「プレゼントは嬉しいけれど……」 (450万ヒット)
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隠し通さなければならない……。名執は目に入る真新しい包帯を見てため息をついた。
オペの最中に怪我をしたわけではない。食堂でナースの田村とランチを食べ終え、トレーを返却しようと立ち上がった名執と、これから食事をしようとやってきた内科医とぶつかった。それだけなら問題はなかったのだが、相手のトレーから落ちたフォークが名執の左手の甲を掠め、柔らかい皮膚を斬りつけた。あっという間の出来事であったので、名執は怪我をしたことに気付かなかったのだが、田村が叫んだことでようやく滴り落ちる赤い血を確認した。
結構、血は出ていますが、筋を傷つけているわけでもないですし、縫うほどじゃないですね。しかも左手ですし……と、心の中で己の手を見つめながらそんなことを考えていた名執を処置室に無理やり連れて行ったのは田村だ。血など見慣れているはずの田村が、まるで息子が大事故に巻き込まれたような慌てようだったのを思い出すと口元に笑みが浮かぶ。それでも怪我をしたことで念のため昼過ぎから入っていたオペの一つを延期、もう一つを同僚の外科医に頼んだ。
数日で傷には瘡蓋ができ、数週間後にはうっすらと跡を残すのみで治癒する程度の怪我だったのだが、最も気がかりな問題が一つ控えていたのだ。
リーチはきっと怒るでしょうね……。
今週はリーチのプライベートだ。今晩やってくるに違いない。名執も心待ちにしていたリーチのプライベートなのだが、この包帯を見てどういう反応を示すのかが気になっていた。時には名執ですら気付かなかった怪我を見つけて、リーチは大げさに騒ぐので名執は困っていた。
普通に生活をしていても怪我はするものだ。気を付けていても、擦り傷や切り傷など誰にでもある。それをどれほどリーチに説明をしても理解しようとしない。
リーチが来るまでにどうにか、隠せないものでしょうか……。
名執は何度も考えてみたが、ため息しか出なかった。
駐車場に車を入れ、エレベータに乗って自宅に戻ると、こういう時に限ってリーチが先に帰ってきていた。玄関で恋人の靴を見つけた名執が慌てて包帯を外そうとしているところ、リーチの声が響いた。
「ユキ、なにやってんだ?」
「え……あ。今日は早かったんですね」
「そういうときもあ……」
のんびりとそう言いながらリーチは左手首をいきなり掴んだ。名執は思わず伝わってきた痛みで小さく呻いた。
「怪我したのか?」
掴んだ手首から手を離してリーチは両手を上げた。
「ええ。休憩時間にカップを割ってしまって、それで怪我をしたんです。私が不注意でした」
事実を話すとリーチはトレーを持っていた内科医に何をするか分からない。以前、名執の同僚を霊安室に閉じこめたことは記憶に新しい。彼らはただ、名執に対する不満を口にしていただけなのだが、それでもあんなことをするリーチだ。もしこの怪我の原因を知ったら――そう考え名執は黙っておくことにした。
「怪我は酷いのか?」
「いいえ。すぐに治ります。皮膚の表面をかすっただけですので……え、あ、かすったような怪我だと言いたいんです」
「……まあ、大したことがないのならいいけど。じゃあ、ちょうどよかったな。夕食は俺がもう作り終えたところだから、ユキはなにもしなくていい」
「ありがとうございます。じゃあ、私は着替えてきますね」
名執はリーチと別れて寝室に向かった。
思ったよりリーチが落ち着いて受け止めてくれたことで、名執は胸を撫で下ろしながら着替えると、キッチンに向かった。テーブルにはすでに料理が並べられていて、チキンのクリーム煮やほうれん草と卵のココットからは湯気が上がっていた。リーチは名執に背を向けたまま、シンクのところに立ち、料理の最後の仕上げにかかっている。だが、飲物の用意ができていなかったので、名執がカップを出そうと戸棚に手を伸ばしたところ、リーチにとめられた。
「駄目だ。俺が全部するから、お前は座ってろ」
「え……ですが」
「いいんだって。怪我をしているユキにそんなことはさせられないよ」
「は……はあ。じゃあ、お願いします」
手の甲を少し切っただけであるのに、リーチの態度は過保護すぎる。とはいえ、リーチがやるというのだからここお願いした方がいいのだろう。
名執は全ての準備が整うまでおとなしく座って待つことにした。
「傷は痛む?」
「いえ。痛みはありませんよ。田村さんが大げさに包帯を巻いただけで、テープをしばらく貼っておけばすぐに治りますから」
「ふうん」
どことなく怪訝な表情のリーチに、名執は首を傾げた。名執が怪我をすると過保護になることは知っているが、過保護さがいつもと違う。
「とっても美味しそうですね。頂いて宜しいですか?」
「腹一杯食えよ。あ、俺が食わしてやってもいいけど」
「リーチ。私が怪我をしたのは左手ですよ」
くすくす笑って名執が言うと、残念そうな顔でリーチは「頂きます」といって手を合わせた。
食事を終えると名執はリーチに言われるままリビングに移動した。リーチが料理を作ってくれたときは名執が後かたづけをするのだが「怪我をした手で洗い物なんてさせられない」といわれたのだ。
名執はとりあえず付けたテレビ番組を見ながらリーチが来るのを待ったのだが、なんとなく気もそぞろで落ち着けない。何度も肩越しに振り返り、名執はリーチの姿を視界に入れようとしていた。
「終わったぜ」
リーチはタオルで濡れた手を拭きながらやってくると、名執の隣に腰を下ろした。
「ありがとうございます。いろいろ気を使っていただいて……」
「そんなことはいいから、手、見せてみろ」
と言ったリーチだったが、すでに左手を自分の手の中に入れていた。
「心配しすぎですよ」
小さく笑って名執は言うが、リーチの方は包帯の上から手の甲をそろりと撫でて顔をしかめる。
「傷、見たい」
顔を上げてリーチは名執をじっと見つめた。そこにある漆黒の瞳は真剣そのものだ。
「リーチ。そんなの見ても仕方ないですよ」
手を引っ込めようとしたが、手首を掴まれているためにできない。
「仕方ないことなんて言うな」
口を尖らせて、リーチは名執の手の甲に巻かれていた包帯を取り、傷口に張り付けてあるガーゼを取り去った。すでに塞がっているとはいえ、傷は生々しい赤い筋となって残っていて、傷口の周りにはまだ乾ききらない血が付いていた。
リーチはじっとそれを見下ろして、もう一度顔を上げる。
「血が出てる……」
「出ているように見えますが、乾いていますよ。傷口は塞がってます」
「ユキの綺麗な肌にこんな傷が……」
ちょっと寂しそうな表情でリーチは呟く。
「皮膚には再生能力がありますから、すぐに薄くなりますよ。できたての傷ですから、酷く見えるだけです」
「舐めていい?」
リーチは真面目な顔でそう言ったが、名執は驚いた。
「は?」
「舐めてみたい……」
突然リーチが名執に乗り上がってきて背はソファーに押しつけられる。
「駄目ですよ、リーチ。傷口には薬が塗ってあるんですから」
掴まれた手を振りほどこうとするのに、リーチの戒めから逃れられない。
「歯は磨いてきた」
「ええっ?」
目を見開いている間に、リーチはそろりと名執の傷口に舌を這わせてきた。チクッと染みるものの、痛みはさほど感じない。柔らかい唇の厚みが手の甲を滑り、舌が傷を舐める。チュプチュプと吸い付く音が耳に入り、名執は顔が赤らんだ。
「……駄目です。リーチ……」
手の甲を舐められているだけで、敏感な部分に触れられたわけではない。なのに、名執はただ傷口を舐めているリーチの姿に身体が昂ってきた。
「痛いか?」
「いえ……でも……っ」
軽く吸い付いていたリーチの唇が、今度は手の甲に触れては押さえるだけの愛撫に変わり、傷口以外の肌を撫でていく。肉の柔らかさが皮膚から伝わり、神経が麻痺するような気になってくる。
「リーチ……駄目で……やっ」
指先を一本ずつ、まるでアイスクリームを舐めるように口含まれて、名執はリーチの肩を自由な方の手で押した。
「なんで?ユキが傷口を舐めるなっていうから、指を舐めてるんだぜ」
チュッと口から名執の指を出して、リーチは笑った。
「こういうことは……やめて……っあ」
また指を根元まで口に含まれて名執は身体を震わせた。五本ある指を全て先端まで吸い上げて、離す。ただそれだけのことであるのに身体の奥が疼く。特に指先を根元まで口に含まれる瞬間がエロティックに見えるのだ。リーチの唇は柔らかくて、口内は温かい。湿り気のある舌が指に絡まる瞬間が堪らなく心地いい。
「あ……も、やめてください……」
名執は睫を震わせて伝わる感覚に耐えた。
「痛くないっていったよな?」
「痛くはありません。ただ……その……っん」
手の甲から腕まで舌をツウッと這わされて、名執は思わず自分の口を手で押さえた。
「感じてるのか?傷を舐めているだけなのに」
からかうように言われて名執はさらに顔を朱に染めた。
「リーチが……その……」
「俺が……何?」
名執に見えるように舌を出して、リーチは指先を舐める。するとチロチロと蠢く舌の動きがはっきりと視界に捉えられ、身体の奥がますます疼く。
「それは……っあ」
「ユキちゃんって、どうして傷を舐めてやってるだけなのに、ここを硬くしてるんだろうなあ~」
嬉しそうにリーチはそう言って、スラックスの上から名執の雄に触れた。まるで形を確かめるように動かされる手の平に、名執は根を上げる。
「も……や、やめてください。どちらかにしてっ!」
名執が叫んだ言葉にリーチは声を上げて笑った。
「どちらかにって……ははは、それ、面白いな」
「面白くなんか……ありませんっ……あっ」
また指先を口に含まれ、名執はギュッと目を閉じた。だが、柔らかい舌の感触と同時に金属製の何かが触れるのを感じ取った。それがどんな形をしているのか、名執は脳裏ですぐさま描き出すことができ、思わず目を開けた。
「リーチ……これは……」
「指輪」
頭上でかざした自分の薬指には確かにプラチナの指輪が輝いていた。名執は思いもかけないプレゼントに声がすぐに出ない。
「……ほら、トシと幾浦は持ってるだろ?……なんか真似したみたいだけどさあ。いいよな?あ、でも、あいつらより値段は下がるぜ。俺、そんないいもの買える金はないから」
「リーチ……嬉しいです」
「ほんとか?」
「ええ……本当に嬉しいです。リーチもはめてるのですか?」
名執が期待に満ちた顔で問いかけると、リーチは肩を竦めた。
「一つ買うのが精一杯だったんだよなあ。強盗事件を解決してやった宝石店の親父に無理を言って、俺の分は取り置きしてもらってる。もうちょっと先になるけど……一応、ペアリング」
「リーチの分は私がプレゼントします」
「いや、いいよ」
「私がプレゼントしたいんです」
「いいって、俺にもたまにはいい格好させろよ」
苦笑するリーチに名執は頷くしかなかった。
「そこに指輪をはめていたら、変な奴もちょっかいかけてこないだろうしな。恋人がいます……って証拠になるし、ああ、既婚者っていうのもありか」
リーチはブツブツと呟いている。だが、名執は自分の指に光る指輪に目が釘付けだった。
「ええ、そう思います」
「お前はいいのか?」
「もちろん。どうしてですか?」
「逆に聞かれて面倒なことにならないかと思ってさ」
「田村さんが聞いてくるでしょうね。でも田村さんは私が女性と付き合っていると考えていらっしゃるので、問題はないと思いますよ」
手を何度も裏表に動かして、リングを眺めた。トシ達がリングを交換していたのは知っていたが、欲しいと口に出して名執は今まで言えなかったのだ。リーチの懐具合を知っていたからという理由もあるが、無理を言って嫌われたくないと考えたのが一番の理由だった。
「そう。じゃあ、いっか」
「隠岐利一はプライベートごとに指輪もチェンジするのですか?」
「はは……それもいいな。でも俺たちの仕事は指輪を傷つけやすいから、トシは警察手帳に挟んでるよ。俺もそうする。二人分のお守りだ。すっげ~強力だろうな。いや、俺はユキからもっとすげえお守りをもらってるから……じゃあ、かける何倍になるんだろう……」
名執が作ったお守りはいつも利一の胸ポケットに入っている。中身のことを考えると話題にされると羞恥で身体中が赤くなってしまう。
「だから、お前を縛るものとして指輪をプレゼントするんじゃなくて、お守りだと思ってくれよ。これで怪我もしなくなる」
「そうですね。頼もしいお守りです」
そう言いながらも名執は笑顔を浮かべたまま指輪を眺めていた。
「先生、素敵な指輪ですね~。恋人とおそろいですか?」
病院に出勤し、朝一番にめざとく見つけたのはやはり田村だった。
「ええ」
実際はもらったものだが、そうすると説明がややこしくなるので、名執は田村にあわせてそう答えた。
「一度先生の彼女を見てみたいですわ。昨日お会いになったんですね。先生のお顔も心なしか晴れやかなのは、そのためだったんですね。一度お会いしたいわ。キャリアウーマンで、名執先生がべた惚れしている素敵な女性。どんな方なのかしら~」
なぜか田村が頬を赤らめて上の空で言う。
「普通の人ですよ……」
苦笑して名執が言うと、田村は突然思い出したように話題を変えた。
「そうそう、先生。昨日大変なことがあったそうですよ」
「何があったのですか?」
「ほら、先生。昨日ランチタイムに先生とぶつかった内科の加藤先生が昼過ぎから行方不明になって、どちらにいらしたと思います?」
名執は嫌な予感がしたが、ただ、顔を左右に振る。
「トイレで倒れていらっしゃったそうです。怪我もなくて、打ち身もないらしいのでどうして気を失ったのか分からないそうなんですが」
リーチはどこからか見ていたんんですね?
すでに報復が済んでいたから、いつもは大騒ぎする怪我のことを名執に問いつめなかったのだ。
「今、加藤先生は内科で健康診断を受けてらっしゃるそうですよ。実は貧血があるのかもしれないって。あんなに健康そうな先生なのに、人間の身体って不思議ですよね~。でも名執先生は外見からも繊細な方ですので、それこそ人より気を付けていただかないと」
田村の言葉を名執は最後まで聞くことがでず、頭の中を支配したリーチの姿でいっぱいになっていた。
しかも、脳裏を支配したリーチの顔はなぜかからかうような笑いを浮かべていた。
―完―
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復帰後第一弾がこれか!というのはおいて……。リーチがおとなしかったのは、きっと報復を済ませた後だったからでしょうね。でも、どうやって気を失わせたのかっ! どこかツボでも押したんじゃないかな……おいおい。どこまでも暴走するリーチですが、これからも可愛がってやってくださいね~(笑)。 |