02. こんなはずじゃなかった
右の足首が痛い。くるぶしの前あたりが靴の革で締め付けられて、激痛が走る。
肩もかなりキてる。肩紐が食い込んで首の根本で血が止まっているみたいだ。
時間と共にザックが岩のように重くなってきた。前屈みの姿勢がどんどん深くなって、さっきからずっと地面 だけを睨んで歩いている。
日が暮れ始めるとあたりの気温も急速に下がり始めた。それと同時に不安が胸にこみ上げるのが分かったけれど、もう息が上がってそれどころじゃなかった。
「……はぁ……、まだ加茂か」
ようやく国道沿いのコンビニに辿り着いて、駐車場にザックを下ろした。
たまらずに靴も靴下も脱いで裸足になる。トラックが頻繁に通り、地面のアスファルトも煤けて真っ黒だったけれど、もうそんなことはどうでもいい。足の裏に伝わるひんやりとした感触が気持ちよかった。
朝、出発点である実家を出たのが9:00。
そこから最初は奈良市の北縁部を東西に走る「ならやま大通り」を東に歩いて、すぐに京都との府県境で国道163号線に接続した。JR木津駅前の定食屋で昼飯を食べ、ゴルフ場のある丘陵の峠道を抜けると加茂。今ようやくそこから橋を渡って木津川を越え、ふたたび163号線へ合流したところだ。時計を見るとまだ16:30だけど、もうだいぶ太陽は傾いて黄色い光線に変わっていた。
コンビニで豚まんとスポーツ飲料を買ってきて、駐車場の隅に思わずへたりこむ。身体の痛みも激しかったが、さっきから空腹感も凄まじかった。豚まんは二口で平らげた。
まさかここまで疲労困憊してしまうとは、まったく予想外だ。1日どれくらい歩けるのか実感はなかったものの、勝手に30〜40kmは大丈夫と見ていた。
だけど、そんなのとんでもない!今日はまだせいぜい15km程度しか歩いていないのに、もう1日が終わろうとしている。予定のたった半分だった。
原因はなんだ?
まず右足首の痛みは靴擦れのせいだ。というか、ぼくはこれまで靴擦れというものを経験したことがなかった。多分これが靴擦れというものだろうな、と初めてその辛さを思い知った。
実はこの旅のために今回新たに買ったものが2つある。ひとつは1〜2人用のコンパクトなテント、もうひとつはこの登山靴並に本格的なトレッキングシューズだ。
新しい靴はすこし履き馴らして足に馴染ませないといけないというのは知っていたけれど、普段スニーカーしか履かないぼくは、今回もさほど問題にはしていなかった。
思い切って大枚をはたいたシューズだったのに。朝はまるで戦車のようにたくましく思えたその濃緑色の革も、今はもう憎々しくさえある。なんでこんなに硬いのっ!
それに、荷物の重さも誤算。
家の体重計で測ったところおよそ15kg程度だったと思うが、最初は当然疲労も何もなかったので全然問題なく背負えていたのだ。それが、足が痛くなってくるに従って次第に重さを増してきた。一体何が余計だったのか。あの文庫本か、着替えが多かったのか……。さっきまでザックの中身のことばかり考えていた。
ザックが重みで後ろに引き倒されるようになるので、どんどん前屈みになって下ばかり見る。そうすると地面しか見えなくて、面白くないので余計に疲れが増した。
途中で立ち止まって景色を眺めたり写真を撮ったりしていたので、進むのが遅かったのはすべて疲労のせいだけではない。でも午後になって、足の痛みを和らげるために何度も立ち止まって靴紐を弛めたり、休憩の間隔が短くなったりして、たちまちペースが堕ちてしまった。
今日は初日だし、休めばまだなんとか元気が回復するだろう。ただテントを張れそうな場所となると、まだ最短でも笠置までは進まなきゃならない。地図を見るとあと約8km。出発前の方程式なら2時間程度の距離だけど、今は1.5倍増しくらいで修正する必要がありそうだった。
疲れを助長する原因はもうひとつある。それはこの国道163号線だ。
トラックの交通量が多いのは仕方がない。東京までの道のりで、こういう国道を歩かなければならない箇所もきっと多いだろう。ただそれでも脇道や農道が併走しているところはエスケープできるので助かるのだが、この木津川沿いの山間部ルートはここから伊賀上野あたりまでほとんど脇道がない。しかも路肩に歩道もない区間がかなり長いので、そういうところでは何台ものトラックが身体すれすれに猛スピードで走り抜けていく。その風圧とザックの重みで重心がふらつくので、常に神経を集中していなければかなり危険だった。
ふだん路肩を人が歩いていることなど滅多にない道路でもある。日が暮れてきて、運転手からさらに見落とされやすくなるんじゃないかと、不安は募る一方だ。トラックがこんなに怖いものだと感じたのも初めてだった。
出発前、自分の中の想像では序盤は身体が慣れるまで辛いだろうけれど、だんだん慣れてきてペースも安定するんじゃないかと予想をしていた。まあそれは見当違いではないものの、その「最初の辛さ」が想像を遙かに超えている。
もう顔も上げられなくなって、ひたすら俯いてトボトボと歩きながら考えること……
「オレなんでこんな旅を始めてしもたんやろ?」
この言葉がグルグルと何度も頭の中を回転する。
たぶん最初の内は後悔したりもするだろうと、自分の性格だからこれもある程度は予想通りだったけど、実際に「痛み」を伴うともうシャレにならない。
ギブアップはさすがにまだ考えないものの、さりとて計画通り東京まで歩くということのリアリティはもうすっかり失っていた。希望も何も、ない。
このあたりは車で何度も通っている。
悠然と流れる木津川が山あいに深く切り込んで、それに沿う163号線も崖を縫うように延々と続いている。
もう目と鼻の先に笠置の鉄橋が見えてくるはずなのにな。
いっこうにそれは現れないし、このあたりは人家もなければ外灯も乏しい。追い打ちをかけるように夕陽がみるみる山際に姿を隠して、渓谷はどんどんモノトーンに沈んでいった。
目指す笠置まであと2kmというあたりで、ようやく小さなドライブインに行き当たった。さっき休憩したコンビニからここまで何もなかったから、並んだ自動販売機の発する蛍光灯の白い灯りがなんとも心強く思える。
立ち止まると風が冬のように冷たい。フリースをもう1枚着重ねても、まだちょっと身体が震える。しかし汗を拭く気力さえも残っていなかった。
豚まんのカロリーはとっくに消化していたので、もう腹ぺこだ。
ふたたびコンビニに入って牛丼弁当を買った。
「あたためますかぁ?」
(……あたためてくれ!もう、あらんかぎりにあっためてくれっっ!!)
ふだん何気なく聞き過ごす、ときにはイライラするような店員の紋切り口調も、このときばかりは仏様の慈悲のお言葉だ。外は寒いからできるだけ長く店内にいたかったけれど、電子レンジは無情にもあっという間に、「チーン!」と成仏の時を告げた。
また駐車場であぐらをかいて心細い晩餐を迎える。
それにしても、気温の下降が異様に早かった。渓谷の谷間から見上げる細長い空は、みるみる山霧に覆われつつある。あたりに水蒸気が充満しているのが、肌にひやっと触れる感じでわかった。
ダメだ。もう今日は一歩も動く気がしない。
どうやら天候が崩れてきているようだ。今晩万が一雨に降られて足止めを食らっても大丈夫なように、できるだけ水場やお店から離れたくないし、かといってもう暗くなった国道沿いを笠置まで歩くのもかなり危険だろう。
自分に言い訳しているようにも思えたけれど、とにかく心はもう決まっていた。
さっそくドライブインの裏手に回ると、川を見下ろす遊歩道の端に国道から見えない奥まった場所がある。遠慮とか見栄とかといった品性は、もうとっくに捨て去っていた。睡眠欲だけに動かされて黙々とテントを設営する。買ったばかりの新品だったけれど、張り具合を眺めてみることもなく、形が出来上がると同時に寝袋に滑り込んだ。
いつもなら、雨に降られても安心なように屋根のある場所を選ぶだろう。それにせめて寝る前に歯くらいは磨くはずだ。足を揉んでマッサージしておいた方がいいんじゃないか。でも、今はもうとにかくそんなことはすべてどうでもよかった。
時計を見るとなんとまだ19:00! ……しかし、それももうどうでもよかった。
もう何も考えられない。目を閉じると、頭の中に「絶望」という文字がでかでかと浮かび、それが消えぬ 間に深い眠りにさらわれていた。
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