09. 桜

 

「何撮ってんの?」
「ん?この蔵。……こんなん珍しないかな?」
「珍しいよ。どこが入口か分からへんなぁ」
「たぶん裏やな。家の中から繋がっとんねん。君らもう春休みちゃうんか?新学期?」
「そう、新学期」
「ほーか……。じゃあな」
「バイバイ」

仲良く手を繋いで通学する男の子と女の子。新一年生かな。
黒板張りの民家がひっそりと身を寄せ合う集落の道を抜けると、竹林の脇を下る急坂に差し掛かった。途中に「杖突坂」と書いた石柱があり、その側に小さな句碑を祀った社。貞享4(1687)年12月、『笈の小文』の道中で伊賀へ帰郷する途次、この坂を登った松尾芭蕉の句碑だ。

   徒歩ならば杖突坂を落馬かな

歩いて登れば杖を突いて登る峠道を、なまじ馬に乗り骨惜しみをして落馬しちゃったヨ、との由。あまりの痛さでつい季語も入らず、芭蕉としては珍しい駄作の一つとされているらしい。だけどなんだか、平凡な失態に思わずペロリと舌を出したような、芭蕉の気取らない一面 も悪くない。
坂の途中から前方を見やると、市街地の中にところどころ煙突やプラントが頭を出した工業地帯が展望できた。
風も幾分熱気と湿気を帯びている。いよいよ、四日市だ。

 

昨日の雨もすっかり上がって、朝から快晴で気温もどんどん上昇している。
しかも、一日完全休養したおかげで、遂になんとか脚の痛みが引いてきた。まだサポーターははめているものの、苦痛なほどの違和感はもうない。 故障が治ると気持ちもグッと前向きになってきて、これまでがウソのように快調に歩くことができた。
加佐登を出発して朝のうちに石薬師宿を抜け、杖突坂を下って内部の市街に入り、追分の駅前でちょうど昼になった。駅前の弁当屋で鮭弁当とお茶を買って、小さな駅のベンチに座って食べる。しばらくは国道1号線を離れ、この近鉄電車のローカル支線沿いを北東へ進むルートだ。入り組んだ平屋の多い市街地を、普通の鉄道よりひとまわり小さいトロッコのような列車が、狭い家並みを縫ってのどかに走る。いつの時代からか時計が止まっているような、人いきれの去ったノスタルジックな街だった。

午後、赤堀という駅に着き、ベンチで休憩しようとホームへ入る。無人駅なので、特に気兼ねは要らない。
すると、駅の向こうに和菓子屋の看板が上がっているのが目に入った。

(……さくら餅!)

ちょうど旬の季節だし、道中でいろんな土地のさくら餅を食べ比べてみたいと思っていたところだ。ぼくは荷物を置いたまま、迷わずひとっ走り踏切を渡って買いに行った。
戻ってみると、ベンチに人影がある。「考える人」みたいに深く前屈みになった姿勢で何かを思い詰めている……のかと思ったら、単に靴下を脱いで足先をボリボリ掻いているだけだった。
遠目にそっと写真を撮ってから近づくと、オッサンは前から気付いていたらしく、愛嬌のある笑顔で会釈してくれた。格好からしてどうやらここの鉄道員のようだ。最初ポツポツと挨拶を交わしたが、彼は勢いだんだん口が回り始めた。

「……ついこの間、四月一日からこの駅も無人駅になりましてなぁ……。今は土地税制も変わったし、電柱もコンクリートになったし、人も減った。職員もな、駅員が20人、車掌が8人減ったんや。この線で有人駅なのはもう、四日市と追分と内部だけ。……昭和30年ごろは凄かったで。車両も5両編成でな。今はこの駅で(一月の利用者が)1,800人、四日市や追分、内部でだいたい5,000、3,000やけど、採算ラインが2,000やから、まあ全体でなんとか(採算)取れてるゆーことやな。……ん?桜?そう、海蔵の桜は綺麗やぞぉ。このへんはだいぶ切ってしもたからな、電線の邪魔んなる言うて。西日野の方なんか凄かったんや……。この線な、狭いやろ、幅が。ここの列車は昔の運転台が今真ん中の車両で、今の運転台は昔大阪-奈良間を走ってたヤツや。しかも機関車の台車はU.S.A.やで。外の部分は全部作り替えてな。……昔事故があったんや。知らんか?知らんわな。列車がひっくり返って、人が死んで。その補償でえらい資金難に……、あ、列車来たわ。ワシも仕事せな。な、兄ちゃん見てみ、運転台に「奈良」って書いてるやろ?ほなな!」

オッサンは2人の下車客から切符を受け取ると、そのまま車掌として列車に乗って行ってしまった。
無人駅はまた無人駅らしくポツンと取り残される。ぼくは列車の過ぎ去った方を眺めながら、食べ損なっていたさくら餅を一息に食べ終えた。

 

14:00過ぎに四日市を通過すると、街並みが徐々にまた変わってきた。ところどころに煙突や窯があり、大小の陶器片が一面に散らばっている。どうやら窯業の町らしい。大きな工場は奥の方で操業している気配があるものの、通りや筋には人の気配がない。細く入り組んだ道が、街を縫ってひっそりとどこまでも続いていた。

やがて、幾筋もの川が東の伊勢湾に向かって流れる地形となる。道はそれを北へと縦断しており、旧道づたいには時折橋が流されたまま修復されていない箇所もあって、土手沿いにぐるりと迂回したりしながら進んだ。
午後に入ってからも脚は快調だ。この分なら今日は桑名まで一気に行けるかも知れない。
調子が上向くとともに、今まで足元を見て歩きがちだったのが、だんだん前を見て景色を楽しむ余裕も出てくる。
ある土手に差し掛かると、ちょうど桜並木が一分咲きにほころんでいた。ああ、これがさっき駅員さんの言ってた海蔵川だ。長い堤防沿いに延々と桜の木が繋がり、使い古した提灯が鈴なりに吊られている。その下にはもう夜店も開店準備を始めていた。
時間はまだ15:00なのに、待ちきれない人々がところどころに青シートを敷いて、早々と陽気な宴を始めている。陽射しに誘われた鳥たちも賑やかだ。
どの方角を向いても煙突が頭を覗かせるこの独特の街でも、ニッポン全国共通のお祭である「花見」は相変わらずだった。風景も、人の顔も、どこかフワフワと浮ついている。低地はもうすっかり春だ。
ただ通り過ぎてしまうのは勿体ないなぁ……。 ぼくは西陽の落ちる方角を気にしながら、できるだけゆっくりと足を運んだ。

 

富田を過ぎ、朝日を抜ける頃にはかなり日が沈んできた。あたりが薄暗くなってくると、途端に風が冷たくなる。春といっても、日没後はまだまだ寒い。
東芝工場のある朝日駅前で踏切が開くのを待っていると、道路脇の一本だけ孤立した松の木にふと目がいった。石垣で囲んだ根本に案内板が立ててある。近寄って読んでみると、旧東海道の街路樹に関する説明が書いてあった。

東海道はかつてその両脇を松の木で覆われていた。つまり街路樹である。
そういえば、広重の絵に出てくる東海道の宿場は、どこもたいてい松並木だ。おそらく国内最大の主要幹線における、街道のシンボル的役割を果 たしていたのではなかろうか。誰が見ても東海道と分かる、その目印が松並木だった。
だとすれば……、また癖で勝手な想像が広がる。あくまで推測の域だが、例えば狂言の舞台などでいつも背景に描かれている松の木は、江戸時代の庶民にとってのいわゆる「スタンダード」な樹木だったのではないか?
狂言などが庶民レベルで広く普及して発展したのも元禄時代、すなわち江戸時代中期である。江戸初期には軍事・商業目的で整備され始めた五街道も、このころには華やかなりし町民文化の一端としてお伊勢参りの旅人などが大いに往来を賑わせていた。風呂屋のタイル壁に富士山が描かれているように、最も親しみやすい舞台背景として、路傍の松が選ばれたとしても不思議ではない…… (※項末に追記)

しかしそれはまた意外でもある。今東海道を歩いていても、松並木などほとんど見ないからだ。
むしろ、現在歴史街道として保存・整備されている箇所には、ほぼ例外なく桜並木が植わっている。宿場の追分でも、二股の辻でも、川沿いの畷でもそうだ。実感としては、街道といえばむしろ桜なのである。
案内板によると、東海道から松が消えた原因には諸説があるものの、もっとも有力とされるのは2説。即ち、松食い虫の被害が一時広範に渡って席巻したため、そして戦時中に燃料として「松根油」を大量 に採取したため、とされている。
松根油は松の樹液から採る油である。植物に詳しくないので松食い虫説はイメージしにくいが、戦時中の資源不足に困って身近な松並木を根こそぎ伐り尽くした様子はなんとなく想像がつく。極限の状況であったとはいえ、人間が自分の都合だけで風景を一変させる所業は、今も昔も変わらないのかも知れない。

そして桜が松に代わって街の至る所に植樹され始めたのは、実は戦後のことである。戦後復興の気運や経済成長も手伝って、全国で一斉に植えられるようになった風潮もあったらしい。そう言われてみれば、昔学校の通 学路などで親しんだ桜の木も、森林の木々に比べるとまだ若い木が多かったような気がする。「ニッポン=桜」というイメージも、古来ニッポンの普遍的なものというよりは、意外に新しい流行なのかもしれない。
その桜も、今軒並み老衰して枯れてゆくところが全国的に多いという。樹齢40〜50年生が集中して多いということもあるが、大気汚染やさまざまな環境悪化の影響も無関係ではないだろう。
もしかして、やがて桜の木が次々と朽ち倒れてしまったら、ニッポン人はまた違う木を植えるのだろうか? いやひょっとすると、肥料をやらなくても絶対に枯れない「バイオ街路樹」なんてハイテクな新種が誕生して、全土を瞬く間に覆ってしまうなんてことになるかもしれない。絶対ない、とは言い切れない……。

 

なんにしても、今日はあまりにも花見の予行演習を見せつけられ過ぎた。もう我慢できんっ!
すっかり日も暮れたころ、予想以上のペースで桑名まで到達したぼくは、ついつい寿司屋の暖簾をくぐってビールを頼んでしまった。脚も快復したようだし、ささやかなお祝いだ。 許される、許される。
珍しい女性の職人さんが握ってくれる寿司も上々である。万事、上向きだ。
テレビでは今日も中日戦の中継をしていた。どうやら戦況はドラゴンズ圧勝のようで、常連客の威勢も一段と賑やかだった。

 

※追記;

後に、能舞台の鏡板(背景)に描かれる松は奈良の春日大社にある「影向(ようごう)の松」がルーツであるとする考えを知りました。能や狂言の起源となる猿楽が、日本で初めてその場所で奉納されたとすることにちなむようです。
ただ当時はそのような知識もなく、また実際に道中の風景から空想した内容でもあるので、見当違いだとしてもそのままの記述にとどめておくことにしました。 何卒ご了承ください。

 

back←  list  →next