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内容項目 |
1.前方後円墳が生まれた背景−なぜ巨大古墳が造られたのか− [⇒ 本文] |
1.1 弥生時代の終焉と前方後円墳の出現/ |
1.2 前方後円墳の特性/1.3 古墳時代のはじまりと終わり | 2.個性的な墳形−築造企画の存在− [⇒ 本文] |
2.1 前方後円墳は日本発/2.2 前方後円墳の築造企画 |
3.墳形の変遷 [⇒ 本文] |
3.1 前方後円墳の型式学/3.2 型式の変遷/3.3 古墳の航空観察 |
4.墳丘の内部と外部 [⇒ 本文] |
4.1 棺と石室/4.2 副葬品/4.3 埴輪 |
■ 前方後円墳こぼれ話 [⇒ 本文] |
【参考文献】 [⇒ 本文] |
1.前方後円墳が生まれた背景 −なぜ巨大古墳が造られたのか−
1.1 弥生時代の終焉と前方後円墳の出現
1.2 前方後円墳の特性 弥生時代においては,首長を葬送する様式(葬儀のやり方)は地域によって画一的ではなく,それぞれ個性があった.前方後円墳は,こうした各地域の葬送様式を統合して新たな様式を創出したシンボルとして築造されたと考えられる.その理由としてつぎの4点があげられる.
1.3 古墳時代のはじまりと終わり 前方後円墳の時代,つまり古墳時代が,いつ頃からはじまったのかについて昨今見解が分かれている.従前,4世紀初頭に箸墓古墳が築造されたとみて,古墳時代のはじまりをその頃としていた.箸墓古墳を古墳時代開幕のマーカーにしているからである.しかし,昨今箸墓古墳の築造をさらに古く考えようとする動きが活発である.当然それにともなって古墳時代の開幕も3世紀中頃,あるいはもっと以前にまで遡上させる動きにまでなっている. 卑弥呼が没した年代は,3世紀の中頃(248年)であるが,前方後円墳を邪馬台国と直接関連づけようとすると,古墳時代の開始が4世紀では時代が合わず都合がわるいというのが新説の動機になっているようである.一方,情報学の立場から古墳時代の開始を従前より逆に新しくみようとする見解もある.いずれにせよ,箸墓古墳が古墳時代の開始を象徴する最古級の前方後円墳だとする点には誰も異論をとなえていない. 箸墓古墳の築造が西暦でいえば何年頃なのかといった絶対年代の検討については,『古事記』と『日本書紀』(記紀と略記する場合がある)に記載されている干支年(60年周期)の分析が必要になる.この問題をめぐる最新の研究成果については,最新研究のページで紹介しているので,関心のある方は目を通してください. 古墳時代をいくつかの時期に区分する方法については,「集成編年」として知られる10期分割法(1期〜10期)がある[10].本サイトでは,これまで慣習的に用いられてきた3期分割法(前期・中期・後期)を用いている. 古墳時代後期がいつ頃終わりになったかは,明瞭ではないが,6世紀末頃がおよその終焉の時期と考えられる.前方後円墳が大和で発祥し,大和の支配圏の拡大にともなって全国に波及した理由は,葬送祭祀の形式を呪的な権威の象徴として共有させることによって支配力を維持しようとしたためとみられる.しかし,古墳時代の進行とともに,人口の増加が進み,それにともなって軍事力や生産力も次第に強化されていった.その結果,呪的権威に依存することなく実質的に支配力を維持できる体制が確立し,もはや呪的権威の象徴としての前方後円墳の意味が薄れ,しだいに築造の槌音が消えていったと考えられる. [⇒ ページトップ] 2.個性的な墳形−築造企画の存在− 2.1 前方後円墳は日本発
仁徳天皇陵(大山古墳)を例にとれば,古墳時代という時間でみたとき,日本最大のみならず世界最大規模の墳墓であって,古代日本の土木工学の技術水準がきわめて高度であったことを歴然と示している.そもそも,あらゆる先進文化は海外からもたらされたとする「思いこみ」で古代を考えるのは明らかな間違いであって,古墳時代に限らず日本列島内では先進的な文化・技術が間断なく創出されてきた. 縄文時代でさえ例外ではない.日本列島でつくられた縄文土器は,世界最古の土器(1万年前)なのである.さらにいえば,青銅という金属器が中近東地域で発明され,ユーラシア大陸を経由して日本に伝わったのは弥生時代であるが,かなり早い時期に銅鐸という立体的で複雑な形状の青銅器(大きいものでは高さ1.35メートル)の製造技術を完成させている.古代日本の,もの作りにおける技術水準の高さにはいつも驚かされる.奈良時代に世界最大の青銅の大仏を鋳造できたのも,こうした高度な技術基盤がしっかりと出来上がっていたからである. 2.2 前方後円墳の築造企画 前方後円墳の築造とは多大な労働力を要する土木プロジェクトであって,企画段階から出発して数多くの中間段階を経て墳丘の完成にいたったはずである.工事の流れは現在の土木プロジェクトと同じであろうが,当時は現在のように重機などの機械類やレーザ測距儀のような優れた計測器類もない状況であったから,完成までには想像を超える時間と労働量が必要だったはずである. 前方後円墳築造において,もっとも中心的な役割をはたしたのは,おそらく墳形の詳細や各部位の寸法などの情報が記載された,いまでいう「設計図」に相当するものであったろう.残念ながら「設計図」とみられる物証は考古学的に検出されてはいない。実際に図面の形で存在したかどうかも不明である.前方後円墳の型式学の創始者である上田宏範氏は,このあたりの状況を考慮して,「設計」という言葉を慎重に避け,「築造企画」と表現された[11].ここでは,上田流の表現法をそのまま踏襲する. 築造企画全体がどのように記述されていたかはもちろん不明であるが,その基本部分は,後円部の直径や高さなど幾何学的な形状の情報であったとみてよい.現時点でそうした情報を知る手がかりになるのは,前方後円墳の実測図である.といっても,実測図は築造後およそ1500年以上経過した墳丘の現在形を忠実に計測して図化したものであるから,各所に自然変形や人為的変形もみられ,築造企画を推測するのは容易ではない.このため,前方後円墳の型式学的研究では,何らかの仮説にもとづいて実測図を計測し,築造企画(形状の情報)を推測する手法が用いられている[11][12][13].[⇒ ページトップ]
前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」,矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって,前期古墳にあっては,前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている.前方後円墳の築造企画は,前期から中期へ,さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが,とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる.くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる.左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが,前方部の巨大化にともなって,前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる. [⇒ ページトップ] 3.墳形の変遷 3.1 前方後円墳の型式学 一見すると,前方後円墳はどれも同じような形にみえる.そのため一括して前方後円墳と名づけられているわけである.しかし,詳細にみていくと,墳形には微妙なちがいが認められる.このことに注目して型式学をはじめたのが,上田宏範氏である[11].上田氏は,このちがいは築造企画のちがいに由来すると考えて,つぎのように墳形のちがいを数量化する図法を考案して前方後円墳の7つの型式をみちびいた.
まず実測図にある墳丘の外郭線を復元的に修正した外郭線を作図し,それにもとづいてB,C,P,Dという4つの定点をもとめる.ここで,BC:CP:PDのように3つの線分の3連比を算定する.上田氏は,3連比が近い古墳をおなじグループに分類し,前方後円墳の7つの型式をみちびいたのである.上田流の型式学は,いまなお考古学における前方後円墳研究に強い影響をおよぼし続けている.
a/b, c/b, d/b を算出する.a/bを相対墳丘長,c/bを相対くびれ部幅,d/bを相対前方部幅と呼んでいる.3つの相対値をみちびくまでの一連の作業は,すべてパソコン画面とマウス操作によって行われる. 多数の古墳についてそれぞれ3つの相対値を算出すると,統計分析をはじめとする数理的分析がパソコンで可能となり,前方後円墳の築造企画についての傾向分析や型式分類が可能となる. くびれ部幅を後円部径で割り算して得られる相対くびれ部幅(c/b)が,前期古墳に限ってみれば,築造年代に比例して増大するという傾向が明らかになっている.たとえば,上図の横軸は,記紀に記載されている順序(年代順)に陵墓を配列し,それぞれの相対くびれ部幅を縦軸にとったグラフである.右にいくほど相対くびれ部幅が増大していることがわかる.現行の陵墓治定の適否はともかくも,相対くびれ部幅の意味ではこれらの古墳は年代順になっている. 3.2 型式の変遷 情報学的手法によって導出された前方後円墳のタイプ(型式)は,上田流とおなじく7つである.多少のちがいはあるが,タイプ別にグループ化されている古墳を両者で比較すると,かなり似かよった内容になっている[11][14].[⇒ ページトップ]
上図は,情報学的手法による7つのタイプを畿内大型前方後円墳(33基)にあてはめ,各タイプの編年観を考慮して変遷過程を描いたものである.以下では,各タイプの特色について順次解説する.
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[⇒ ページトップ] 3.3 古墳の航空観察 前方後円墳の築造企画の研究,すなわち型式学の出発点は,実測図である.墳丘を実地測量したデータを,等高線を用いて図化したものが実測図であるが,これが型式学の出発点になる理由は,墳丘の現形を正確に観察できるからである.考古学において,質のよい実測図,とくに陵墓古墳を含む大きな前方後円墳の実測図に研究者が接することができるようになったのは,第二次大戦後しばらく経ってからであった. 末永雅雄氏が,宮内庁書陵部管理の天皇陵など主要な陵墓古墳の実測図を掲載した有名な『日本の古墳』を1961年に出版したのである[16].これが契機となって,前方後円墳の形態研究が大きく開花したといっても過言ではない.上田宏範氏の研究のスタートもまさにこの時期である.
古墳研究に航空観察を導入されたのは末永雅雄氏が最初であって,研究史上のマイルストーンとなった.航空観察では多数の写真も撮影されている.高度成長期の都市開発によって古墳の周辺環境が激変する以前の写真であって,資料的価値の高い写真群である.これらの写真とともに陵墓古墳の実測図も収録した大著『古墳の航空大観』[17]を出版された. 右の写真は末永先生が撮影された和泉黄金塚古墳の写真であるが,現在は墳丘を囲む周囲が保護区になっているためか,樹木が繁茂して墳丘の形状が目視できない状況である.[⇒ ページトップ] 4.墳丘の内部と外部 4.1 棺と石室 遺骸を納めるための容器を棺(ひつぎ)という.材質によって木棺や石棺などがある.また,その形状によっても割竹形,家形,長持形,舟形などに分類される.
石室は棺を保護し,永く保存するために設けられる施設である.大別して竪穴式石室と横穴式石室に分けられる.竪穴式石室は前期にみられる形式であって,墳丘頂部を方形にオープンカットし,四方の壁を積み石などで養護し,その中に棺を納めた後,天井石で上部開口を閉じ,さらに盛土して完全密封する形式である.中期以降に現れる横穴式石室は,石室への入口が墳丘側面にあって扉の役割をする大石を開閉して追葬を可能とする施設である.横穴式石室は,棺を安置する玄室,および玄室への通路となる羨道からなり,全体が石積みによって構成されている.
石室と役割の似たものに槨(かく)がある.石室との区分は, 棺との間に相当の空間がある場合は「室」,ない場合は「槨」としている. しかし,その空間のサイズにはっきりした基準はなく,厳密には区別がむつかしい.槨をつくる材質によって粘土槨,木炭槨,礫槨,石槨などに分類されている.魏志倭人伝に,倭の墓づくりの特徴として「棺有れども槨なし」と書かれているのは有名である.卑弥呼の時代には,棺をそのまま土中に埋めていたということであろう.[⇒ ページトップ] 4.2 副葬品 副葬品とは,遺骸と一緒に埋納される品々のことである.個々の古墳によって,副葬品の内容にちがいがあるのは当然であるが,比較的多くの前方後円墳に共通してみられる副葬品としては,鏡,玉,剣のセット(またはその一部)がある.そのほか,古墳によって装身具類(玉類,冠帽,耳飾り,指環、その他),武器,武具,馬具,農具,工具,漁具,石製品,金属品,あるいは土器類などの副葬がみられる. 埼玉県の稲荷山古墳から副葬品として出土した鉄剣のレントゲン撮影によって,さびに埋もれていた金象嵌の115文字の銘文が浮かび上がった[18].1978年のことであった.緊急解読の結果,雄略天皇治世下471年に,武蔵の首長クラスの乎獲居(おわけ)の臣がしるした銘文であることが判明し,大きなニュースになった. 稲荷山古墳からはこの鉄剣のほか、勾玉と鏡(画文帯~獣鏡)が出土している.そのほか多種の武具も出土している.本サイトの写真ギャラリーには,復元整備された稲荷山古墳の現況写真が収録されているので興味のある方はご覧ください. 稲荷山古墳からは出土していないが,畿内を分布の中心とする三角縁神獣鏡が有名である.かつて,三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡として一世を風靡したが,いまでは学界でもそういう見解は少数派になっている.1997年,箸墓古墳の近くにある黒塚古墳から33枚という多量の三角縁神獣鏡が出土したが,すべて棺外におかれていた.一方,棺内に1枚の画文帯~獣鏡がおかれていた.被葬者の頭部近くにである.このことは,2つの鏡に格差があり,棺外におかれていた三角縁神獣鏡は単なる葬具として用いられた格下の鏡であって,いわれていたほど高貴なものではないとの見解が広がっている. 4.3 埴輪 墳丘上に配置される埴輪は,考古学では大きく2つに分類されている.円筒埴輪と形象埴輪である.円筒埴輪につては最古級の箸墓古墳の時代から一貫して用いられている.もっとも古いものは吉備(岡山県)起源とみられる特殊器台形埴輪であるが,その他の円筒埴輪として坪形埴輪や朝顔形円筒埴輪などがある. 一方,形象埴輪は古墳時代のさまざまな事物の形を模したものであって多彩である.具体的には,家形埴輪,器財埴輪(武器,威儀具,舟ほか),動物埴輪(犬,馬,鳥ほか),および人物埴輪(兵士,女性ほか)がある. 『日本書紀』には,埴輪の起源とされる伝承が描かれている.要約するとつぎのような内容である.「垂仁天皇28年に,天皇の同母弟である倭彦命が薨じられて埋葬された.このとき,近習の者を集めて全員を生きたままで陵のまわりに埋め立てた.数日たっても死なないで昼も夜も泣きうめいた.やがて死んで腐り悪臭がただよった.天皇は悲しまれ,今後は殉死をやめるように仰せられた. その後,皇后日葉酢媛命が薨じられたとき,天皇は殉死をともなわない葬礼を諮問された.能見宿禰(のみのすくね)が出雲国の土部(はにべ)を使って埴(はにつち)で人や馬などのものの形を作って天皇に献上し,以後,この土物(はに)を陵墓に立てることを提案した.天皇は喜ばれて了解された.その土物をはじめて日葉酢媛命の墓に立てた.そしてこの土物を名づけて埴輪とした.」(文献[19]の垂仁紀から抜粋して要約) この伝承にいう「埴輪」とは,いまでいう形象埴輪だけをさしているわけで,円筒埴輪でないことはあきらかである.当時,円筒埴輪は埴輪とはいわず,墳丘上に配置する祭祀用(もしくは土木工法用)の土器として別の言葉でよばれていた可能性が高い. 物証を重視する考古学では,前方後円墳に殉死の形跡が検出されていないため,殉死はなかったとみなされ,垂仁紀の埴輪伝承は史実とはみなされていない.ただ,倭彦命の墓における殉死の描写にはかなりのリアリティがあり,すべてつくり話として切り捨てるには抵抗感がのこる.3.2節に述べた墳形タイプでいえば,日葉酢媛陵より古いタイプ(箸墓タイプおよび桜井茶臼山タイプ)の古墳から形象埴輪は検出されていないが,日葉酢媛陵から形象埴輪が検出されていることも気になる点である(日葉酢媛陵としての治定の是非はあるが). [⇒ページトップ]
■■ 前方後円墳こぼれ話 ■■ 考古学や古代史学といったいわゆる学術的な視点から離れて,ごくふつうの目線でみたときの前方後円墳を考えるコーナーです.もちろん,歴史認識にも役立つことを意識しながら,とりあえず3つの話題をとりあげてみます.さらにおもしろい話題があれば,どんどん追加していきたいと思います.ご提案があれば,編集室までご連絡ください. ■前方後円墳の大きさランキング
前方後円墳の大きさのランキングを考える場合,何をもって「大きさ」とするかをまず決めなければなりません.これまでよく用いられてきた大きさの基準は墳丘長です.つまり,墳丘主軸線の長さですが,実測図上で墳丘部に定規をあててこの長さを読み取り,縮尺を利用して換算すれば,墳丘長をもとめることができます. 一方,墳丘長とはちがう大きさの基準を考えることもできます.たとえば,墳丘の底面積(広さ)や体積なども大きさの基準になりえます.さらに,墳丘のみならず周濠やそれを囲む土堤にまで範囲を拡大して大きさを考える方法もありえるでしょう.問題は,墳丘長以外のこうした基準を用いるとなると,計算法が煩雑になって簡単に数値を計算できないという難点があります.墳丘長を使ってきた理由は単純であって,計算が簡単で楽だからということです. とりあえず,墳丘長による前方後円墳の大きさランキング(10位まで)を表の形で示しておきます.書籍によって大きさの順序が若干ちがうこともありますが,実測図にある等高線の読み方に原因があるとみてよいでしょう.じつは,等高線の読み方がちがったことが原因で,順序が入れ替わる(1位と2位の逆転)という事例があるのです.つぎの話題です. ■体積最大の前方後円墳はどれか?
大雑把にいえば,墳丘長が大きい古墳は墳丘体積も大きいといえます.前掲の表にあるように,仁徳陵は墳丘長486mで1位,応神陵は416mで2位です.ところが,長い間「墳丘長でいえば仁徳陵が最大だが,体積では応神陵が最大だ」という見解が通説となっていて多くの書籍にそう書かれていたのです.たしかに仁徳陵と応神陵の墳形を見比べてみると,仁徳陵はややほっそりしているのに対して,応神陵はずんぐりとしていて重量感のある感じがするわけです.だれも墳丘体積を計算したことがないので,通説に疑問をもつ人はいなかったのです. この通説の根拠とされたのは,1955年に宮内庁書陵部紀要に掲載された京都大学の梅原末治氏の論文でした[20].結論からいうと,この論文に書かれている体積計算に誤りはないけれども,等高線の読み方に問題があることが判明したのです.梅原氏は,なぜか仁徳陵の実測図に描かれている墳丘の等高線のうち,下位3本を墳丘とみなさず,4本目以上を墳丘とみた場合の体積を掲げていたのです.下位3本を墳丘とみなさなければ,当然墳丘長も短くなるはずで,梅原論文では墳丘長は475mとなっています.梅原論文の計算値をまとめると,つぎのようになります. 【梅原論文】 仁徳陵:墳丘体積=137万立方メートル(墳丘長=475m) 応神陵:墳丘体積=143万立方メートル(墳丘長=416m) 仁徳陵の墳丘長は,前掲の表にもあるように以前から486mとされてきました.というより,実測図にある最下位の等高線以上を墳丘とみなせば,だれが計算しても486mになります.475m説はかなり少数派で,近年の書物等でみかけることはなくなりました. 一方,2つの古墳の墳丘体積をコンピュータで計算するとつぎのようになり,仁徳陵が,墳丘長および墳丘体積ともに応神陵を凌駕することになるのです[14][21]. 【コンピュータ】 仁徳陵:164万立方メートル(墳丘長=486m) 応神陵:140万立方メートル(墳丘長=416m) 墳丘体積で応神陵が仁徳陵を超える,という結論をみちびいた梅原論文とコンピュータ計算とのちがいは,等高線の読み方のちがいにあることが明らかになりました.どの等高線までが墳丘なのかという判断は,研究者の裁量にまかされることも多いので,どちらかに軍配をあげることはできませんが,書物によって「仁徳陵は墳丘長486mで最大だが,墳丘体積では応神陵が最大である」としているのは明らかなまちがいです. 近年になって,墳丘の段築の観点から,仁徳陵の場合には等高線の読み方に自由裁量はありえないことが明らかになりつつあります[22].実測図で水没している等高線までを墳丘とみなければならないことと,そうなれば墳丘長は500mを優に超えるだろうという予測がなされています. [⇒ ページトップ] ■最北端・最南端の前方後円墳
日本人は,とにかく地理的に端っこにある場所に関心があり,半島の先端に行くことが大好きな人も多いと思います.そういう目線で考えた場合,まず思い浮かぶことは最北端,最南端にある前方後円墳はどれか,ということでしょう.日本列島は南北に長いですから,最西端や最東端はあまりおもしろくないですから. 最北端と最南端の古墳をみつけるには,当サイトのデータベース検索を利用するのが便利です.北方では,北海道,青森県,および秋田県に前方後円墳がないことがわかっていますので,最北端は岩手県にあるはずです.岩手県の古墳を検索するとたった1基しかありません.その1基のデータをみると,角塚古墳といって,奥州市胆沢町にあってJR東北本線水沢駅の西方5kmぐらいのところにある古墳であることがGoogle地図ですぐにわかります.この古墳の詳細なデータも全部表示されますが,その一部を紹介します.築造時期は後期,墳丘長46m,後円部径30.4m,くびれ部幅13.6m,築成段数3段,葺石や埴輪があることなどがわかります. 角塚古墳へは,JR水沢駅からタクシーで行くのが便利です.道すがら,このあたりは後の桓武天皇の時代に,征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城を築いたところだろうか,などと想いをはせている間に,前方左側に角塚古墳が見えてきます.タクシーを降りて,古墳のまわりを散策してみましょう.
最南端の古墳をみつけるのもデータベース検索が便利です.最南端の前方後円墳が鹿児島県にあることがわかっていますから,鹿児島県の古墳を検索し,Google地図を利用して最南端の古墳をみつければいいわけですが,データの不備もあって最北端の角塚古墳のように簡単ではありませんでした.試行錯誤をくり返してようやくみつけた最南端は,肝属郡新富花牟礼小原にある塚崎39号墳(花牟礼古墳)という前方後円墳です.墳丘長71m,後円部径45m,くびれ部幅26m,葺石はあるが埴輪はみつかっていない,というデータが表示されます. 現地へ行ってみると,古墳は大きな集落の中にあってみつけにくい状態でしたが,なんとかたどり着いて写真撮影できたようです.写真の道路左側が墳丘です.遠くに人が写っていますが,そのあたりが前方部隅付近で手前方向にかけて前方部の斜面が続いています.写真のごく手前あたりが後円部に変わるくびれ部付近になります.後円部の全景は道路が狭くて撮影できませんでした. [⇒ ページトップ] 【参考文献】 [1] 西嶋定生『邪馬台国と倭国』吉川弘文館 2011. [2] 森 浩一『魏志倭人伝を読みなおす』筑摩書房 2010. [3] 平野邦雄『邪馬台国の原像』学生社 2002. [4] 都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』岩波新書 2011. [5] マーク・ブキャナン(水谷淳訳)『歴史は「べき乗則」で動く』早川書房 2009. [6] 小澤一雅「歴史と数理」第18回公開シンポジウム「人文科学とデータベース」論文集 2012. [7] 近藤義郎『前方後円墳の時代』岩波書店 1983. [8] 近藤義郎『前方後円墳の起源を考える』青木書店 2005. [9] 北條芳隆,溝口孝司,村上恭通『古墳時代像を見なおす』青木書店 2000. [10] 近藤義郎『前方後円墳集成(近畿編)』山川出版社 1992. [11] 上田宏範『前方後円墳〈増補新版〉』学生社 1996. [12] 椚 国男『古墳の設計』築地書館 1975. [13] 沼澤 豊『前方後円墳と帆立貝古墳』雄山閣 2006. [14] 小澤一雅『前方後円墳の数理』雄山閣 1988. [15] 小澤一雅「前方後円墳の墳形と築造企画」情報処理学会研究報告,2005-CH-65, 2005. [16] 末永雅雄『日本の古墳』朝日新聞社 1961. [17] 末永雅雄『古墳の航空大観』学生社 1972. [18] 埼玉県教育委員会編『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』1979. [19] 井上光貞(監訳)『日本書紀 上』中央公論社 1987. [20] 梅原末治 「応神・仁徳・履中三天皇陵の規模と造営」『書陵部紀要』5, 1955. [21] 小澤一雅『卑弥呼は前方後円墳に葬られたか』雄山閣 2009. [22] 小澤一雅 「前方後円墳の段築比に関する数量的分析」情報処理学会研究報告,2006-CH-071, 2006.
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