23. 微熱
列車は日野春駅で、かれこれ15分も停まっていた。
エンジンも切ってしまって、外からはウグイスのさえずりが聞こえてくる。韮崎あたりまでは高校生がたくさん乗っていたが、今は向かい合わせの四人席にチラホラと一人ずつ乗客がいるだけで、話し声もない。
ぼくもまた窓枠に肘をついて、ただボンヤリと景色を眺めていた。
駅前の道には桜並木があり、ちょうど満開を過ぎて散り始めている。時折山の方から風が吹き、そのつど雪のような白い花弁が灰色の空に舞い上がった。昨日小渕沢を過ぎたあたりではまだ見頃で、今朝出てきた甲府の宿の周辺ではもうすっかり葉桜、ここらあたりはちょうどその中間ということか。
やがて、通過待ちの特急列車が一瞬で走り去り、しばらくして再びエンジンの始動する音が足元から伝わってきた。ホームでタバコを吸っていた男が、慌てて列車に駆け戻っている。ようやく動き出す瞬間、車体全体がギシギシッと大きく軋んだ。
本日の目標点は、昨夜泊まった甲府のビジネス旅館だ。今日も連泊なので、荷物は置いてきた。
昨日終了した長坂駅から約30km。釜無川沿いを緩やかに下る道なので、重いザックもないし、本来なら楽な旅程だろう。
しかし今朝は起きてからずっと、身体の具合が気掛かりだった。諏訪あたりからの体調の崩れは、ここ数日だましだまし歩き続けて来たものの、一向にスッキリとは快復してくれない。鼻・咽の違和感、肩から上腕にかけての気怠さ、股関節の鈍い痛み……。そして今朝からは、全身に厚ぼったい微熱も感じていた。
まったく歩けない、というほどに悪化してはいないが、風邪の予兆であることは否定できない。もはや単なる疲れではなくなっている。
それでもまだ歩こうと思うのは、やはり経済的な理由もあるが、あと5日程度で東京へ帰れるのにというはやる気持ちのせいもある。旅の最中で神経が張っているから、逆に弛めずピンと張り続けた方が自然治癒力を高められるのではないか、という希望的観測もあった。
「病は気から」、こういうときは弱気になるのが一番マズい。歩ける限りは歩いて、もし急変したら即座に列車で甲府へ戻る……。しかしそんなことには絶対ならない!まだ大丈夫。気合で、乗り越えられる……。
今朝はこれまでになく精神を集中させて、「賭け」のような気持ちで出発点へ戻ってきたのだった。
9:10長坂駅着。まだ標高があるのか、結構寒い。フリースも着込んで、いざ出発。
交通量さほど多くない県道は、両側にそれぞれ松と桜の並木。満開から散り始め。緩やかにうねりながら、丘陵を縫って進む。昨日見たテレビのことなど、思い出しつつ。
10:10日野春駅着。徐々に身体も温まってきたので、フリース脱ぐ。駅のベンチで休もうとしたが、おばちゃんがど真ん中に座って動かないため断念してスルー。……いかんいかん、ストレスを感じると益々疲労が蓄積してしまう。穏やかに、穏やかに……
黙々と歩いていると、身体の痛い部分や熱を帯びた箇所に意識が集中してしまう。辛い状態を意識すると、余計にしんどくなる。何か、他のこと、他のこと……。今晩は絶対に早く寝なければ。
人気のない児童公園に、真っ白い積雪のような花弁絨毯。ここらあたりはもう葉桜。一気に高度を下げてきた。
11:30穴山駅到着。直前に1軒だけ食堂があったが、値札が出ていないのでパス。吉と出るか凶と出るか……。無人の駅舎で10分だけ寝転んで、再び出発。
気にすまい、気にすまい、と思えば余計に体調が気になる。関節の痛みは歩いている方がややましだったが、微熱はすっきりと抜けきらない。鼻の奥に熱溜まりがあるような感じ。
武田氏と姻戚関係にあった穴山氏の根城跡、武田勝頼が織田信長に追われて自ら火を放ったという新府城と、興味深い史跡が続くも、あまり余分な散策はできず。今は体調快復が最優先。
緩やかに起伏する丘陵を一面に覆い尽くす“桃源郷”。桃の花は桜よりも鮮やかなピンク色、艶やかな香が漂う。しかしどこか情趣に酔いきれないのは、曇り空のせいか、あるいはこの体調のせいか。
13:30ほぼ予定通り、河岸段丘の最後の崖を下って韮崎駅着。
(旅ノートメモ)
韮崎ならたくさん飲食店が見つかると思っていたが、駅前は思いのほか閑散としている。ウロウロと探し回るのも今日に限っては億劫なので、珍しく安易にロータリーに面したイトーヨーカドーの3Fレストランフロアへ行ってみた。
朝から歩き詰めでハラは減っているものの、食欲自体はあまり湧かない。ただ、こういうときこそしっかり食べておかなければ……。
迷った挙げ句、結局中華料理店に入った。そして“スタミナ定食(ラーメン、肉玉炒め、大根サラダ、白飯)”(1000円也)を注文。今はありとあらゆる神経を、すべて体力回復のために注いでいる感じだ。そういえば今日は景色をあまりよく見ていなかったかもしれない。そう考えると勿体ないが……。今は、仕方がない。
窓の外はまだ煮え切らない空模様。ぼくは地図を開いてルートを叩き込み、コップに3杯水を飲んでから店を出た。
県道からR20接続。廃れた路面店の残骸、橋の上で強風、時折霧雨。
15:30塩崎駅着。「一応、買っておきたいの!」と、どうしても切符が欲しいらしい少年、それを叱りとばす母親、同情する祖母、隠れて甘やかそうとする祖父。ある家族の情景。
塩崎駅の先で、再び県道へ。坂道を上り、狭い集落を抜ける。頂上へ差し掛かるといよいよ眼前甲府盆地。荒川を渡ると甲府市街地へ。四囲の山に低いガスの層。
急激に疲労を覚えた。バス停のベンチに思わず横になると、そのまま寝てしまい……
15:55、10分の仮眠で頭スッキリ。身体もすこしシャキッとした。残りは約1時間程度のはず。できるだけ時間気にせず黙々と歩く。
クスリ屋があったら、“リポG”買おう……。あ、あの“ジョナサンズ”の看板!帰ってきたぁ……。
(旅ノートメモ)
16:30無事に帰宿。
宿は一見ウィークリーマンションのような、実に簡素な建物だ。人一人やっと通れる程の幅しかない薄暗い廊下に、アパートのような恰好で部屋のドアが10ほど並んでいる。
部屋は六畳のシングルルームで、入るとさっそく布団が二組壁際に折り畳んで寄せてある。奥の壁に、小さな窓がひとつ。あとはテレビ、灰皿、ルームフォン、そして成年誌がズラリと揃えられた本棚。それに一体何万本吸ったのかと思いたくなるような、強烈なヤニの臭い。この世にここまで男臭い場所があるのかと、愕然としてしまう。昨日初めて入った時もそうだったが、二日目に帰ってきてもまた衝撃を受けてしまうほどだった。
……しかし、今は余計なことは考えていられない。風邪を治すのに、男クサイも女クサイも関係ない!……いや、ちょっとは関係あるかもしれないけど、とにかくそんなこと言ってられる場合じゃない。
ぼくは上着を脱ぐとすぐに顔と手を入念に洗い、うがいもしつこいほど繰り返した。さっきコンビニで買っておいたリポDも一気に飲み干す。そして新しいTシャツに着替え、晩飯の時間までに手早くノートを記したりしながら、あとはじっと寝転んで何もしなかった。
今日あったことも、もう断片的にしか思い出せない。心の動く余裕さえも、ほとんどなかったということだろうか……。
勿体ないな。だが、仕方がない。
テレビも熱が上がるといけないので、退屈だが見ない方がいい。あんまり退屈なので、つい本棚の怪しい漫画本をパラパラめくってみたが、正直言って全然気もそそられないので、すぐにパッタリ投げ出してしまった。
19:00、満を持して向かいの弁当屋へ晩飯を買いにゆく。玄関の雪駄を借りて出たが、夜気に触れると思わず僅かな悪寒が走った。ダメだ、このままでは……。とにかく、今夜がヤマだ。
できるだけ栄養価の高そうな弁当を選んで買い、部屋でゆっくりと食べる。こういうとき、こういうタコ部屋のような穴蔵で、こういうコンビニエントな弁当を独りで食べるというのは、この上なく侘びしいものだ。これじゃ、治るものも治らんなぁ……。などとうそぶきつつ、神妙に風邪薬を呑む。これだけは役立つ機会が訪れて欲しくなかったが、今となっては荷物を減らすときに置いてこなくて良かったなぁと実感する。
のど飴も2つ舐めた。首にタオルも巻いた。
迷ったが、今日は風呂もやめておいた方がいい。
あとは……、もう寝るだけだ。
連日少しずつ寝不足だったので、多少早い時間でも暗くすれば眠れるはずだ。今から寝れば、明日はだいたい7:00起きだから、11時間近く眠れる。薬も飲んで、それだけ寝て、それでダメだったら……。
いや、ダメじゃない!気合だ、気合!
とにかく打てるだけの手は打った。あとは自分の身体の自然治癒力を信じるしかない。ここまで歩いてきたことで疲労は蓄積しつつも、体力・抵抗力は逆に高まっているはずだ。高まっていなきゃおかしい。高まっていてくれ……。
呼吸を楽にするために枕を首の後ろに当てて気道を確保した……、ところまではうっすらと覚えている。
|