03. 屈辱の出直し
……寒い。
断片的な夢を、繰り返し繰り返しみていた。
朝はまだ来ないのか……。覚醒が近づくたび祈るような気持ちで光を求める。
しかし、外は一向に闇に包まれたままのようだった。
寝袋の中で身体をこわばらせたまま、ようやく細目を開けて腕時計の文字盤を見る。随分長い時間がたったような気がしていたけれど、まだ6:00過ぎだった。……いや、昨日寝たのが19:00だったから、やっぱりかなり長い時間こうして身を縮めていたんだ。
起きて外の様子を見てみたい。でも、寝袋から出るのさえ億劫だ。
テントの中はまだしも、この様子だと外はとんでもなく寒いんじゃないか?それに、山の中とはいえこの時間ならもう空は明るいはずなのに、まだ全然光が鈍い。日が射しさえすれば気温も上昇して、すこしはましになるんだけど……。
それからまだ何分かモゾモゾしたあと、やっとの思いで入口のジッパーを少しだけ開いて外を覗いてみた。眼鏡を掛けていなかったのでしばらくぼんやりと焦点が定まらない。その間にも湿った冷気がどんどん室内に押し寄せてくる……、!
外界には冷たい薄紫色の濃霧が充満していた。
おそらく太陽はもう昇っているはずだが、これでは一向に明るくならないはずだ……。
もう完全に希望をうち砕かれて、何も考えられずまた寝袋に顔をうずめてしまった。
テント泊で特に困るのは、朝露の問題だ。
春とはいえ、4月一杯は平野部でもまだ朝は冬並に寒い。従って適度に保温されるテントの中と外気との温度差のせいで、晴れていても雨に濡れたようにグッショリとテントが濡れるのだ。
野営における朝一番の仕事はまずこの濡れたテントを乾かすこと。荷物を出してテントごと振ったりして大まかに水滴を落とした後、表面を軽く拭いていく。本テントと雨よけのフライシートの2枚分あり、さらにフライは表裏両面が濡れているので結構な面積だ。
それでも直射日光が当たっていればナイロン素材はあっという間に乾いてくれるが、曇りの場合は風のみが頼りになる。できるだけ風通 しのよい場所へ移して、ときどき乾き具合を見て方向を変えたりする。この間に朝食を採ったり荷造りを整えたりして時間を有効に活用するのだけれど、テントをたたみ終わるまでに少なくとも1時間くらいはかかってしまう。
もしかすると他の本格的な登山者や豪儀なキャンパーなら、多少濡れたままでも気にせずたたんでしまうのかも知れない。でもそうすると、たちまちテントがカビ臭くなってしまう。ぼくは多少神経質と思われようと、テントだけはいつも綺麗に保っておきたい主義だ。
6:30ごろ、なんとか気合いを入れて昨日のコンビニへ行って朝食のパンを買い、テントに戻って携帯ラジオのスイッチを入れた。しかし天気予報はなかなか流れず、そのまま寝袋に潜っているとふたたび眠ってしまった。寒すぎて、まったく動く気がしない。
後で知ったことだが、この日は関西でも全域で朝方激しく冷え込んで、真冬並の気温だったという。おそらくぼくの野営した笠置山のあたりは0℃前後だったろう。まあ、あの時は知らなくて良かったかもしれない。
仕方なくテントから這い出した頃には、結局もう9:00を回っていた。太陽光でテントを乾かすことも諦めざるを得ず、ノロノロとタオルでテントを拭き始める。だいぶ明るくなったけれど、まだ霧が晴れきらない。それでも体を動かしている内に少しずつ寒さも和らいで、徐々に元気は回復してきた。
気になる足の具合だが、こっちは芳しくない。靴擦れで痛かった右足首は、靴を履くと同じ箇所に激しい痛みが走る。筋肉痛で膝裏のあたりの筋が張って、ガクンガクンとロボットみたいな足取りなってしまう。辛うじてましになったのは肩の痛みくらいだった。
それでも10:00前、パッキングも終了していざ出発という頃にはようやく頭上に青空が覗き始めた。半日以上眠ったおかげで気力だけはなんとか戻っている。いよいよ気分を刷新して、第2日目を歩き始めた。
国道163号線は、相変わらず深い渓谷に沿って進む一本道。木津川の川幅はかなり奥地まで広いまま続くが、両岸に急崖の山々が迫っているため、伊賀上野に抜けるまで大きな集落はほとんどない。
右手の川向こうには馴染みのある笠置山。河原から山の中腹まで一帯が桜の名所だが、本日3月31日時点ではまだぜんぜん蕾である。
脇を走るトラックが相変わらず身体すれすれを駆け抜ける。ずっとエスケープできない箇所が続くので、ときたま車の回転スペースなどを見つけてはその都度細かく休憩をとる。場所によっては荷物を下ろせない狭い道が続くからだ。
そのたび面倒でも必ず靴下を脱ぐ。靴を買ったアウトドア用品店で熱心な店員さんに教えて貰ったとおり、足のむくみを取ることと、靴底を抜いてまめに乾かすことだけは忠実に守っていた。足の痛みは根本的には治らないものの、足先の汗が乾いてすっきりすると、それだけでも随分疲れがとれたような気がした。
午後に入って、長い坂道がダラダラと続いていた。
時折陽射しが覗く時間も増えてきて、明るさと暖かさにいったんは元気が回復していたものの、空腹も手伝ってさっきから早くもエネルギーが切れてきている。後ろ手で支えた荷物も、まるで棺桶を背負っているかのようだ。
一応荷物の中に、非常用の食料として加工せずに食べられる栄養バランス食品を2〜3食分は持っている。しかしそれはあくまで非常用で、基本的に食事は町や道沿いのお店に入って摂る考えだった。訪れる土地土地の風物や名産を楽しみながら……、なんて淡い夢を抱いていたのが、今は文字通り夢のまた夢。早くもその「非常時」が訪れようとしてることに、ショックを隠しきれない。
主要な国道沿いには、ある程度の間隔で点々と飲食店がある。これは車に乗り慣れた自分にとっては経験的な法則だった。
少なくともコンビニくらいはある。昨今ではコンビニのない国道を見つけるは困難なくらいだ。
ところがそれはあくまで(都会に住み)車に乗っている人間の感覚であって、歩くスピードだとまるで景色が違うことに改めて気付かされた。あそこにハンバーガーショップがあるけど、今日はラーメンが食べたいからもう少し先まで走ろう、なんて「贅沢」は論外。命に関わるモンダイなのだ!
しかも尚悪いことに、この国道163号線は秘境に近い山間を貫通している。コンビニはおろか、自動販売機すら滅多にお目にかからない。水筒代わりにしているミニペットボトルが、とんでもなく貴重な水分源になっていた。
長い長い、果てしなく続くように思えた坂道の果てに、天の救いかマボロシか!まさしく峠の一軒茶屋、ドライブインが燦然と輝いているのが見えた。(実際は随分くたびれた感じの店構えだったけれど、このときばかりは御殿に見えたのだ。)ぼくは思わずコンクリートの崖をよじ登って、ショートカットで一目散に茶店へ突入した。
店内は八畳ほどの小さな定食屋で、タクシーの運転手らしきおじさん連中が爪楊枝でシーシーしているところだった。熱いお茶で心からホッとする。唐揚げ定食を注文して何気なくTVを眺めていると、番組が突然臨時ニュースに切り替わった。
「……ええ、ただ今入りましたニュースです。活発な火山活動を続けておりました北海道の有珠山ですが、先ほど午後1時10分、噴火したとの発表がありました。現在有珠山は黒い噴煙を上げて……」
時計を見ると13:14。たった今の出来事だ。お店のおばちゃんたちもシーシーしていたおじさんも、みんな口を開けたままTVに眺め入っている。
しかし5分ほどすると、もう同じ文面を繰り返すだけのニュースに飽きたらしい。
「なんや、同じ事しか言わへんな。他のチャンネルなんかやってないの?」
ぼくはぼくで、もう視線は窓の外だった。目下のモンダイはこの空模様だ。午前中は晴れ間も覗いていた空が、今またふたたび急速に黒雲に覆われつつあった。
店を出る前に、遂に雨が降り出した。
それを見て、もう一杯お茶を注いで貰う。落胆したものの、もうなんだか開き直ってきた。次から次へと、ホントに……
ノロノロと雨よけのザックカバーを出して被せる。で、折り畳み傘を……
!
最悪だ、落とした。ザックの外側の紐にぶら下げていた傘が、ない。
畜生、ホントにもう!しっかりしろ!!
急速に頭を回転させた。とにかくここから動かないことには。次へ、行かないことには。
所持品の中で雨よけになりそうなもの、身体を覆えそうなもの、……よし。フライだ。
立て続けの苦境に対して、思わず体の中の何かがスパークした。弱気になっていた自分を立て直すために、急激な反動が必要だったのかも知れない。
店先で黄色いテントのフライシートを頭から被っていると、驚いた店のおばちゃんが出てきた。
「なんや、傘もってないんか?手伝うたろか?」
手の届かないザックの後ろまでフライを引っ張って伸ばしてくれる。ぼくは直径20cmくらいの通 気孔から辛うじて顔を覗かせて御礼を言った。
「……どうも、ありがとうございます。」
仮装大賞のような格好をした男が雨の中を去っていくのを、おばちゃんは目を丸くしたまましばらく見送っていた。
雨はさらさらと霧のように静かに降る。アスファルトが濡れて漆黒に染まった。
飯を喰ってまたすこし力を取り戻したぼくは、歩調を速めて再び国道を進む。身体が上気しているのはフライシートの中で蒸れているせいばかりじゃない。なんだか、追いつめられてキレた子供みたいに、体の中がカッと熱くなっていた。
「気合や、気合」
ブツブツと口の中で繰り返していたかもしれない。しばらく、疲れも忘れていた。
14:30、JR月ヶ瀬口駅に到着。
雨はいったん小康状態におさまったものの、駅のベンチに荷物を降ろした途端に再び強く降り出した。
ここまで歩いてきた経過から、ぼくの中ではある方針が固まってきていた。
今日はここから列車に乗る。今晩は雨が止みそうにないので、宿泊施設のありそうな伊賀上野までいったん出る。そこで早めにチェックインして、荷物を減らすべく再検討するのだ。
このままではとても東京まで持ちそうにない。足の方は靴が馴染んでくればまだなんとかなりそうだったが、岩のようなザックにはもうウンザリしていた。減らした荷物は宅急便で東京の友人宛に送ればいい。
列車に乗ること、荷物を減らすこと、当初の予定より妥協してしまうのは辛い。しかし本当にもうどれかを削らなければ、計画を貫徹すること自体が不可能に思えた。
自分が弱いだけのか、それとも計画に無理があったのか、何度も何度も繰り返し考えたが、やはりこの際最優先にすべきは「とにかく東京まで歩き通す」ことなのだ……。
30分後に来たのは2両編成のワンマン列車。2日間トボトボと歩いていたからか、鉄道というものはもの凄いスピードで走るもんだな、と妙に感心してしまう。
雨の中、列車は言い訳とサバサバした気持ちをのせて疾走していった。
さて、今ぼくは実家にいる。つまり……、帰ってきたのだ。
もう恥も外聞もない。月ヶ瀬口から列車で伊賀上野まで出たものの、うまい具合に手頃な宿が見つからず、その上駅前の観光案内所で「実家が奈良なら、(列車で)往復した方が安くつくよ」と言われて、そのまま素直に頷いてしまったのだ。
確かに宿は安くても素泊まり6500円〜、列車は往復でも3000円かからない計算だった。2日間でまだそれだけしか進んでいないということを、金額という明確な形で示されたショックで、ちょっと拍子抜けしたような気もする。
ただ正直に言えば、「家へ帰る」という考えが頭に浮かんだ瞬間、もう熱い風呂の誘惑に降参してしまったのだった。
おかげで日が暮れる頃には家について、望み通り熱い風呂に浸かっていた。
足もさんざんマッサージした上で、サロンパスを貼りまくって治療する。
荷物も送る手間が省けて、部屋で改めて再検討した上でパッキングし直した。減らした荷物はテント、携帯コンロ、一眼レフカメラなど。一応緊急ビバークに対応できるように、寝袋とマット、それにグランドシートだけは持つことにしたが、これで野営は基本的に行わない方針に固まった。全行程を宿泊で、となると当然予算が厳しくなるけれど、荷重を減らした分歩行距離を延ばして、できるだけ宿泊日数を減らそうと考えた。更に歩行距離を延ばすためには食事も短く済ませる必要があるので、調理も諦めることにした。
一眼レフを諦めるのは……、これが一番悩んだが、思い切ってコンパクトカメラ1台で行くことに決める。
もうギリギリまで絞り込むしかないんだ。実際に歩いてみてからの経験を踏まえ、考えられる限り必要な要素を絞り込んで、絞り込んだからにはとにかく絶対に貫徹するんだ、そう何度も心の中で叫んだ。
出発前まで、こんなに悔しい気持ちで眠る夜があるとはまったく思いもよらなかった。
|