24. 禍転じて

 

塩鮭、漬物、味噌汁、白飯。
なんとなく、というより明らかに、昨日より朝食の中身が貧相になっている。昨日はまだこれに目玉焼きと先切りキャベツ、明太子、納豆が付いていたし、味噌汁にもアサリが入っていた。今朝は座敷の奥に女子大生4人組が座っていたが、単に宿泊数が増えただけで朝食のレベルが下がってしまったのかしら?
彼女らはおそらくぼくと同様に電話帳でこの宿を見つけて、値段だけを見て予約してしまったのだろう。昨晩は仲間内で一悶着あったのか、それとも悲嘆にくれて沈みきっていたのか、どこか憔悴したように身を縮めて黙々と食べている。彼女らもあまりに場違いな雰囲気の中で可愛そうだったけれど、普段通り気楽に食堂へ出られない男たちもタイヘンだ。若い職人さんの一人は座敷に女のコがいるのに驚いて、わざわざ洗面所へ寝癖を直しに戻っていった。
しばらくして3杯目のお代わりに立ったとき、ちょうど若い女給さんがエプロンを掛けながら慌てて入ってきた。

「アンタね、ちゃんと連絡してくれなきゃ困るじゃないの!一体どこ行ってたのよ!」
「…………」
「黙ってちゃ分かんないでしょ!アタシはアンタが遅れたことをこんなに怒ってんじゃないのよ!どうして電話一本よこさないのかって、それを言ってんの!」

どうやら、朝食のランクダウンはこの娘に責任があるようだ。宿主のおばちゃんは水爆のような髪型を更にバクハツさせて、しきりに声を殺しながら叱り続けていた。

「あの男だね?またあの男のとこだろ!まったく……、仕事も放っぽらかして、何考えてんだか……」
「…………」

娘はずっと俯いたまま、涙をこらえているのか、反発しているのか、とにかく頑として黙っている。肌がかなり浅黒く、目鼻立ちからしてひょっとすると東南アジアの人かもしれない。ぼくは妙に興味をそそられつつ、それ以上聞いてはいけないような気がして、空のお茶碗を持ってまた食卓へ戻った。
女子大生はあまり箸を付けないまま、席を立とうとしている。職人さんはアッという間に食べ終わって、早々に食器を重ねていた。
テレビではちょうど天気予報が映っている。
よし、今日から4日間は晴れのまま保ちそうだ。東京まで、ラストスパートすれば一気に行ける!
目標が定まると、グッと力が湧いてきた。お茶を一息に飲み干して、背伸びをひとつ。
ボンヤリしていた頭も、ようやくスッキリ冴えてきた。

 

甲府の市街は名古屋以来の大きな繁華街だったが、まだ時間も早くほとんどの店舗がシャッターを降ろしている。人通りも、駅前を過ぎた途端に閑散としてしまった。
それにしても今日は暑い。すでに陽射しがカンカンと照り付け、Tシャツ1枚でも汗がベットリと噴き出してくる。アーケード街やビルの通りは日陰を縫って歩けたが、徐々にそれらもなくなって、正面からまともに直射日光を浴びる恰好になってきた。まぶしさで目をやられるのも辛い。
ただ心配していた体調の方は、昨夜の休養でかなり快復できたようだ。薬も効いたのだろう、熱や関節の痛みはほぼ解消したし、何よりも気力が戻ってきたのが嬉しい。
それに東京到着の日程が具体的に見えてきたことも励みになっている。距離的にはまだ130km程度残しているので、これまでの平均速度からすると4日で到達するのは厳しいが、最後だから多少の無理も利くだろう。病み上がりの不安はあるものの、短時間で思い通りに体調を快復できたことで、自分の体力に対する自信は更に強固になっていた。

奇妙な言い方かもしれないが、自分の「身体感覚」にこれほどまで興味を注いだことはかつてなかった。生まれて初めて、自分の「身体」というものを日々実感している。
故障・快復・増強と推移する肉体。雨や晴れ、気温や湿度、空気の変化を感じ取る肌の触覚。風の色、水の匂い、光の柔らかさ、さまざまな現象を捉える目耳鼻舌。そして地図の上ではなく、地面から直に読み取る距離感……。すべて、この身体を主体として測られる事象である。頭で考えたことや空想しただけの事柄と違って、常にこの身体で「確かな」感触を得られることが何よりも面白いし、日々の励みにもなっていた。
荘厳な山やのどかな山里、神秘的な森、猥雑な市街地、そういった新鮮な風景に出会えることも旅の楽しみではあるが、今はこの「歩くこと」自体が不思議に興味深い。何よりも一番身近な自分の「身体」が、一番面白いのだ。
……ちょっと、長旅でおかしくなってきたかな?
しかし、そもそもこういう身体感覚を忘れてしまっていた日常の方が、不自然な生活だったのかもしれない。

甲府を過ぎ、東に向かって古い市街地を進むと、空が広くなって陽射しも益々容赦なく照り付けてきた。
善光寺駅に立ち寄って荷物を降ろし、タオルを出して汗を拭く。もうこれから先はフリースは要らないかな。
駅前の坂道を覆う桜並木もすっかり葉桜で、道路に映るその濃い影が早くも初夏のようなざわめきを帯びている。いつまでも春の旅のつもりだったが、気が付くと季節は急速に移ろい始めていた。

 

11:00石和温泉着。
山梨県は全域に温泉がたくさんあるが、ここ石和は甲府に近い市街地のものとしては、最大クラスの温泉郷だ。駅前はそれほど開発されていないものの、笛吹川に沿って大きなホテルが堂々と軒を連ねている。宿を探しに駅の観光案内所へ向かうと、さすがにゴールデンウィーク前の土曜日とあって、観光客やタクシーがざわざわとひしめき合っていた。

「え、お一人ですか?……普通の宿だと1万5千〜2万円はしますよ」
「エ゛!? いち゛…まん…」
「いくらくらいでお探し?」
「……その……、せめて5000円くらいで……」
「え?なんです!?」
「いえ、ですから、その……」

これはもう、石和で一泊するのは無理だ……。ザックを背負いなおして案内所を出ようとすると、おばさんは色眼鏡を指先でクイッと持ち上げながら、パンフレットの山を探り出した。

「あ、あのねぇ、こちらのビジネスホテルさん、観光組合には所属してらっしゃらないんだけども、一応温泉は引いてるらしいから問い合わせてみたら?他よりは安そうよ」
「え、いくらくらいですかね?」
「さぁ……。最近の値段は分からないけど……。多分6000円くらいでも泊まれるんじゃないかしら? 昔学校の先生が独りで温泉を掘り当てたらしいの。駅の北側だからあんまり人気がなくて、それもあって安いみたいよ。あ、アナタもしそこへ行ったら、『案内所に置くパンフレットがもうないから、余ってたら少し持ってきてちょうだい』って伝えておいて。あ、このパンフレットは最後の1部だから上げられないわよ」

有名観光地のプライドか、随分高慢な態度にも思えたが、とにかく安宿を紹介してくれたので礼を言って出る。
ぼくにとっては、一晩だけの布団が確保できればナンだっていいのだ。駅前の人の流れを見ていると、午後になればどんどん宿が埋まっていってしまいそうなので、とにかく早速そこへ電話してみることにした。


「もしもし? あの、観光案内所で教えてもらった者ですが……」
「……ふぁ……へ…………」
「え!? あの、もしもし?」
「…………オカーサーンッ!!」

なんだ、子供か。いくら安いといっても、それなりに警戒して選定しないとヒドイ目にあうからな……。
下諏訪以来、宿の予約にはかなり慎重になっている。

「あ、はい。スミマセン。代わりました」
「今晩一人なんですが、空いてますか?」
「ええ。あ、えっと……、はい。大丈夫ですよ」
「おいくらですか?」
「シングル4500円です」

4500!? 案内所の説明より全然安いじゃないか。つい、嬉しさで警戒感が弛んだ。

「あの、今から伺います!部屋は入れますか?」
「チェック・インは16:00からなんですが……」

今日はここで荷物を置いて、一気に笹子峠を越えてしまおうと考えていた。あと4日でゴールしようと思えば、そのくらいのペースでちょうどくらいなのである。だからチェック・インは出来なくても、荷物だけはフロントで預かってもらわなきゃ困るなぁ……。
そのビジネスホテルは駅の北側、田んぼや平屋の民家が立ち並ぶ静かな場所に佇んでいた。南側の温泉街の賑わいはどこにもなく、ただの田舎道がひょろひょろっと一本伸びているだけである。あまりの淋しさに、近づくにつれだんだん不安が募った。

「……あの、ごめんください」
「……はーい……。あ、はい。お待ちしておりました」

フロントに出てきたのはTシャツ姿の太った中年男だった。どうやら、さっき電話に出た女性のご主人らしい。
彼は小さな紙に名前と住所を書くように言ったあと、すぐさま鍵を渡してきたので驚いた。

「え? あの、16:00前でもいいんですか?」
「ああ……、構いませんよ。お客さん、いませんから。なんだったら部屋替えもできますが」

なんとも不思議な気分で、渡された鍵の部屋へ行く。中は四畳ほどの洋間で、ベッドとテレビだけの簡素な部屋だった。ぼくとしては荷物が置ければとくに不満はない。ちょっと倦怠感のただよう鄙びたビジネスホテルだったが、一応お風呂は温泉だし、一晩寝るだけだからと簡単に割り切った。いずれにせよ、これで一安心だ。
12:00、ザックからカメラと地図だけ出し、靴を履き直して再び出発する。鍵をフロントに預けようとすると、さっきの主人はロビーで子供たちとテレビゲームに熱中していた。

「……あ、はい、鍵ね。いってらっしゃい」

彼は一応鍵を受け取ったものの、そのままフロントの隅に放り投げてしまった。
……この旦那さんで、女将さんは随分苦労してんだろうな。さっき電話でチェック・インのことなどを口にしたのも、女将さんなりのプライドだったのかもしれないな、などと要らぬ詮索をしながら足早にまたさっき来た道を戻る。
陽射しはますます強烈に、真上から降り注いでいた。

 

川中島より笛吹川を渡ると、一宮、勝沼と甲府盆地独特の葡萄畑が一面に広がる丘陵地が続く。道は国道を逸れて、両側に葡萄棚とワインの即売所を見ながら、東へまっすぐに貫通するルートをとる。また気の滅入る直線道だったが、一帯はどこを通っても同じ葡萄棚ばかりなので、ここは最短距離で突っ切りたかった。
陽射しを遮るものがなく、相変わらず汗だくになって歩く。そんなとき、露店にズラリと並べられたカラフルなフルーツジュースの瓶はたまらなく魅惑的だ。車だったらお土産に買って帰るのになあ、と舌打ちしながら、遙か前方に屹立する山を目指して進んだ。
あの山を越える道が笹子峠で、その先は大月、そしていよいよ東京……。はやる気持ちが足に鞭打って勢いづかせる。昼を過ぎても体調は問題ないので、昨日までの風邪はもう心配しなくて大丈夫だろう。鼻は相変わらずムズムズするけれど、これは多分花粉と排ガスによるアレルギーだ。もはや慢性化してしまっている。
それより目下の課題は、果たして今日中に笹子峠を無事越えられるかどうかということだ。地図で見る限り、勝沼側の登り口から大月側の降り口までは、およそ10km程度。山道を考慮して、約3時間の道のり。まだ14:00過ぎだから、このまま順調に行けば日没ギリギリに大月側の笹子駅に出られるはず。しかし、峠道にはこれまで何度も泣かされてきている。一筋縄ではいかないのが峠越えの常だから……。
延々と直線が続いた丘陵の坂道もようやく登り切り、国道20号線との合流点、すなわち甲府盆地の東端に達したのは予想より早い15:30であった。


(あれ、この道は地図にないな?)

丘陵を登ってきた道は、国道と中央道の下をくぐって尚もまっすぐに伸びていた。笹子峠に向かって同じ日川の谷筋を登っているが、一方は右岸、そして歩いてきた道は左岸に沿って続いている。もう一度地図を確かめてみたが、やはりこの道は書かれていない。どうだろう……、接続しているかしら?
R20は、中央道・JRと共にそれぞれ笹子峠をトンネルで抜ける。しかし距離が長いのでおそらく人は入れないはずだし、入れたとしても何kmも排ガスの中を歩くのは御免だ。だから仕方なく峠越えに挑むわけだが、地図で見る限り、中腹の甲斐大和までは人も車もR20しかルートがないと読み取れる。もしこの田舎道が中腹までのサブルートならば、排ガスを避けられるだけでなく多少のショートカットにもなりそうだ。

(……行ってみなくちゃ、分からんな。)

ここまで順調に飛ばしてきたので、このままの調子で一気に行きたい。
ぼくは少し考えたが、復活した勢いと勘に賭けてみることにした。

坂道は最初段々畑の丘を登り、やがてまた緩やかな葡萄棚の丘陵に出た。そしてしばらくは中央道をフェンス越しに見下ろしながら、徐々に高度を上げていく。予想通り、道はずっと細々ながらメインルートに沿って繋がっていた。
……しかし油断大敵、やはり峠越えは一筋縄ではいかなかったのである。

 


「ああ゛!!!! そんな、アホな……」

まったく、想像もしない結末だった。なんと、目の前で道がなくなっていたのである。
単に道が木々で覆われて隠れている、とかではない。今歩いてきた道はまだ造成途中だったらしく、あるところで突然岸壁に遮断されてしまったのだ。
一体、どこで間違えた……?ずっと一本道だったから……。え? ひょっとして、あのR20合流点まで戻らなきゃならないの!?あれから……あれから、もう1時間半は登って来ている。麓へ戻るだけでも日が暮れそうだ……。
絶望に打ちひしがれながら、必死で打開策を練った。ミスルートをしたとはいえ方角は間違っていないはずだから、ここから林道を探して笹子峠の本道へ接続できないか……?
いや、待て。笹子峠に向かっているつもりだったけれど、ミスルートに気づかなかった以上、今現在どこにいるのか正確には確認できないじゃないか。あたりは一面、人の入る気配もない深い原生の森だ。もし更に山に入って迷ったら、それこそ最悪の事態になる。陽も傾き始めているし……。
しかし、そう簡単には引き返す気持ちにもなれない。何せもう眼下には遙かに甲府盆地が一望できるほど、相当な高度まで登ってきているのだ。この登山が徒労に終わるとは、考えたくもなかった。
途方に暮れる、とは正にこのことだな……。しばらくはそこに座り込んで立てなかった。
ところが、

「……●△?>*×■!!!!!!!」

ヘビ、蛇!
突然、すっとんきょうな悲鳴と共に立ち上がり、ぼくは一目散に元来た道を駆け下りた。
一瞬しか見なかったが、赤と緑の斑模様に覆われた長い胴体が、目の前で不気味にぬめって……。その強烈な映像が脳裏に焼き付いてなかなか離れない。さっきまで平気だった山も、途端に蛇の巣窟のように思われて、全身の毛がゾワゾワとよだってくる。一刻も早く麓まで飛び降りたかった。

ツイてないな……。
走るのにも疲れてまたトボトボと道を下っていたとき、ふと道端に停まっている車に目が止まった。

(……人がいる?)

あたりを探してみると、果たしてその車の主は崖の影で小用を足しているところであった。

「あの、スミマセン。笹子峠はこの道じゃないみたいですね……?」
「ナニ? 笹子峠? 全然違うよー! ……兄ちゃんどっから歩いてきた?」
「はい、その……、奈良です。奈良県」
「奈良!? なんだ、つまり、道間違えたってか。……下まで乗せてってやろうか?」
「い、い、いいんですかあ!!!」

もう、そのヨロコビといったら、しがみつかんばかり!
正直に言えば、車を見つけた瞬間に、同乗させてもらえないかという下心が既に疼いていた。しかし自分からお願いする前に相手からそれを言われて、堰を切ったように安堵感が顔に表れてしまったのだ。思わず満面の笑顔になったぼくを見て、浅黒く日焼けしたまんまる顔の親父さんも、ついつられてニッコリと白い歯を見せた。


「……そう。ここへ来るヤツはみんな山菜採りだよ。今はね、タラノメ。天然物は天ぷらにすると香がプンときて、美味いよ!東京あたりじゃ全部養殖物だけどサ、天ぷらにすると、天然物は全然違う。さっき籠持ってたヤツがいたろ?沢の奥に。あれはプロだ。飲み屋なんかに卸すんだけど、コレ(親指の先を指して)くらいのが3つばかしで、600円くれぇするな。今じゃ下の方は全然採れねぇからよ、奥へ、奥へとな。こうやって山を切るヤツ(道路工事や営林署)がいるだろ?そしたらみんな、その話をどっからともなく聞きつけて、3年経ってから来るんだ。ゾロゾロと(笑)。そう、木の高い森じゃ、バラの木が育たない。ちょうど山を切ってから3年目。バラの木はすげぇトゲがあるから、鎌やなんかで芽の先だけチョット切るんだ。でも道沿いのは素人が枝ごと切っちまうから、枯れちゃうんだよな。3〜4年は毎年採れるのにな。うん、オレも店やってるのさ。甲府で。企業向けの弁当を出してるんだよ。年に1〜2回、山へ来て天然物を採ってな、チョコッと(弁当に)入れると、そりゃ喜ばれるんだヨ。……あの向こうにハゲ山があるだろ?あそこは3年前に山火事で燃えたんだ。最初はワラビ、それからタラノメだ。そこの別荘地あるだろ?そう、メルシャンの葡萄園に繋がってるんだけど、フェンスが年に何回か開けてあってサ。そん時入んだよ。いい山があってね。だけど帰りに柵が閉まってたらタイヘンだ。携帯電話でメルシャンに掛けて助けてもらうんだけど、グチグチ言われてヨ(笑)。だけど元々ただの道なんだから、入れてくれたっていいのにな。ホラ、こっから国道沿いだ。途中まで送ってってやろうか?そうか、ズルは出来ないってか。あ、飴玉、1個しかないけどやるよ。じゃ、頑張ってなー」

親父さんの山菜採りの話は、身近なのに全然知らない世界だった。弁当の具ひとつをとっても、いろんなドラマがあるんだなぁ……。それに、ぼくはまだそのタラノメを食べたことがない。いつか粋な小料理屋で天然物のタラノメの天ぷらを食べてみたい、と強く心に思う。

さて……。
眼前の現実に意識を戻すと、そこは約2時間前、賭けに失敗した分かれ道。ここでまともに国道を行ってりゃなぁ……。もう陽はかなり落ちて、今日中の笹子越えは絶望的だ。峠越えが明日になるとすれば、予定も大幅にずれ込まざるを得ないだろう。ぼくは分岐点に立って、改めてショックを噛み締めなければならなかった。
でも。もしここで間違わずに行ったならば、あの親父さんにも会えなかったし、タラノメの話を聞くこともできなかったのだ。結果的には、貴重な体験をすることができた。山ひとつ分のミスルートも、単なる無駄じゃない。

(禍転じて、だな。)

一度気持ちが切れかけたものの、おかげで気力もまた戻ってきた。
ぼくは親父さんにもらった那智黒飴を舐めながら、靴紐を締め直し、今度はちゃんと国道に沿って歩き出した。

 

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