04. まっすぐ道
道が二股に分かれていた。
以前にも車で来たことのある場所だったけれど、どうやら最近バイパス道が開通したらしい。敷き立ての黒々としたアスファルトが、地形に関係なく直線に伸びている。
ぼくは迷わず旧道の方を歩くことにした。その方がトラックの交通量が断然少ないだろうし、少しでも人里を通った方が食事面などでも安全に思えたからだ。それに多少距離が長くなっても、通過するためだけの道を歩くよりは面白いだろう……
昨日までの雨もすっかり上がって、朝から爽快に晴れ渡っていた。
早朝に実家を出発して、私鉄とJRを乗り継ぎ、ふたたび月ヶ瀬口駅に降り立ったのは10:00前。
荷物も4分の1ほど減らして可能な限り軽量化し、痛かった靴にも改善を加えてきた。買うときに教えてもらった通り、痛む箇所に不要のナイロン・ストッキングを巻き付けたのだ。こうすると、靴にぶつかる部分がうまく滑って衝撃を和らげてくれる。これはてきめんに効果があった。
足の故障はまだ完全には治りきらない感じだったが、風呂で揉んだのとサロンパスを貼りまくったのとで、とにかく元通り動かせるまでには回復した。
晴れた空とウグイスの鳴き声に、気分も高揚してくる。
一時はどうなることかと危ぶんだが、第3日目の朝はこうして無事、なんとか順調に再出発を切ったのだった。
バイパスを逸れて旧道をゆくと、やがて三重県の県境に位置する島ヶ原村の集落へ至る。
旧道といってもつい2、3年前までは、まだ国道163号の本線だったはずだ。しかし、もうずっと以前から往来が途絶えたような静けさだった。
ふと見やると、道路脇の敷地に広い屋根と作業機械が並ぶ工場らしき一帯がある。まわりをすっかり山に囲まれた辺鄙な場所で、最初は産業廃棄物の処分場か何かかなと思った。ところが近づいてみると、何やらマンホール大の白い円盤状のものが無数に積み上げてあり、フォークリフトが数台忙しそうに稼働している。しかし、結局正体はよく分からないままに通り過ぎた。
しばらく歩くと島ヶ原村の集落に入った。
JR島ヶ原駅が国道から少し入ったところにあったが、広々とした駅前ロータリーも乾ききったアスファルトを太陽に晒すばかりで、人影はまったく見あたらない。
休憩がてら、荷物を駅に降ろしてあたりを歩いてみる。古い構えの商店が数件軒を連ねているものの、どこも営業している様子はない。
ここらあたりも飯にありつくのは無理そうだな……。そう思って引き返そうとしたとき、一件の建物にふと目が止まった。
二階建てのその建物は正面こそ改装してあったが、側壁のモルタルが大きく崩れ落ちて下の板壁が剥き出しになっている。そして前庭には、背丈くらいある新しそうな石碑が建てられてあった。何気なく興味をそそられて読んでみると、
「二〇世紀初期より郷土鉱物高級耐火粘土の採掘し全国各地窯業界に販売して郷土発展に寄與し現在に至っております/昭和八年先代佃壮右エ門が郷土高級耐火粘土を研究して耐火煉瓦製造工場を建設して五拾余年間鉄鋼界、窯業界に販売してきたことを記念します/平成十一年十二月」
なるほど……、さっきの工場は耐火粘土の採掘場か煉瓦製造工場だったのだろう。
軒並み営業していなかった商店も、よく見るとかつては陶器販売店だったらしい。
そういえば、山奥の寒村にしては駅前の敷地の規模が大きいなと不思議だったが、かつて窯業で賑わった町だったと言われてみれば、そんな様子も忍ばれる。
いつ頃からこの地の窯業が斜陽化したのかは分からない。おそらくだいぶ前からもう過疎化が進んでいたと思われるが、バイパスが開通した今、もはや再び活況を呈することはないだろう。
そんな想像をするのは旅行者の勝手なセンチメンタリズムには違いない。しかし効率化の名の下に、ただ道を真っ直ぐに繋ぎ直しただけで、それに準じてどれだけ多くのものが変わってゆくのかということを、乾いた砂が舞う道路を見つめながら、しばらくボンヤリと考えていた。
この道は大和街道といい、奈良北縁から木津・笠置を経由して伊勢街道へ接続する古くからの幹線道路だった。
という知識を、実は歩いている最中に歩道標識や案内板から得た。地元に近く、何度も通ったことのある道だったけれど、恥ずかしいことにその名称を今までまったく知らなかったのだ。
旧街道筋には、それと分かる目印が其処此処にあるのにも気がついた。案内板や標識もそうだが、特によく目に付くのがお地蔵さん、または道祖神だろう。歩いていて改めて分かったのが、分岐点や道を間違えそうな辻などにきっちり目印として安置してあることだ。お地蔵さんを見つけると、「ああ、道を間違えてないんだな」とホッとする。そのにっこり微笑むお顔を見ると、一瞬疲れを忘れさせてもくれた。
大和街道はやがて伊賀上野に入り、日本三大仇討の決闘地として有名な「鍵屋の辻」で伊勢街道と分岐する。
ずっと辿ってきた国道163号線、および木津川ともここで別れ、支流の柘植川に沿う国道25号線に乗り替えた。
昼飯にラーメンを食べて、芭蕉の生家など町中にある史跡をぶらぶらと見渡しながら進む。歴史案内板を読むのは意外に面白かったが、名所巡りにはあまり時間を割く気になれなかった。
伊賀上野を抜ける頃にはもう午後3時過ぎで、早くもまた陽光が黄色味を帯び始めていた。
木津川の渓谷とは一転して、広大な田園の中を真っ直ぐに歩く。道の先がよく見えないほどの直線道路が、ひたすら延々と伸びていた。暑い陽光をずっと背中から浴び続けて、さっそく首の後ろが焼けてくる。のどが渇いてしょうがない。
きっちりと矩形に整備された田園と、方眼状に敷かれた幅広い道路。おそらく近代以降の農地改革事業による新田だろう。1時間以上も真っ直ぐに歩き続けて、ようやく先が見えたあたりでザックを下ろして靴下を脱いだ。思わず仰向けに寝転んで空を仰ぐ。
真っ直ぐの道は目的地までを直線で結んでいるから、最短距離で行けるはずなのだ。なのに、さっきまでと違って明らかにどっと疲れがくるのは何故だろう?
おそらく、目標点が見えないというのが問題なんじゃなかろうか。カーブや曲がり角の多い道なら、差し当たって目指すべきポイントが眼前にあり、それを追って行けば次々と景色も変化し続ける。しかし直線の場合、実際には進んでいても風景があまり変化しないので、錯覚的に疲労が増してしまうのだ。随分歩いたと思ったのに時計を見るとそれほど経っていない、というのも同じ理由からだろう。
「バイパスも農業道路も、人間サイズの道じゃないんだな……」
考えてみれば当たり前のようなことだけれど、自分の足で歩いて初めてそんなことを実感する。そういえば午後からずっと人と擦れ違わない。こんな道を歩いているのは自分だけだった。
ぼくはすこし先を急いでいた。
最初にも触れた通り、今日は夕方から岐阜で友人の結婚披露パーティーが催される日なのだ。
できれば当日に歩いて到達して驚かせたいとも思っていたが、それはもうとっくにあり得ない筋書だった。
それでもせめて列車に乗って、途中からでもお祝いには駆けつけたい。幸い国道25号線沿いにJRが併走しているので、このまま歩いていけばどこかで必ず駅に辿り着くはずだ。今日はそこまででいったん旅を中断して、明日また戻ってくればいいと考えていた。
ところが、この次の駅、というのがさっきから延々と現れないのだ。
最後に抜けてきた佐那具という集落は、旧街道の面影がよく残る、両側に町屋が並んだ風情のある道だった。 柘植川の土手には桜の並木が続き、もうすぐ花見の季節を迎えるための提灯が吊ってあったりして、人の住む気配が十分に満ちていた。
しかしそこを抜けた途端、また田園を貫く直線道路に変わってしまった。左手向こうに単線のレールが併走しているのは分かっていたが、ずっと先まで駅はおろか集落のある気配すらない。まだ田植えの準備をし始めたばかりの泥田が遠く山際まで見渡す限り広がっていて、道路はその中をただひたすらまっすぐに、遙か彼方へと続いていた。
背中に夕陽を浴びて、自分の影を見つめながら歩く。その背丈がどんどん長く、遠くなっていく。
心配なのは、やっと駅に辿り着いたところで、すぐに列車が来ないのではないかということだ。現に随分前に2両の列車が通り過ぎたっきり、ずっともう音沙汰がなかった。それになんとか列車に乗れたところで、一体ここから岐阜まで何時間かかるのか、全然見当がつかない。乗り継ぎも何度か必要だろう。
……すべては駅に着いてみなければ分からないのだ。そう考えると、尚更早く駅を見つけたかった。
例によって、まっすぐの道は疲労が激しい。
再出発してからここまで体力も回復して順調に歩いてこられたが、もう昨日までの歩行距離を越えて、さすがに脚が張り詰めてきた。休憩の度にふくらはぎや太股をマッサージしているものの、徐々に筋肉が硬直してきているのが分かる。地面を踏む足裏も鬱血して、ゴロリとした痺れのような感触を覚え始めた。
でもこれは錯覚なのだ。できるだけ、景色に惑わされないよう、何か別のことを考えるんだ……。
ぼくは歌を歌った。何気なく浮かんだ歌を大声で歌ったけれど、この際、まわりは誰も聞いちゃいないんだからいいんだ。トラックの騒音に負けないくらい、声を張り上げながら続けて何曲も歌い続けた。妙にハイテンションなのが自分でも可笑しい。
だが、このとき一時の疲労のピークを越えて、体力の予備タンクを消費しつつあったことに、後で気付いたときには既に手遅れだった。
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