夫だ。いずれ、そうせざるを得なくなる……」
 逃げ出すよう、追い詰めることは仕事上、慣れたものだ。
 いくら恭夜でもジャックの与える言葉の痛みに、耐えられると思わない。
「やめた方がいいって申し上げましたからね。後から苦情は受け付けません」
「ああ。分かっている」
 キョウ――。
 ジャックは窓に目を向け、曇り始めた空を眺めながら、ため息をついた。
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