06. 峠越え
国道から逸れて田園の道を行くと、ウグイスが盛んに鳴き出した。今日も陽射しが暖かい。
後ろからゆっくりと近づいてきた自転車のお爺ちゃんが、そのままぼくを追い越したかと思うと、徐々に離れてゆきながら話しかけてきた。
「……どっから来なった?」
「奈良からです」
「へぇ……、学生さん?」
「……そんなもんです……」
「どこや?」
「えっと……、大阪の関大(もうとっくに卒業したけど)」
「ほーか。」
ここで遂に声が届きにくくなったのか、お爺ちゃんは自転車を降りて一緒に歩き始めた。
「どこまで?」
「え……と、今日は、峠を越えて関(町)の方まで」
「そーか。じゃ、加太越えやな」
「ええ。いい天気ですね」
「ウチの孫も、今年大学行ったわ……。どこや、えー、立命と早稲田に落ちて、関大と明治に受かって、ほんで明治に行きよったわ」
「へぇ、じゃあ東京へ」
「東京の方が就職がエエってなぁ……(笑)」
「ああ、ナルホド……(小笑)。難しいですもんね……」
「なぁ……。ほな、頑張ってなぁ」
歩き始めて4日目、昨日岐阜で1日休養した日を入れると出発してから5日目。 朝、関町の町営関ロッジを出発して、列車で伊賀町の新堂まで戻ってきた。
ここから先はR25(旧道)に沿って、初めての峠越えとなる。街道は新堂から続く柘植の集落を抜けると、加太峠を抜けて関町へ降りるまで、まったくの山道だ。
一晩寝て、脚の痛みはやや緩和したものの、まだ完治というにはほど遠い。それでも1日休んで英気を養ったおかげで気持ちがまた前向きになっていたので、とりあえず朝からは気持ちよく歩き始められた。脚をかばうように歩くと、余計に他の箇所まで故障する恐れがあるので、痛みをこらえつつもできるだけ自然な姿勢で歩くよう心がける。怪我の心配はあるものの、それをしばし忘れていられるようなのどかな田園風景の中を、明るい陽射しに包まれてタンタンと進んでいった。
集落の終わりには天照大神の社が祀ってあり、そこから唐突に杉林の細路が続いていた。
……、サル!
朽ち果てた民家の中から、突然慌ただしく数匹の猿が飛び出してきた!
ぼくの接近に慌てたようだが、猿は地面を駈けるのではなく、電柱をよじ登ってご丁寧に1匹ずつ鈴なりになって、立ちポーズのままヨタヨタと電線を伝って逃げてゆく。口には食パンのようなものをくわえていた。
(どんな山道やねん……?)
これは不安だ……。
猿だけならまだしも、こんなに野性味溢れる山道なら、危険な珍獣に出くわさないとも限らない。中でも春先に多い蛇が頭をかすめて、思わずゾッとする。しかも脚の故障が更に不安を煽った。
頭の中では、ナイフは何処にしまったかな?とか、死んだフリは熊以外にも有効だっけかな?などと、にわか「傾向と対策」がグルグルと渦巻く。つい最近泉鏡花の『高野聖』を読んだのもいけなかった。昼でも杉木立の枝葉に頭上を覆い隠された薄暗い路は、子供時分に学校の裏山で感じたのと同じような、得体の知れぬ精霊の気配が満ち満ちた世界だった。
正午過ぎ、ようやく分水嶺を越えた。
峠には廃屋のような民家が数件あったが、人の気配はほとんどない。ただ鎖に繋がれた犬が盛んに吠え立てていた。
下り道は一転して深い崖の道。眼下には鈴鹿川の支流加太川の上流域が細々と流れ、ここも他の例に漏れず様々なゴミがそこかしこに投棄されている。谷底でプラスチックの断片が、不気味な白い反射光を放っていた。
と、突然、何の前触れもなしに左膝の裏に強烈な激痛が走った!
治まっていたかに思えた故障個所が、これまでにない痛みを伴って再発したのだ。思わず立ち止まってしまうほどに、脚の裏筋がギリギリと張り詰める。恐る恐る歩こうと試みるものの、足を踏み出すたびに地面からの衝撃が電気のように膝まで伝わって、顔が歪むほどに激しく痺れた。
(まずいな……!)
ここは場所が悪い。ただでさえ滅多に人も通りそうにない山道で、しかもグネグネと急崖を蛇行する砂利の悪路だ。アクシデントが起こるにしても、こんな最悪の条件が重なるなんて、本当についてない……。
とにかく一旦荷物をおろしてズボンを下ろしてみないと。外傷はないが、これだけ激しく痛むとなにか見た目にもひどい状態になっている気がする。
なんとか痛みをこらえながら、匍匐前進のようなスピードで一歩一歩峠道を下ると、しばらく先に巨大な採石場のプラントが見えた。人の気配はあまりないものの、とにかく人がいることは確かだ。ぼくは僅かでも希望の持てる場所へと、必死の思いでまた一歩一歩近づいていった。
採石場のトラック出入り口付近に腰を下ろすと、すぐさまズボンを下ろして痛む箇所を見てみた。けれどもやはり外傷などはまったくなく、肌が変色したりした様子もなかった。患部を入念にマッサージしてみても、昨日までほどは効果がない。触っただけでも痛いのだ。もはや筋肉痛の域を越えてしまったのかな?
採石場からは時折ダイナマイトによる発破の重低音と衝撃が伝わってきた。しかしここは人はもちろん、トラックすら通らない。
(さて、どうする……?)
山奥でひとり、そして動くのも億劫な脚の故障。これ以上ない苦境……。
ただ不思議なことに、甘えるものが何もないの状況だと認識しながら、不安のようなものは頭からすっかり消えていた。もうハラを据えるしかないのだ。自分の力でこの峠道を脱出しなければ、どうしようもない。
まずザックからエアサロンパスを取り出して、患部に塗布した。最初はなんともないので効果が切れているのかと思っていたら、突然カッと熱い刺激が塗布部を覆う。患部を治癒しているというより、その刺激で痛みを忘れさせるような感じだった。
そして昼過ぎには麓の加太集落まで降りるつもりだったのが、時間的に大幅に遅れそうだということで、ここで非常食のビスケットを食べた。採石場の砂埃にまみれて決して心地よい食事ではないけれど、身体の生命線を維持しているというリアルな実感を伴って、黙々と食べ続けた。
歩速は半分の時速2km、もしくはそれより遅くなるかも知れない。このペースだと予定は大幅に狂ってしまうが、とにかく日没までに関町まで降りないことには。それ以外のことを考えるのは、すべてそれからだ。
なんとか山道を降り、民家が点在する山村を抜け、ふたたび蛇行する川沿いの道に差し掛かり、ようやく麓の加太駅に着いたのは14:30。わずか4kmの距離に2時間以上かかっていた。もちろんその間何度も休憩しては、脚をマッサージしたりエアサロンパスを塗布したりを繰り返してきた。
駅の待合室にどっかと腰を下ろして、躊躇なく靴も靴下も脱ぎ捨てる。そして昼食の続きでまたビスケット。どうやら今日は晩までこの非常食だけになりそうだった。
列車が来ないことを確認して、駅舎で我が物顔に寝そべって休んでいると、中学生と小学生らしい姉妹とその母親、そして祖母という感じの親子連れがやって来た。聞くともなしにその会話を聞いていると、どうやら母娘は最近祖母の住むこの田舎に越してきて、姉は少し離れた学校へこの春から通
うことになったらしい。
「8:13発しかないわ!だいぶ早く(学校に)着くんちゃう?」
「何ココ、無人駅?」
「ずっとシャッター降りとるよ。定期券は亀山駅行って買ったらエエねん。」
「乗り方がよう分からんわ……」
「お姉ちゃんな、(料金表の地図を指して)ここまで学校に通うんよ。」
「うわ、土曜は11:45で(授業が)終わりやから、1時間も待たなアカンやん!」
「自転車では無理か?」
「無理無理!一駅でも危ないで」
「どないするん……」
姉の悩みは深刻なようだったが、妹はお構いなしに一人で改札口の柵を鉄棒代わりにして遊んでいた。
道に沿って流れていた加太川の川幅が太くなり、やがてそれは鈴鹿川へと注ぎ込む。 そして、道の方も遂に国道1号線、すなわち東海道へと合流した。すでに17:00、横からの黄色い陽射しが山の木々をすり抜けて、地面に幾筋もの細長い影を投げていた。
東海道と大和街道の合流点にはちょうど関宿の西追分がある。東海道の京都方面は、この先に箱根に次ぐ難峠である鈴鹿越えが控えているが、これまでの大和街道とはうって変わって道幅も広く、交通量も多い。あんまり人気のない山道というのも不安だが、やはりトラックの排ガスと騒音に悩まされながら歩くのは嫌なものだ。
追分の石碑の下で荷物を降ろして休んでいると、ちょうど信号待ちをしていたハーレーダビッドソンから、中年の男性が声をかけてきた。
「大丈夫?」
「あ、いえ、大丈夫です。はい」
よほどうなだれていたのだろうか? ぼくはちょっと恥ずかしくなって、わざと元気良く手を振って見せると、彼も笑顔で応えてそのまま行ってしまった。ただそんな優しい一言に、急にまたホントの元気が湧いてきたのも事実だ。ぼくは気分も軽やかになって、また荷物を背負って立ち上がった。
関町では町を上げて宿場の家並みを保存している。車のほとんど通らない街道筋には格子戸の旅籠屋が軒を連ね、往時の看板などを掛けて、老舗の伝統を守り続けている店屋も多い。旅人は思わずタイムスリップしたかのような情趣を味わうことができるのだ。
ふと、一軒の和菓子屋に目が止まった。軒先に「さくら餅」の張り紙!
思わず考える間もなく暖簾をくぐると、もう店を片づけ始めていたおばちゃんが驚いたように振り向いた。
「あの、さくら餅を戴きたいんですが……」
「あー、悪いけど」
さくら餅は売り切れてしまったという。でも折角なので、関宿銘菓という「白玉」と「あま笠餅」と抹茶を戴くことにする。白玉 は文字通りの白玉だんごで、中にこしあんをつるりと包んだ小振りな饅頭。あま笠餅は同じくこしあんを貝のようにくるんだヨモギ色の餅だった。
赤い布敷きの縁台に腰掛けて、抹茶をたてるほのかな香りを鼻先で味わいながら待つ。店にはまだストーブが点けてあった。
調子に乗っておばちゃんに話しかける。この店は300年続く老舗で、梁は建築当初からの現役だと自慢気なおばちゃん。息子が最近脱サラして四代目を次ぐのだと、嬉しそうにだんだん調子づいてきて、話が途切れなくあふれ出してきた。
「NHKにも出たのよ。『ひるどき日本列島』と、それから息子が脱サラした機会に、計2回。最近は職人さんの跡継ぎが難しくてね……、そこの鍛冶屋さんも中町の桶屋やんも、息子さんはいるけど、なかなか……。もうご主人は2人とも70代だからねぇ。この前鍛冶屋さんのご主人が入院したときは、鍛冶の音がぱったり止んでしもて。寂しいもんよ。いつもこれくらいの時間やと、カンキンコンキン、って。そうやねぇ、やっぱり風情があるわね。折角街並みが残ってるんやから。例年やともう桜も咲いて、人も多いけど。(4月)10日くらいじゃ遅いくらい。けど今年は2月が寒かったからねぇ。ここらへんで残ってる旅館?そう、中町の大戸屋さんだけ。それも、看板出したりしてないの。人も雇ってないし。あんまり大勢お世話でけへんからね。昔は隣の八百屋さんも旅籠やったけど、今はもうやってはらへん。あとはやっぱり、そう、あの(山の)上のロッジね。なんせ町営やから安いわ。お風呂だけでも200円やったかな?ウチの息子もそこで結婚式したのよ。町の方の式場やと全然食事なんかも少ないけど、あそこは田舎やし、たっぷりよ。もう若い娘さんなんか困ってしまはるけど、ウチらは両手に下げて、こう(折り詰めにして)ね、(笑)。そう、学生さんなんかは今ちょうど春休みやからね、歩いたはったりもたまに居はるね。今はでも向こうの1号線が出来てからはね、そう、残念やわ。今日はさくら餅切らしちゃって。ええ、最近は日も長くなって、一応18:00仕舞いなんですけど、いや、そんなん構いませんねで。ゆっくり休んでくらはったら。あら、そんな、写真なんか。まあ、あら、どーも……、ありがとうございました(笑)。東京まで、しっかり目的達成して下さい。あ、今日は岐阜ですか、ねえ、そしたら頑張って。どうもありがとうございましたー」
店を出ると、もう日が落ちたらしく、あたりは薄紫色の風景に変わっていた。さっきまで強い陽射しがチリチリと肌を焼いていたのに、今度は急速に風が冷たくなってきている。
駅に着いて時刻表を見ると、次の上りは1時間後までないことが分かったが、全然苛立つこともなかった。だいぶ田舎時間に慣れてきているせいかもしれない。
また脚を入念に揉みくだしながら、長かった今日一日を振り返ってみる。人と会って喋っていると、その間は不思議と疲れを感じないでいられた。それが次々と繋がると旅の高揚感が増してきて、悲愴な考えを忘れさせてくれもした。だんだん旅が面白くなってきた気もする。
ただ、脚の故障はいよいよヤバイ状態だ。どうすれば根本的に治すことができるものか、ぼくは必死にそのことばかり考えていた。
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