Angel Sugar

「「唯我独尊な男―零―1」 第2章

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 恭夜は恋人と別れた日から、落ち込んでいた。
 彼と別れた事実もさることながら、別れを告げられた日、自宅に戻ってから起きた出来事のせいだった。
 二人で暮らしていた部屋に恋人の姿はなかった。彼を思い出す衣服も持ち物もなく、同じように、共有家電までもごっそりなくなっていたのだ。
 愛が冷めるとこれほどまでに残酷になれるのだろうかと、恭夜はここしばらくずっと落ち込んでいた。
 もっとも冷蔵庫の中身は一緒に持ち出してくれてよかった。中身をフローリングに放り出して去られていたら、後始末が大変だった。と、恭夜はそう自分を納得させることでわずかだが慰めにしていた。
 そんな恭夜を見て不憫に思ったのか、キャリーが最近界隈にできた和食の店で、弁当を買ってきてくれた。
「これを食べて元気出しなさいね」
「……あっ、これ俺が気になってた弁当じゃねえか! キャリー、これ三百ドルする重箱のやつだぜ。気軽にもらっていい弁当じゃねえぞ」
「部のみんなにカンパしてもらったから、いいのよ。気にしないで」
「そっか……じゃあ、ありがたくもらうよ」
 金魚模様の風呂敷に包まれた二段重ねの重箱は高級感たっぷりだ。恭夜は自然と笑顔になっていた。
 CSIに入ったばかりの頃は嫌がらせもあったが、よくしてくれる人間に出会えたのもこの職場だ。恭夜にとってここがいまホームと呼ばれる場所になっている。
「実は俺、ここの弁当ずっと気になってたんだよな~」
 へらへら笑っていると、いつの間にか背後に立っていたオランドに、恭夜は首根っこを掴まれた。
「……まだここにいたのか、キョウ。お前、もうすぐ行動科学科の移動教室だろう。さっさと行け!」
「えっ、あ、はい。そうでした、ボス!」
 講義の日をすっかり忘れていた恭夜は慌てて立ち上がり、弁当を持ったまま、廊下に飛びだしていた。その足で会議室に向かった。
 移動教室の講義は捜査課が打ち合わせを行うときに使う会議室で行われた。優に百人は収容できる中規模の会議室で、大学の講堂のように、席が階段状になっていて、壇上に立つ者がどこからでもよく見える造りだ。
 会議室には三箇所出入り口があり、恭夜は後ろの席に近い扉から入った。話し声が一切聞こえなかったので、誰もいないのかと勘違いしたほど静かだったが、予想に反して中は受講者で一杯だった。
 それでも不思議なことに前は詰まっているのに、後ろの席は空いていた。恭夜は左右に誰もいない最後尾の列に座った。弁当は膝に置く。するとじんわりと膝に弁当の温もりが伝わって、恭夜は腹が鳴った。
 三百ドルもする弁当を、冷えるまで膝に乗せておくなど恭夜にはできない。この弁当は仲間のカンパで買ってもらったものだから、美味しいときに食べなければ彼らに申し訳が立たない。
 講師が立つ壇上から恭夜の席までずいぶん距離があり、弁当を食べていてもたぶん気づかれないだろう。問題は匂いだが、同じ列と前の列に人がいないので、それほど気にならないはず。
 早弁する学生はつきもので、恭夜も学生の頃こっそりジャンクフードを食べながら、講義を聴いたものだった。そういう経験もあってか、膝の上で弁当を広げることになんの躊躇もなかった。
 けれど包みを開いたところで、講師の助手らしき女性が携帯などの電子機器を提出するようにと廻ってきた。
 彼女はチラと恭夜の膝に乗っている弁当の包みを見て、冷ややかな視線を向けたが、それについて注意されることはなかった。
 きっといつもこの調子で、同じような不届き者の受講者がいるのだろう。眠たくなる講義にありがちな光景だ。いちいち咎めるのも面倒なのに違いない。
 恭夜は携帯を助手の女性に渡した。彼女は何も言わずに他の携帯と同じようにトレーに入れて、壇上へ戻って行った。
 しばらくすると、講師らしい男性が入ってきて、壇上に立った。
 女性が腰砕けになるという噂の講師に興味はあったが、今の恭夜には膝の上の弁当が最優先だった。
 包みを解いて重箱を開くと、まず目に飛び込んできたのはぶりの照り焼きだ。そしてふきと小芋の煮物、だし巻き卵に、かまぼこと、懐かしいものばかりで、恭夜はなんだか胸が一杯になっていた。
 日本を飛びだしてもうずいぶんになる。兄の恭眞は定期的に連絡をくれるが、両親とは絶縁状態だ。戻りたくても戻れない事情があった。
 恭夜は望郷の念に浸りながら、小芋の煮物を口に運んだ。出汁が十分浸みた小芋はとても柔らかく、優しい味だ。
 ああ……美味い。美味すぎる……と、感動に打ち震えつつ、一口サイズに握られた俵型の握り飯を頬張る。
 下の重箱には肉団子や唐揚げがあって、恭夜は肉団子を箸で掴み、口に運ぼうとした。
「……あの弁当食ってる奴……死ぬな」
 ヒソヒソと囁かれている声が、自分を差していることに気づいた恭夜は、顔を上げた。すると目の前に、まるでハリウッドスターのような美貌の男が立って、恭夜を見下ろしていた。恭夜は思わず箸に掴んでいた肉団子を落とした。
「…………」
 目前の講師だけでない。会議室にいる人の視線を恭夜は一身に浴びていることに、ようやく気づいた。
「え……あ……あの……」
 一つ席を挟んで前に立つ講師の男は、うす水色の瞳を恭夜にまっすぐ向けている。
 恭夜は未だかつてこれほどの美貌を前にしたことがなかった。
 綺麗なのだが女っぽくない。目鼻立ちは整い、彫りが深く、そのくせ繊細なのだ。淡い金髪は彼の美貌を際立たせているのに、うす水色の瞳は恐ろしく冷えている。まるで死の宣告でもされているような気分になった。
「す……」
 恭夜がすみませんと謝ろうとするのを、講師が遮った。
「お前の名は?」
 まずい、上司に苦情が行くと減棒になる可能性があった。恭夜の額には汗が浮かぶ。何か誤魔化せる方法はないかと、頭の中はそればかりだ。
「名前だ」
「い……幾浦……恭夜です。あのっ……俺……」
 美貌の講師は恭夜の瞳を射貫いてくる。その身体を突き刺すような視線に、口内に浮かんだ唾液を恭夜はひっそり飲み込んだ。
 非常にまずい状況に陥っているのは理解できた。他の参加者は、同情や自業自得と言った様々な視線をこちらに寄越してくる。中にはどのような処分が下されるのか、興味津々といった者達もいた。
「あ……あの……」
 ようやく働き出した思考が、今はとにかく謝罪をしろという判断をした。だが恭夜がそれらの言葉を口にする前に、美貌の講師が言った。
「……驚いたな。お前の輝きは私の目を眩ませるほどだ。なるほど。お前は私の運命の相手というわけだ」
 何言ってんだこいつ……と、恭夜が唖然としている中、美貌の講師はさらに言葉を重ねた。
「お前は今日この瞬間から私のものだ。この言葉、骨の髄まで理解するんだな」
 美貌の講師はクスリとも笑わず、恐ろしく冷えた表情のまま、そう言った。
 恭夜は床に転がった肉団子を拾うことも忘れ、ただ呆然とするばかりだ。だが会議室は女性達の悲鳴と、男達のどよめきが収まらず、講義は中止となった。
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