17. 深山幽谷

 


ガタン、バタバタバタ……

雨戸を開ける音で目が覚めた。6:00? ……まだ早いやんけ……。
ここのところずっと見ていた奇妙な夢も今朝は見なかった。あるいは、もう既に忘れてしまったのかも知れない。

「おはようございます。もう、いつでも朝御飯食べられますので」

……ホント、早いな。
厚意で用意してもらった以上、寝ぼけて遅くに行くわけにはいかない。キンと冷たい水で顔を洗うと、思いのほか頭が冴える。昨夜は遅くまでノートを書いたりしていたけれど、そんなに寝不足な感じはしないな。
食卓へお邪魔すると、もうすっかりこたつの上に食事が整えられている。おじさんは隣で新聞を読んでいたが、どうやらもう朝食は済ませてしまったようだった。


「このあたりは昭和30年頃から宿場町を復元してね、日本で一番最初。やっぱり若い人に地元に住んでもらえるように努力するのも親の務めだってね、私らの親の代が。いまじゃ、年中お客さんよ。以前は馬籠の方が多かったけどね、今は妻籠が年間100万人くらいでちょっと多い。そう、電柱とかは全部通りの裏側にね、夜は門灯だけで。太鼓?あ、あれは町の若いのが……、といっても34とかだけどね。毎晩練習してるから、いまじゃTVにも出るよ。上手なモンさ。もうすぐゴールデンウィーク過ぎればこの辺も田植えだに。私も5年前まで会社勤めでね、岐阜、愛知、三重、あっちの方へ単身で。でももう、のんびりすんぞって帰って来たけど、『オマエ、帰ってきたんならいろいろ(町会役員を)やれ』って。だからまあ、ちょこちょこ忙しい。ホラ、もっと食べましょう」

甘豆、切干大根、ひじき、沢庵、ナス漬物、奈良漬、海苔、味噌汁、目玉焼き(ハート型)、レタス、イチゴ、ヤクルト、そして自家製の煎茶と、御飯が2膳。
最初は厚意に応えて詰め込まなきゃと思っていたけれど、食べてみるとみるみる箸が進む。おじさんが熱心に解説してくれる山里の幸が美味しいのも勿論ながら、旅に出て以来朝飯はいくらでも食べられる体質になっていた。

バスの時間まで少しの間、荷物を玄関脇に置かせてもらって妻籠宿を散策する。外は朝から雨だった。
春の雨は冷たい。山に降るのは尚更そう感じる。しかし鼻を通る湿気がほんのりと木の香を含んでいて、身体の内側に染みわたる感触が心地よかった。
土曜日ということもあり朝からもう観光客が往来していたが、みな傘をさして静かに宿場を散策している。でもこれくらいしっとりとした情趣の方が、山里の街道にはよく似合う。土産物屋の軒を冷やかす人や、雨にそぼ濡れた大枝垂れ桜の下で記念撮影をする女性たち、手を繋いで石坂を登る夫婦、軒下で座って休んでいる老翁……。蓑と三度笠の雨装束に身を固めた郵便配達夫が、足早に水たまりを避けて歩いていった。

 

南木曾駅を出ると、しばらくは容易に休むことは出来ない。
地図を見ると、途中に集落のようなものが僅かにはあるようだったが、おそらく商店も何も期待できない山村だろう。そして深く切れ込んだ木曽川の谷筋には平坦地がまったくなく、国道19号線の他に併走する地道はほとんどなさそうだ。しかも、雨。今日はもう、歩くのには最悪な条件が揃いも揃っている。
山あいに登って野尻まで抜ける「歴史の道」というルートもあるにはあるが、雨の山道は思わぬ悪路になっている可能性が高い。それに万が一迷ったら、それこそ悲惨だ。
南木曾を出てすぐのところに、三留野という中山道の宿場がある。そこまではまだ辛うじて旧道が繋がっていたが、やがてそれも国道に合流してしまいそうだった。

「山かい?」
「いえ、野尻まで」
「じゃ、あの大きな木のとこ右が歴史の道、左が国道の方だよ」

大きな木……。って、そこらじゅう木だらけだよ?
ふと立ち止まって川の方を見ると、壁のように切り立った対岸の山が白い濃霧に霞んでいる。月並みな言い方だが、まさに水墨画のようだ。
深紫の山、綴れ織りの樹林、増水した濁流、大粒の白い飛沫、時折雨の中を飛んでゆく鳥の影……。
風景が、なにか厳粛な神々しさを湛えて、普段より雄弁にその存在を主張している。
この自然とわき上がる畏怖の震えはなんだろう?空も、風も、水も、空気の冷たさも、まわりを包むすべてが、人間一人くらい一瞬で呑み込んで消し去ってしまいそうな、茫漠とした緊迫を秘めている。
ここは限りなく静かな、巨大な世界の深淵だった。

 

肩から20〜30cmのところを、続けさまに数台のトラックがビュンビュンと飛ばしてゆく。歩道すらないR19、別名“トラック道路”は、これまでで一番危険な道に違いない。
車がはねる泥を被らないように、できるだけ路肩を歩く。しかしガードレール向こうはすぐ岸壁が迫っている。おまけに降り続く雨でアスファルト道にも水が溜まって、幾筋も合わさった泥流が足元に澱んでいる。
ふと気が付くと、傘を持った手が濡れて冷たい。いつの間にか傘の布に雨が浸透して、内側もびっしょりと濡れてしまっていた。
旅に出て以来、雨の中を歩くのは初めてではない。出発2日目でいきなり雨に降られたときも運悪く山の中だったけれど、あのときは傘をなくしてテントのフライシートを頭から被って歩いた。名古屋を過ぎたあたりでも霧雨に降られている。ただ、いずれも短い雨で、今日のように本格的に降られるのは初めてだ。
どうしようもない雨ならすこし止まって様子を見てもよかったのだが、妻籠の宿はやはりすこし高めだし、雨もいつやむのか分からない空模様である。まだ歩ける内に、短くてもある程度進んでおいた方がいい。幸い、ここからずっとJR中央本線が併走している。駅と駅の間隔は目一杯長いものの、いざとなれば町まで出られるという安心感はあった。

11:20、歩き始めて1時間ちょっと。
ずっと雨を避けるどころか立ち止まる余地さえなかったが、ここへ来てようやく乾いた地面 を見つけた。国道が崖沿いの高架道路になっており、その鋼鉄の橋桁の下が乾いたコンクリートを覗かせている。
普段ならちょうどいい休憩のタイミングだが、今日はもういつもの1.5倍の距離を進んでいる。できるだけ歩速を早めたせいだが、その分脚の疲労も重かった。
コンクリート製の巨大な橋脚の足元にザックを降ろす。しかしなんとなく腰を下ろす気にはなれず、そのまま立って身体を拭いた。足元の白いコンクリートが見る見るうちに滴る水を吸い込んで(?)消し去る。まるで生き物のようで不気味な光景だった。
相変わらず対岸は深い霧に包まれて、切り立った山影をうっすらと覗かせている。荒れ狂っているはずなのに、ここまでは川の濁流音があまり届いてこない。国道を通る車の音が、断続的に頭上から響いてくるだけだ。雨足は一向に収まらず、尚も重いカーテンで風景を覆っていた。

無人の十二兼駅を過ぎ、さらにR19を北上する。幸い、鉄道沿いに細い側道が見つかって、トラック地獄からはなんとか逃れることが出来た。
駅には自動販売機すらなかったが、この先野尻までは飲食店も絶望的だ。さっき軽く昼食のつもりでカロリーメイトを食べておいたけれど、水がなかったので歯の奥にまだカスが残っている。背中の汗もべっとりと張り付いて気色悪い。足元から腕先まで、もうすっかり雨に濡れてしまった。傘をずっと持っているのも、だんだん腕がだるくなってくる。人と擦れ違うこともまったくない……。
早くここから抜け出したい。疲れも何も我慢して、とにかく神経を集中させて足を速める。
雨か汗かわからない水が、鼻の頭をつたってポトリと落ちた。

 

野尻も、中山道の宿場町である。
……そのはずだ。見たところ、旅籠の名残が漂う旧家も数件並んでいる。しかし、町はひっそりと静まり返って、まるで人間が一人も住んでいないかのようだ。
路地をすこし迷って駅へたどり着くと、そこもまた無人である。到底盗られそうにないので、ザックをそこに置いたまま傘だけ持って再び出た。
野尻宿は全体が急な斜面になっている。駅はその一番下にあり、国道は逆に一番高い山あいを通っていた。ぼくは飲食店を探すため、坂を登りながら集落を彷徨ったが、相変わらず店はおろか人影もまったくない。吐く息も白くなり、ますます寂寥が募る。ここで上手い具合に宿が見つかれば今日はもうストップしてもいいかなという期待は、もはやまったく念頭にない。まさに廃墟という以外に形容しようのない領域だった。
ようやく国道に出ると、遠く集落の終わるあたりにかすかな看板らしきものが見える。 ラーメン屋……かな?

(あれが空いてなかったら、今日は非常食漬けだな……)

雨に遮られて遠くに感じられたものの、半ば諦めつつ近づいて行ってみる。するとそのほとんど朽ち果てかけた三角屋根の建物は、1階の入り口付近だけを改装してラーメン屋を営業していた。外から見る限りはくたびれて今にも潰れそうな印象だったが、何故か気持ちがホッとしている。
傘をたたむと、先から大量の水が滴り落ちた。

 

駅に戻って時刻を確かめると、次の下りは14:49の松本行き。その次は17:30までない。
今、13:40。次の大桑駅までは約3kmと短い。1時間あれば、十分に行ける距離だ。
大桑は地図で見る限りこの野尻よりも更に小さな集落なので、宿は期待できない。従って今日は上松か木曽福島あたりまで列車で行って、宿を探さなければならない。もし道に迷ったりして列車を1本遅らせれば、その分町へ出るのも遅くなるので、宿探しが難しくなってくる。そうでなくとも雨の中で待つのは辛い……。
だが実際には、ほとんど迷うことなく瞬時に判断してまた荷物を背負っていた。いずれにしても、ここは出なければならないのだ。一刻も早くここを出たかった。
なんだろう?体力ではない、神経に近い部分がぐったりと疲れている。集落から人が去った痕跡と、そこに染みついて残った微かな気配、廃墟を包む沈鬱な空気……。この雰囲気は身体から何かを奪う。
すこし濡れたニットの帽子を目深に被り直す。ザックの紐が肩に食い込むように痛い。
まだ昼過ぎなのに、もう鉛色の重い夜気があたりに降りてきているような暗さだった。

 

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