16. 是より北木曽路

 


(ハァ、ハァ、ハァ……)

ずっと、暗い石畳の道が続いている。
足を止めて荷物を降ろすと、忘れていた静寂が瞬時にあたりを支配した。空が見えないと、やはり不気味だ。
登り詰めで脚は重く疲れているけれど、こうしてじっと休んでいるより、自分の息づかいを聞きながら歩いている方がまだ気休めになる。鳥も虫も、風の音さえも深い森に吸い込まれてしまったかのように静かだ。
ぼくは水を少し飲んで一息つくと、靴も脱がずにまた歩き始めた。休憩するなら、やっぱりもっと開けたところがいい。だけど、一体いつまで登るのかな?
硬い石がゴロゴロと敷いてある旧道は、古趣こそあれ不規則な凹凸が歩きにくかった。

 

今朝中津川の宿場を抜けてから、突然急峻な山道に入って、もう2時間ずっと登ったり降りたりを繰り返している。それも半端でなく急な坂道だ。
中山道でも特に難所であったこの馬籠峠の道は、実は軍事目的でわざとこんな起伏の激しいルートに開かれたという説もある。西国方面 の大名が江戸に上る際、大砲や兵器を大量に持ち込めないようにという配慮だ。実際に歩いてみれば、大砲や大八車だけでなく、軍馬や旅人の往来でさえ相当に困難であることが伺い知れる。しかも昭和初期以降、鉄道や国道はこぞってこの馬籠峠を避けるように木曽川に沿った迂回路に開通 したため、旧道は現在生活者が通る道ではない。ここと東海道の箱根に残るだけという往時の石畳道も、あくまで歴史資料として保存されているもので、現代の道路に比べれば歩くのに適しているとは思えない。元々石畳は雨で道筋の土砂が流出しやすい箇所に整備されていたが、そもそもそういう場所は幹線道路として向かない地形なのだ。
杉林の影で太陽の直射にはさらされないものの、歩くと噴き出すように汗をかく。Tシャツだけで十分だ。ただし止まるとたちまち山の冷気が肌を冷やす。旧道らしい道祖神や山寺のあるところでは時折見事な枝垂れ桜に迎えられたが、山道に入ってからついに誰一人として擦れ違うことはなかった。

ようやく林が切れて明るい山腹に出たとき、振り返ってみて驚いた。遙か眼下には、緩やかに切れ込んだ木曽川の谷筋が見下ろせる。その向こうにも、脈々と連なる山地がどこまでも続く。いつの間にかすっかり木曽山脈の懐に入り込んでいたのだ。
小さな東屋の傍らに、丸い石の碑文あった。「是より北木曽路」。中山道のど真ん中、山深い木曽の国の入口だ。ぼくは静かな感慨を覚えながら、なおもトツトツと坂道を歩き続けた。

やがて道端に田畑が現れ、民家も点々と見え始めた。古い茅葺き屋根の民家もある。
軒先には「木村屋」とか「太田屋」などと屋号の書かれた看板が下がっていて、どうやら農家が民宿もかねて旅客を受け入れているらしい。ただ、今はまだシーズンオフなのか、庭先には農作業の道具や干し草を積み重ねてあって、観光客が訪れている気配はない。こんな歩いてしか来られないような山里で民宿をやっていても、あくまで臨時副業として大した収入にはならないだろうな……。と軒先を冷やかしていると、唐突にたくさんの人の気配が感じられた。前方を見ると、坂道に沿って延々と瓦屋根の旅籠屋が一筋に連なっているのが見える。その手前には県道から来た観光バスも何台か停まっているようだ。
11:30、どうやらやっと馬籠宿に到着したらしいが、その趣は予想とはかなり違っていた。

 


(喰った、喰った……)

山菜ソバと五平餅を平らげて、爪楊枝で一息つく。
「丸治屋」には、ぼくの他には客は一人もいなかった。
急須にお茶がたっぷり入っているので、遠慮なくそれを注ぎながらくつろぐ。確かに他の大きな構えの店に比べれば一見見劣りする平凡な茶店だが、味も値段も申し分ない。なんでみんな、わざわざあんなに並んで待つのかな?
入口あたりに小さなラジカセが置いてあって、地方FM局の番組が流れている。アレ?この昼時の番組は聞き覚えがあるな。そうか、全国ネットの番組だ。こういうふうにラジオで時間帯を知る感覚は、以前は日常的だったが旅に出てからはすっかり忘れていた。有名な男性ミュージシャンがゲストに招かれ、意気込んで新曲をオン・エアしている。しかしこの場所ではさすがに、チャカチャカとただの雑音にしか聞こえなかった。

たっぷり1時間あまり休憩してから店を出ると、雲行きが怪しくなってきている。まだ空は明るいが、薄雲が白く広がって、地表の影が淡く消えかかっていた。

(どうしようかな……?)

白壁の建物を前にして、すこし迷った。
馬籠宿はこれまで通った宿場町の中でも格段に観光化されており、街道沿いの店や家屋も旅情タップリに復元・保存されている。そのため観光客も多く、ブラブラと軒を冷やかしながら歩くだけでも楽しいのだが、荷物が増えるから土産物を買うわけにもいかない自分としては、それほど多くの時間を費やす気にもなれない。
だが、ひとつだけどうしても気になる場所があった。それが今目の前にある島崎藤村記念館だ。『破壊』くらいしか読んだことはなかったが、以来興味を持っていた。その生家が現在記念館として運営されている。
どうやら今夜から天気が下り坂になりそうなので先を急ぎたい気分もあったが、さりとてこんな山奥に再び訪れる機会はなかなかないだろう……。
考えた末、荷物を向かいの観光案内所の隅に置かせてもらい、思い切って500円のチケットを買った。

藤村の生家は馬籠宿の本陣を務めた名家である。ただし『夜明け前』で書かれているとおり、明治維新を境に旧家は没落し、藤村も作家として大成するまでには紆余曲折を経た。
彼はまだ二十歳そこそこのとき、明治女学校の教員という立場にありながら、生徒に恋慕して職を辞するはめに陥った。このとき藤村は失意を慰安するため、関西方面へ約10ヶ月に渡る放浪の旅をしている。その後も妻の死後に姪と関係を持ってフランスへ逃げるなど、良くも悪くも生々しい人間臭をはなっている。
ぼくは作家の経歴を読み進みながら、ふとその10ヶ月に渡る放浪の季節のことを想像していた。職を辞し、10ヶ月も無産でブラブラと彷徨っていたというのは、どこか親近感を覚えなくもない。この間藤村は後の『若菜集』へと繋がる詩の創作に傾倒してゆくのだが、世間の常道から逸れエアポケットのような空白に漂う心地は、今の自分ともそう遠くない心情だったのではなかろうか。
それでいてまったく違う面も多々あり、それが今の自分の神経を揺さぶる。人生観というか、時間やお金に対する構え方のようなもの。自分は失恋の痛みで一年近くも放浪するだろうか?女性問題から逃げて海外にまで飛んでしまうだろうか?妻や子供を失ってまで、貧窮を忍んでも創作に打ち込んだりするだろうか?
女性とのトラブルも、お金の有無も(もちろん生来の性格や環境による影響はあるにせよ)、さほど決定的な要因ではない。自分の人生を、良くも悪くも思うように自由に生きる「覚悟」が、まずあるかどうかだ。自分の本能と信念を無条件に最優先する強烈な自我が、どんな不格好なときでも彼の深奥に迫力を感じさせる。

時間を気にすること、予定に縛られること、俯いて歩くこと……。
ああ、なんかアホらしいな。仕事辞めたんやないか、オレ。
ここへ入るのにも1時間ばかりの遅れを是認するかどうかで悩んだ自分が、にわかに恥ずかしなる。何故先を急いでいるのだろう?こうして得難い自由の身となりながら、ただ漠然とした焦燥に煽られて闇雲に先を急いでいる自分。

( 分かっちゃいるけどなぁ……、貧乏性だぁな。)

だんだん、先を急ぐ気持ちが薄らいできた。焦りが消えると、不思議と身体の疲れも軽減してくるような気がする。
空を見上げると、また薄雲の切れ間から短い白陽が射し始めていた。

 

14:30ごろ標高801mの馬籠峠を越えて、そこから約1時間で妻籠宿へ着いた。
妻籠は馬籠と対のような名前であるが、その趣はまた全然異なっている。平坦な谷に位 置する妻籠は、観光客向けの店も派手派手しくなく、ひっそりと落ち着いていて和やかだ。昭和初期の鉄道・国道開通 に伴い衰退の一途で荒廃していたというのが信じられないほど、今はすっかり綺麗に復元されて往時の情趣を取り戻している。表通りに電線や看板がなく、ガスのボンベやゴミ箱も板戸で覆って隠すなど、よく見れば住民の熱心な努力が随所に現れていた。

観光案内所で紹介された「阪本屋」へ行ってみると、宿場の中ほどに位置する、上階がひさしのように張り出した立派な旅籠宿である。にじり戸のような勝手口が開いており、興奮を掻き立てられつつ頭を低くして中へ入った。

「ああ、さっき(観光案内所から)電話あったよ。さ、どうぞ」

宿主のおじさんに付いて、細い廊下をずんずん奥まで行く。台所や水場を通り過ぎ、その向こうにまた別の家屋が繋がっていて、そこから更に細い階段を登る。そしてようやく着いた2階が客間で、通されたのは不思議な漢詩の襖で仕切られた八畳間だった。部屋の中心にはこたつがあり、縁側からは一面のガラス窓越しに表通りからは見えない中庭が見下ろせる。おそらく昔の造りがそのままなのだろう。素泊まり5,500円は自分の中では決して安い値段ではなかったが、これだけ旅籠の情趣を味わえるのなら全然高くないなと改めて嬉しくなった。

「明日の朝食だけんども、」
「あ、いや、その……、(案内所では)素泊まりってお願いしたものですから……」
「うん、分かってるよ。でもね、折角こんな山奥の民宿に泊まるんだから。朝食はサービスで付けるだに。」
「え!?あ……、どうもありがとうございます……」

一瞬にせよ、また貧乏性が出て恥ずかしかった。けれども、この時代劇のような楽しい雰囲気に包まれて、ますます気持ちがゆったりとしてきた気がする。

今日は馬籠峠でスピードダウンしたとはいえ、距離的にはまだ15km程度しか歩いていない。しかも明日はどうやら雨らしい。だからさっきまでは、また中津川のときのように夜まで歩こうかとも思っていたが、それはもう考えなかった。妻籠まで戻ってくる最終バスが早いという時間的な制約もあったけれど、とにかくちょっと歩測を緩めたくなったのだ。もっとこの木曽路の風情を味わう余裕が欲しい。
ぼくは煎茶とお茶菓子でくつろいだ後、また靴下を履いて身支度を整えた。

 


「撮ってもいい?」
「いーよー!」
「はいっ。ありがとー。さんきゅ」

こう言えばいいんやなぁ……。
村の子供たちはカメラを向けても嫌な顔をせず、笑って応えてくれる。
これまであまり正面切って他人の写真を撮ることはしなかったが、ここでは珍しく頼んで撮らせてもらったりしていた。純朴、と一言で言ってしまえば失礼かも知れないが、やっぱり無邪気な子供は可愛い。写真を撮って喜んでもらえれば、なおさら悪くない気分だった。

普段は人を撮っていても、風景の一部として捉えていることの方が多い。ある景色の中の点景として、背景やまわりの状況との関係性を意識しながらファインダーを覗いている。だからあまり人ばかり大きく入れて撮ることは少ない。
人を真正面から近づいて撮るのは勇気のいることだ。正直に言えば、自分はそれが苦手なだけだと思う。
中途半端に他人の領域を侵したくないという気持ちもあるし、出来るだけカメラを意識させたくないという意図もあるけれど、結局は意識されるのが怖いという理由が大きいのだろう。こうして毎日写真を撮っていて、改めて自分の弱さが露呈しているのを感じていた。
写真を撮るという行為は、無意識のうちに自分の有り様を写す行為なのだと思う。ぼくは、風のように通り過ぎる存在としてカメラを構えていた。何者にもならない、職業欄は空白、予定は未定……。
しかしそういう不確定な存在であることが、今は特に好きなわけでも嫌いなわけでもなかった。居心地が良いといえば、そうなのかもしれない。ただ旅をするということ自体が、存在を消してしまいたいという欲求の昇華でもある気がする。そういう自分を真正面から見つめる瞬間が、ちょうどファインダーを覗いている刹那なのだ。だんだん、そのことに対して苛立つことはなくなってきた。

 

南木曾の駅前でカツ丼を食べて時間を潰すと、ちょうど18:35の最終バスが来る時刻になった。もうすっかりあたりは暗い。山の冷気が急速に降りてきて、川の水音が地響きのように低く耳元まで届いてくる。
バスの出発を待つ間後ろの席に座っていると、パラパラと乗客が集まり始めた。といっても数人しかいないので、皆思い思いの席に離れて座る。外と変わらず、シンと静かだ。
しばらくすると、3人連れの女子高生が夢中にお喋りを引きずったまま乗ってきた。

「あんた(私の彼氏)見たって、何処でね?」
「トイレ。鞄持ってたよ。リュックじゃないやつ」
「帽子被っとったらぁ?」
「うーん、黒いの。目深に」
「それ違うわ!そんなん持っとらんもん」
「上手くいっとんの?」
「……順調。朝早いけど」
「一緒に(学校)行くの?」
「一緒に。でも(始発から)2番目だから、(遅れそうになるので)めっちゃ早歩きだよ」

「よっ」
「おう。」
「昨日、おめんとこの母ちゃん来てた」
「何しに?」
「知らね」

後から乗ってきた男子生徒とも、家族のように話している。なんだか、すこし羨ましい光景だった。
バスはようやくエンジンをかけて、暗い夜道をゆっくりと走り出す。窓には自分の顔が写るばかりで、景色は何も見えなかった。

10分ほどで妻籠に着く。そこで降りる客はぼくだけだった。
民家の細い路地を抜けて、旧街道筋へと出る。すると外灯が一本もない代わりに、旅籠の軒先に灯された行燈の光が点々と闇を縫って連なっていた。家々はもうほとんど表戸を閉めて、ひっそりと静まり返っている。しかし耳を澄ますと、何処から聞こえるのか太鼓の囃子が遠く低く鳴り響いていた。

 

back←  list  →next