20. 旅史上最悪の……
再び塩尻駅へ戻ってきたのは、ちょうど9:30。
あんまりハラが減るので、中途半端な時間だが駅の立ち食いで玉子そば(320円也)を平らげた。
時折列車の発着を知らせるアナウンスがあり、パラパラと人が通る。通学時間はとっくに過ぎているはずだが、制服姿の高校生が数人、階段の途中に座ってふざけ合っていた。
待合所のベンチでは地元のお婆ちゃんが2人、苦い顔で愚痴のこぼし合い。嫁に対する揶揄のような言葉が、激しい訛りの中から時折聞こえてくる。
しばらく座って休んでいたが、ハラが満たされると同時に急激な便意を催した。今日も健康な証拠、であるはずだが、これはいつになく一直線だ……!すぐさま荷物を持って、足早に宿へ向かった。
前夜日出塩で歩き終えて列車で塩尻まで出たものの、観光案内所も既に閉まっていて、宿探しには思いのほか苦労した。そしてようやく見つけた旅館が、この怪しい一角。両隣をピンク色の派手なネオンに挟まれて、一瞬さすがに躊躇したが、入ってみるとなんでもない木賃宿だった。
昨日は煌々と明滅していた通りも、昼間見ると白々と鄙びた場末に変貌している。ぼくは軽く声をかけてから裏口の戸を開けたが、宿主はまだ寝ているのか、何も反応がなかった。
今日はこれまでのところ順調だ。6:00に起きて始発で日出塩駅まで戻り、ゆるやかな下りを2時間半ほど歩いて、塩尻まで達した。山地を降りて久しぶりの平野部へ出ると、そこは一面の葡萄棚に覆われ、すっかり信州の風景に変わっている。不思議にどことなく人の顔もこれまでと違うように見え、国境をひとつ越えたという実感があった。
ただ、山深い木曽路独特の情趣からすれば、平坦でのどかなばかりの信州路はどこか退屈でもあった。道がボンヤリと真っ直ぐなのも、また精神的に影響しているのかも知れない。気温も随分温かいので、陽射しを浴び続けていると余計に疲労が増す。ぼくは宿で荷造りをした後、すぐには出発せずに部屋でゴロンと大の字になって寝転んだ。いつになく妙な倦怠感が、身体を引きずっているような感じだった。
塩尻宿を過ぎると、中山道は国道19号線から20号線へと変わる。そして交通量はますます増えるばかり。
宿場内を通る街道はギリギリ2車線ほどと狭く、そこをひっきりなしに例のトラックが往来する。歩道も申し訳程度にしか設けられておらず、凹凸の激しい側溝の上をガクガクと歩かなければならない。通りに面した民家も排ガスの煤で塗り込められたように汚れ、街道の情趣はことごとく蹂躙されている。おまけにだんだん咽がイガイガしてくるので、ひたすら下を向いて黙々と進んだ。
ようやく旧道が国道から離れると、今度は延々と果てしなく登り続ける坂道。しかも精神的に辛い直線道……。
目指す諏訪湖はカルデラ状の窪地にあり、中山道はその外輪山の西麓からまっすぐに侵入する。その頂は、標高約1000mの塩尻峠だ。
峠としては昨日の鳥居峠が中山道最難関と聞いていたので、今日の塩尻越えは正直それほど気にしていなかった。ところが、登り始めるとこれが想像以上にきつい。登り道は坂の勾配よりも、距離が長い方が辛いということを痛感させられる。
途中何度も荷物を降ろして休んだ。しかし辺りは切り開かれた高原で、樹木等が少ないために適当な日陰が見あたらない。仕方なしにタオルを頭から被って日除けにしたが、あまりゆっくりと休んではいられなかった。
永久に続くかと思われた峠道も、正午過ぎにようやく頂上部へ。
展望台に登ってみると、眼前にぽっかりとクレーターのように窪んだ諏訪湖が広がっている。さすがに大きい。市街も広く、久しぶりに見る都市部という感じだ。
しかし空は鈍い灰白色に覆われており、湖の対岸はうっすらと霞んで見えない。天気がまた暗転し始めているのだろうか。
一口非常食を摂ろうか迷ったが、水も飲みきっていたので、もうひと踏ん張りここは我慢。なに、下諏訪は目前だ。
坂道は急激な傾斜で一直線に下っていた。
(うわ……、高いな)
メニューを見て思わず失敗したと思った。これだから表に献立を出してない店は嫌いなんだ……。
とはいえ、もう入ってしまった以上は仕方がない。どっかと畳に腰を下ろして、熱いお茶もすすっている。靴下もとっくに脱いだ。
ぼくはもう一度メニューを手にとって、一番安いのから順に見定めた。玉子丼、親子丼……、こんなのに8、900円も出せるかっつーの……。とんかつ定食、1100円……、しゃーないか……。
高い店に入ってしまったとはいえ、粗食で済ませるのは二重に屈辱的だ。しかも今日は特にぐったりと身体が疲労している。とはいえ1800円のうな重を食べられるほど、できた人間でもない。……それにしても、昼飯のモンダイで何もそこまで悩まなくてもなあ……。
お茶を飲んで頬杖をついていると、唐突に眠気に襲われた。知らぬ間にガクッと顎がずれ落ちて、ハッと目が覚める。なんだ、今日はホントにちょっとおかしい。
名古屋を出る辺りから鼻がムズムズするようになって、軽い花粉症のような感じになっていた。昼間温かい間はそうでもないが、朝方寝起きなどにはズルズルと鼻水が落ちる。それが、今朝から鼻の奥でゴロゴロと重いしこりになっていた。国道の排ガスのせいもあるのだろうか。呼吸が苦しいと二倍疲れる。どうも歩くリズムが狂うようで鬱陶しかった。
「はい、どうぞ」
おっと、コレは……!
出てきたとんかつ定食は、想像以上に肉厚なボリュームを湛え、きつね色の衣がピカピカと光っていた。薄汚れた風体の旅客にはおよそ似つかわしくない、正真正銘の特上とんかつ。真ん中で切ってみると、ジュワッと熱い肉汁がしみ出して魅惑的な湯気を上げる。あぁ……、でりしゃす!さっきは侮蔑してスミマセンでした。高いだけのことはあります……。
これだけ食べれば疲れも吹き飛ぶだろう。ぼくは前代未聞の柔らかい肉を頬張り、出来るだけゆっくりと咀嚼した。
「今はまだ営業してないんですよ。シーズンオフで……」
「素泊まり?エーッと、いくらにしようか……」
なんだか、電話口でだんだん苛立ってきた。下諏訪の旅館はまったくヤル気がないのだ。客が泊まるっつってんだから、とりあえず部屋と布団だけ空けてくれりゃエエやろ!?
温泉街というのは売り手市場で、客引きに熱心じゃないのだろうか?
ムカつきつつも、次の5件目に電話しようとしていると、後ろから声がする。振り向くと、背広姿の中年男が間近に立っていた。かなり汗をかいていて、しきりにハンカチで顔を拭っている。
「ちょっと、代わってもらえます?」
声が異常にかすれていた。立て続けに電話していたぼくは、思わず恐縮して場所を譲る。公衆電話の上に広げた旅館案内の紙を畳んでいると、男はすぐにダイヤルして話し始めた。
「ああ、はい、ええ、○×△商事のタケナカです。え、先日はどうも、あ?はい、え、その節は、いえいえ……。とんでもない、こちらこそ。はい、ありがとうございます。あ、それでですね、今夜の新幹線のチケットの件ですが、あ、はい、そうですね、それでですね、指定席がどうしても取れなかったものですから……、ええ、はい、あのスミマセン、ですからその、一番前の車両に乗って戴いてですね、あ、ええ、一番前です、それで上手い具合に待ち合わせるしか……。あ、はい、スミマセン、ホントに。なんかとても混んでたようで、あ、はい、申し訳ありませんが、何卒……」
その時、突然背後からドーンという鈍い衝突音が鳴り響いた。
ぼくもその電話中の男も、ビックリして思わず振り返る。見ると、駅前のロータリーには2台の車がくっついたまま止まっていた。前はシルバーのバン、後ろは青いゴミ清掃車。どうやら追突事故らしい。清掃車がバンの横腹に突っ込んで、大きくボディをへこませている。
やがて両方の車両から運転手が降りてきた。バンからは若いサラリーマン、ゴミ清掃車からはサングラスとマスク、それに帽子という漫画に出てくる泥棒のような風体の男。声は聞こえなかったが、清掃車の男はまず相手の身体の具合を確かめた上、早口になにか言ったようだった。すると若い男は首を回しながら、判然としない顔でまた運転席に戻り、車をロータリーの隅まで移動させようとしている。それを見ながらマスクの男は、すかさず清掃車から箒とちりとりを出してきて、散らばったガラスの破片などを掃除し始めた。あの様子だと、マスク男の思惑通りに示談が成立するかもしれない。
ぼくは一瞬警察へ通報してやろうかと思ったが、振り向くとさっきの中年男がまだ電話しており、受話器を持ったまましきりに何度も頭を下げていた。
「素泊まり3000円、っていうのがありますけど」
「3000円!?」
下諏訪泊を諦めて、列車で一駅上諏訪まで来ると、いとも簡単に安宿が見つかった。
観光案内所で値段だけ聞いて即決し、さっそくその宿へ向かってみる。そこは普段宿主もおらず、こうして客のあるときだけ自宅からやってきて世話をするらしい。だから安いのか、とにかくこちらとしては寝られさえすればいいのだからと、あまり深くは考えなかった。
言われた場所へ行ってみると、旅館は場末の小さな2階建てで、一見なんの変哲もない民家である。宿主が一足先に着いていたらしく、玄関には打ち水をした跡があった。
やがて現れたのは、恰幅のいい中年のおばさん。妙に派手な化粧をして、髪の毛にもジャラジャラとたくさん奇妙な飾りを付けている。おまけに、上から下まで色とりどりの「エクササイズふう」ファッションだった。
「どーぞ、どーぞ。待ってたのよぉ」
玄関を入った途端、扉の脇の壁に大きな亀裂が入っているのを見つけて、一瞬ギョッとする。しかしズンズン奥に入って行ってしまうおばさんを慌てて追いかけると、それくらいのことはまだ序の口であったことが俄に判明してきた。廊下も全体にうっすらと埃を被っていて、ちょっと酸っぱい臭気すら立ちこめている。締め切った陰湿な空気も、屋内に充満して澱んでいるようだ。
「和室がいい?それとも洋間?」
「じゃ、和室で……」
で、通されたのは「白樺の間」。そして扉を開けると……!
うわっ、布団敷きっぱなし!しかもなぜ二対?床もなに、コレ!?ゴミだらけ!
うわっ……、え、電気毛布?いらんいらん、ヘンな臭いするし……。窓を開けると、物干し竿には異様な数のおむつが……
こら安いはずや……。いや、高いくらいや!
あ、お茶?どうもスミマ……、って、うわっ!きったない急須!大丈夫か!?
カーテン買ってきたから付けてって、おばちゃん人使うなぁ。客やのに。それに、いらんでそんなん。これ以上日光遮断してどーすんの?
あぁ、おばちゃん、鼻の頭にめっちゃ汗かいてるよ……
「洗濯物あるら?」
「は!?」
「今から洗濯するから、ついでに洗って上げるに」
「え、いや、その……」
「遠慮しない!もちつもたれつらぁ」
「はぁ……」
もたれたくない。それにしても、「らぁ」とか「にぃ」とかって、ここの方言?
すっかりおばちゃんのペースにはめられつつも、さすがにこの究極に不衛生な宿には一瞬たりとも落ち着けない。名古屋からずっと「諏訪の温泉でのんびり逗留しよう」と夢に描いてきたのに、そんな憧れは急転直下消え失せた。それより、一刻も早くここを脱出せねば……!
今日はこのままストップする予定だったが、大急ぎで荷物をまとめて部屋を飛び出した。
出るときに、ひょっとして、と思い立って「洋間」の方を覗いてみる。しかし、そこも締め切った薄暗い部屋に二対の万年床……。ほのかな期待を抱くだけ無駄であった。
再び列車で下諏訪へ戻り、諏訪大社秋宮へ。ここで中山道は小諸・軽井沢方面 へ北上するため、ルートを甲州街道に切り替えて甲府を目指す。いよいよ、東京まで一直線だ。
街道の接続点を訪れたが、狭い石畳路にも関わらず、途切れることない大型トラックのせいで対岸に渡ることさえままならない。 排ガスもますます激しく降り注ぐ。どうにか渋滞の隙間を縫って接続点の石碑にだけタッチすると、もうわき目もふらず甲州街道を一路東へ下った。
旧道は幸い国道を離れ、やや高台に沿って諏訪湖の北岸を東進する。重いガスに遮られた諏訪湖が時折樹間から覗くほかは、あまりこれといった景観もない。細い路地には街道を偲ぶ蔵や町屋の類も見られたが、もうかなり陽も暮れて、輪郭くらいしか分からなかった。
今日中に上諏訪まで歩いておいて、明日は早朝に出よう。諏訪の温泉ではのんびりできなかったけれど、なに、温泉ならこの先にもまだあるさ……。
歴史案内板にも、旧跡標識にも、展望台にも目もくれず、かなりの早足で黙々と歩く。外灯があるので、日が暮れても平気だ。期待を裏切られたショックは大きかったが、今はとにかく先を見ることで現実の悪夢を忘れようと、そのことばかり考えていた。
20:00、ようやく上諏訪へ戻ったものの、表通りは軒並みシャッターを降ろして静まり返っている。
仕方なく、晩飯はマクドナルド。ガランと空いた店内で黙々とチーズバーガーを食べる。すると、程なくアルバイトの店員が遠慮なくフロアの掃除を始めた。ここも、もう30分ほどで閉まるらしい。
(まだ宿には帰りたくないなぁ……)
ノロノロと脚を引きずって商店街を抜ける。途中酒屋に寄り、土産に買って帰ろうと思っていた木曽の酒を見つけて店主と談笑したが、それもわずか数分で終わってしまった。
おばちゃんの長電話が終わるのを待っていると、あっという間に21:30。ようやく、声がやんだ。
「あの……、フロは……?」
「あー、おフロ!今ね、ちょうど……どーなってるかしら……?」
どーなってるかしら?またもや不安を掻き立てられつつ浴場へ付いていくと、おばちゃんは湯船の蓋を開けて歓喜の声を上げた。
「やー良かった!昼間お湯が出なかったからさ、さっき市役所とかに電話掛けまくってさ、あのスポスポするヤツでつっついてたのよー!そしたらホラッ、良かったわねー」
良かったわねーって……、湯が出なかったら、笑って誤魔化すつもりだったのか?
とにかく、このタダで湧き出る温泉だけはせめて味わっておかないと、絶対に元が取れない。ぼくは大急ぎで服を脱いで、湯船に飛び込んだ。
ん!?……なんだ、このヌルヌル。湯船の床がぬめって気持ち悪い。この白いの、湯ノ花じゃないよな……
クソッ!風呂までも……Θ×■Δ*>`{~!!!!!!
ムカムカと湯船を飛び出して、頭を洗おうとシャワーをひねるが……、当然の如く出ない。
腹立ち紛れに湯船の湯をザブザブと被って、シャンプーに手を伸ばす。
あれ、このシャンプー……、『強力カビキラー』!!!!!
…………もはや、絶句…………
(クソッ、告訴だ、コクソ!100%勝てる……!)
何故旅館に泊まっているにもかかわらず、オレは寝袋で眠らなければならないのか?
不毛な煩悶は忘れて早く寝てしまいたかったが、悪夢のような邪念に襲われて、その夜はなかなか寝付くことができなかった。
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