12. 曇りときどき雨
8:30、名古屋駅桜通口を出ると、既に雨がパラついていた。
予報通りどんよりと曇った不安定な空模様だ。 横風も強く、出勤前のOLがしきりに乱れ髪を気にしながら足早に過ぎていく。降り出すのは夕方からと言っていたけれど、だいぶ早まるかもしれない。
市バス乗り場は2階ターミナルにあり、しばらく迷ってウロウロと歩き回った。しかもやっと着いてみると、今度はどのバスに乗ったらいいのかてんで分からない。まあ栄ならたいていどのバスでも通
るのだろう、とタカをくくって適当に近くのバスに乗ろうとしてから、一応運転手に聞いてみた。
「このバスは栄を通りますよね?」
「いや、栄ならあっちだよ」
運転手の指さした方を見ると、なんとターミナルをぐるっと回った正反対の乗り場である。しかも、そこには今まさに目的のバスが入線しようとしていた。
慌ててターミナルを全力疾走で駆け抜ける。丸2日近く歩くのを休んだせいか、脚が重くて思うように上がらない。途中何度か人にぶつかりそうになりながら、なんとか辛うじてドアが閉まる前に滑り込んだ。
ハァハァハァハァ…………。 切れる息を整えつつ席に着くと、すぐにバスはエンジンを震わせて始動に入る。と、突然一人の老翁がぼくのように慌てて駆け込んできて、身体を挟み込むようにドアを止めた。
「……新富町って、どこですか……?」
「案内所で聞いて」
運転手は冷たく言い放つと、強引にドアを閉めてそのまま気にも留めずバスを発車させた。老翁の呆気にとられたような顔が一瞬窓越しに見えたが、それはほんの一瞬で消え去っていった。運転手はフロントガラスの水滴を神経質にバイパーで落としながら、無機的な動作でハンドルを大きく右へ切った。
空が曇っているせいだけではなく、一昨日栄を歩いたときとは風景も一転している。そうか、今日は月曜だ。
列をなすサラリーマンは、みなボンヤリと寝ぼけた眼差しで俯きがちに歩いてゆく。一方、休日はひっそりとその存在感をひそめていたオフィスビルが、次々と息を吹き返したように生気を帯びて見えた。いつ片づけられたのか、道にはゴミ屑も見あたらない。
テレビ塔を過ぎ、交通量の多い国道19号線に出て、そこから北東方向を目指す。繁華街から500mほど離れてしまうと、もうここらあたりは人通りもかなり疎らだ。
寒くはないけれど、街路樹が大きく傾ぐほど風が強く、時折リュリュリュゥゥゥゥゥゥ……と、渦を巻くようなくぐもった共鳴が響きわたる。すこし雨粒が混じっているものの、傘をさしたら途端にもぎ取られそうだ。
不意に、足元を白いビニール袋が猛スピードで飛び跳ねていった。
( できるだけ下を向かずに歩こう。)
何故か、曇天の下では気持ちが強くなる気がする。
晴れて青空が広がった日ももちろん好きだが、そんな日和ではともすれば意識が散漫になりがちだ。青空に「気持ちいいなぁ」と心が開放的になれば、ウキウキして路傍の些細な風景にもいちいち気をそそられてしまうし、逆に「なんだか切ない空だな……」とくると、鬱々と煩悶の迷路に陥ってしまう。青空の日は、心を踊らされたり、果てしなく空虚な深淵に引き込まれたり、いろいろだ。
その点曇りの日はそのどちらもない。惑わされないというか、ただ自分の肉体そのものを当たり前に感じることができる。筋肉の疲労、脚の具合、股関節の硬さ、背中の熱さ、肌の乾き、規則的な息づかい……。歩き続ける、オレの肉体。
ただし、もしかするとそれは天気には関係なくて、歩き旅もほぼ2週間を経過して気分のムラがなくなってきただけなのかも知れない。いつもは疲れてくると、無意識のうちに今関係のない当惑までをモヤモヤと思い浮かべていた。そういう余計なものが今日は一切ない。不思議とただひたすら歩くことだけに集中していた。
大曽根の駅を越えると、もう名古屋の市域を抜けて視界の広い郊外に変わってくる。代わり映えのしない煤けた低い建物が、延々と続く風景だ。
川の近くではあたりに遮るものがなくなって、東の遠方にこんもりとした白い巨大建造物の頭が見えた。きっとあれが名古屋ドームに違いない。眼下の河川敷にはネットのないゴルフ練習場があり、数人の中年男性が黙々とドームの方角に向けてスウィングを繰り返していた。
ふと、頭上を離陸したばかりのジャンボがせり上がってゆく。たぶんあっちは小牧空港……
雨は時折降ったりやんだりを繰り返しているが、いちいち傘をさすのも面倒だ。小雨が上着の表面を濡らしても、すぐに強い風が乾かしてくれる。ペースも安定して、さらに黙々と歩き続けた。
最初の頃は1時間、2時間という単位がとても長く感じて、「これだけ歩いたのにまだ30分しか経ってないの?」と苛立つことがあったけれど、今はそれもない。歩くスピード感がようやく分かってきたということだろうか。だいたい予測通りの時間に目的地まで着くことができるようになってくると、更に無心なって歩くことができた。
10:30、国道沿いに牛丼の吉野屋。ちょうどハラも減ったので早めの昼食だ。
早めといってもかなりまだ早いけれど、食べられるときに食べておかないといつまたお店が見つかるとも分からない。そういう認識も身体に染みついてきた。
「並。」
いつもどおりの注文をして席に着く。店員は中年の女性が一人だけで、客はぼくの他に1組のカップルがいるだけだった。2人とも茶髪にジャージ姿で、ぼくより少し若い。
「牛丼にごぼうサラダのドレッシングかけると美味いねん」
「ウソや。気色悪い」
牛丼はあっという間に出てきて、あっという間に食べ終わってしまう。ぼくはちびちびとお茶を飲みながら、地図を開いたりしてしばらく落ち着いていた。再び歩き始めれば、外は路面が濡れているので座って休むことができないのだ。店員さんはその間も、一人で黙々と紅生姜の減り具合を調べたりテーブルを吹いたりして、マニュアルに沿った業務を忠実にこなしていた。
細い水路に沿った遊歩道、中学校のグランドの隅、神社の境内の角……。
通過する風景の中に、点々と桜の木がある。しっとりと雫に濡れた桜は、黒い市街地の中で白く浮かび上がって、どこか幽玄な佇まいだ。しかし今日のこの雨風でかなり花を散らしてしまうかも知れない。
黄色い長靴を履いた小学生、犬を連れた主婦、バスを待っている老婆……。人の姿もだんだん少なくなってきた。
雨で座って休める回数が少ないので、その分一息に歩き続ける時間も長くなる。そうすると足の先に血が溜まるのか、むくんだような鈍い痛みを感じ始める。靴を脱ぎ脚を高くして寝転べば簡単にすっきりするのだけれど、国道沿いには運悪く適当な軒下などもなかった。かといって、高架下などは排ガスの煤で真っ黒に汚れていて、ここでは休む気にもなれない。結局、3時間近く休憩なしで歩き続けた。
13:30、ようやく春日井市のはずれでファミリーレストランを見つけた。
本当ならもっと普通の喫茶店が良かったが、ほかに店も見あたらないので仕方がない。とはいえ、お昼時のファミレスは外の閑散がウソのようにギッシリと客が入っている。ただコーヒーを飲んで休憩したかっただけのぼくとしては、なんとも気後れしてしまう雰囲気だった。
ファミレスには4人卓しかないので、ひとりで座っていると妙に目立つのも辛い。ぼくはできるだけ隅の席に荷物を置き、そそくさとセルフサービスのコーヒーを汲んできてやっと一息ついた。
それにしても客層は必ず女子高生の集団か、でなければ小さな子供を連れた主婦たちだ。そのどちらかといってまず間違いない。高校生は3つくらいのテーブルを跨いで大声で喋りあっていて、さながらホームルームのような騒がしさである。ひょっとして、まるまる1クラス全員が来ているんじゃないか?
一方、主婦たちはそんな騒音にはまったく気も逸らさず、子供の甘え声も聞き流し、ひたすら母親同士の会話に熱中していた。
「……でしょ、サイトウさんのお宅の子も、結局塾に戻したんだって」
「そうなの。あそこって英語と数学?」
「なんかよく分かんないけど。ホラ、タカギさんの従兄弟か何か、医大生だって?」
「へぇ。あそこはお姉さんも頭いいらしくて、結局アレなのよねぇ」
「……ね、お母さん、お母さん、あのお兄ちゃん、ホラ、机の下で靴脱いでるヨ」
「そうねぇ……。え、何?コレ、めぐみチャン指ささないの!」
せめて聞こえないように叱ってくれよ……。
なんとなくいたたまれない気分で早々に席を立った。あんまり休んだ気がしない。でも、足先の鬱血はなんとか解消している。不意に、外の強風に吹きさらされている方が呼吸がしやすいな、などと思った。
14:30高蔵寺駅着。
どうにか天気はまだ持っている。この分だとまだ1時間くらいは降らないかも知れない。
すこし迷ったが、結局今日はここで終了することにした。もう一駅先の定光寺までは完全な山道に入るし、急行が停まるこの駅からの方が、明日のスタートが切りやすいからだ。
ぼくはプラットホームのベンチに座って、明日からの行程を改めて地図で調べてみた。今日で完全に名古屋の市街域を抜けきって、いよいよ明日からは木曽路へと至る山間ルートに入る。おそらく次は諏訪あたりまで大きな都市はないだろう。ある意味で、旅らしい旅がここから改めて仕切直しになる気がした。
「……また履歴書出さなくちゃ。ああ、アタシ何枚出したのか分かんなくなっちゃってるヨ」
「ねぇ。名古屋だと通えるけどさ、それ以上向こうだと遠いよね……」
「靴、痛くって。慣れないなー」
「……明日からよ。ね、また明日から」
隣のベンチで話しているのは、黒っぽいスーツ姿の女子大生だった。硬そうな革靴を脱いで、両足をブラブラと揺らしている。横顔に小さな笑みもこぼれているけれど、きっと就職活動で今日も足が棒になったのだろう。その鬱血した足先の痛さ、分かる。分かるよ。……でも、意味が違うのかナァ。
(明日から、明日から……か。)
やがて列車がホームに到着するとのアナウンスが入る。ちょうどその時、まだ明るい灰色の空から、大粒の雨が降り出した。
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