Angel Sugar

「「唯我独尊な男―零―1」 第3章

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 美貌の講師の名は、ジャック・ライアンと言った。
 百人もの目がある中で、彼は恭夜のことを『運命の相手』だと言ってのけたのだ。講義の一環としてアメリカンジョークでも飛ばしたのだろうかと、彼の告白を聞き流そうとしたが、違った。
 会議室から重箱を抱えて逃げ出した恭夜を追って、ジャックはいま背後にいる。彼は恭夜の背後に椅子を置き、足を組んで座っていた。痛いほどの視線を背に感じて、振り返るのが怖い。だから仕事に集中することで、なんとかその存在をないものとして扱っているのだが、CSIの部署はいま大型台風が訪れたような混乱状況に陥っていた。
 周囲から同僚が消えた中、機材に向き合っている恭夜のもとにキャリーがやってきた。彼女はいつもどおり笑顔だったが、珍しく緊張が感じ取れた。
「……ねえ、キョウ。どうしてライアンさんがうちの部署にいて、あなたを睨んでいるの?」
「俺が知るか」
「あなた何かしたの?」
「講義中……べ……弁当食った」
「何やってるのよ。そんなの後で食べたらよかったじゃない」
「弁当が温かいうちに食いたかったんだよ」
「冷えても食べられるのが弁当の利点じゃなかったかしら」
「どっちの味方だよ!」
「敵味方の話じゃないでしょう」
 確かにそうなのだが、わずかな時間の間に、どこから調べたのか知らないが、見知らぬ相手から殺人予告のメールまで来ているのだ。敵味方と分けて考えてしまうのは仕方がないことだろう。
「あの人、キョウに告白したって聞いてるんだけど……本当なの?」
「知らねえよ」
「もうずっと私の携帯に状況を教えろとがんがん入ってきてるんだけど……。当事者のキョウのもそうじゃないの?」
「電源切った」
「珍しく利口じゃないの」
「うるせえ……」
 状況を知りたいのは恭夜の方だ。
 けれどジャックに直接訊ねるのも怖くて、視界から意識的に存在を消しているのだ。本当にさっさと帰って欲しいのだが、何故そこにいて恭夜を睨んでいるのか分からない。
 恭夜はジャックという男に出会ったのも、彼のことを知ったのも今日が初めてだ。なのにどうして彼は恭夜に告白するのだ。
 きっとこれには何か恐ろしい裏があるのだ。彼はFBI行動科学科の秘密の実験に付き合わされているのかもしれない。そう考えるしか、恭夜には今の状況を飲み込めないのだ。
「直接理由を聞いてみなさいよ」
「怖いこと言わないでくれよ」
「じゃあ、ずっとあそこに座って動かないわよ」
「目的を果たしたら帰るんじゃねえの」
「目的ってなんなのよ」
「だから知らねえって」
 知っていたらさっさと恭夜だって話している。
「だからそれを聞いてきなさいよ」
「キャリーが聞いてくれよ」
「嫌よ。だって話しただけで彼のファンから脅迫されちゃうもの」
「……」
「ボスもライアンさんが怖くて、入ってこられないみたいよ」
 チラと硝子向こうでこちらの様子を窺っている人波の中に、オランドの姿があった。心配そうにしているが、だからといってここに入ってくる様子はない。
 みなジャックに関わるのを避けているのだろう。
「私はみんなから拝み倒されたから、キョウのところに代表で来たんじゃない。彼が居座るとここの機材が使えないのよ。仕事が滞っているわけ」
「そんなこと言われても……」
「キョウが休憩室に移動してみたら? 彼も付いていくんじゃない?」
「……お……俺を追い出すのか? 休憩室で何しろっていうんだよ。あの人と顔をつきあわせて話をしろってか?」
「それもいいかもね」
「嫌だよ、俺」
「いいから残りの弁当を食べてきなさいよ」
「……あとでいい」
「キョウ一人の仕事が遅延するのと、みんなの仕事が遅延するのと、どっちがましだと思う? 被害の差は明らかよね」
「俺が出て行ったらあの人もついてくると思ってるのか?」
「もちろんよ」
「わ……分かったよ」
 恭夜は渋々引き出しから、風呂敷に無造作に包んだ重箱を取り出すと、ジャックの脇を通り過ぎて通路に出た。肩越しに振り返ると、その時点ではジャックはまだ椅子に座ったままで、立つ様子はなかった。
 これは恭夜に用事があったわけでなく、誰か別の人間を待っているのだ。そう思い込むことでジャックから逃げ切ろうとした。
 だが恭夜の希望に反して、ジャックはついてきたようだ。実際には恭夜はそれを振り返って確かめてはいない。ただ周囲の視線が恭夜の背後に向けられていて、女性職員は上気した顔で、男性職員はニヤニヤとしているおかげで、分かったからだ。
 恭夜はぎくしゃくした動きで休憩室に入ると、そこでくつろいでいた職員が一斉に視線をこちらに向けた。
 恭夜を見ているのではない。その背後に立つ男に注目しているのだ。
 乾く暇もない冷や汗を額に、恭夜は自販機でミネラルウォーターを買い、空いていた真ん中の席に座った。いつもは端に座るのだが、そんなところを選んだら、ジャックに追い詰められる気がしたから避けたのだ。
 一部の職員は気の休まることのない場から去って行った。けれど二人に興味を抱いた者は、席を移動して距離を取りつつ、聞き耳を立てているようだった。
 恭夜は重箱の包みを解いて、それぞれ並べているところに、ジャックがやってきた。彼は何も言わず、恭夜の前の席に座った。
 恭夜は恐る恐るジャックに訊ねた。
「あ……あの……俺になんの用ですか? どうしてついて回るんです?」
「キョウと呼ばれているのか」
「え……あ。はい。そうですけど……」
「そうか。なら私もそう呼ばせてもらおう」
「構わないですけど……」
 恭夜は質問したはずなのだが、それに対する答えはどうなったのだろう。まだ聞いていないはずだが、恭夜が聞き逃したのだろうか。
 ジャックは相変わらず恭夜の動きを目で追っていて、箸で掴んだかまぼこをじっと見つめている。もしかすると彼は恭夜ではなく、この重箱の弁当が気になっているのかもしれない。いや、そうあってほしいという恭夜の希望だが。
「……よかったら少しいかがですか? 結構量があって俺も食べきれない……し……?」
 ジャックはどういうわけか口を開けた。まさか、食べさせろという意味なのだろうか。
 恭夜が混乱している中、ジャックは「キョウから勧めたのだろう。早くしろ」と言った。けれどその行為は、大人同士であれば付き合っている相手に限定されるはず。それともアメリカでは恭夜の知らない習慣があって、これもそのひとつなのだというのだろうか。
「……え……でも……あの……」
「エビの天ぷらだ」
「わ……分かりました」
 何故か恭夜はジャックの要求通り、エビの天ぷらを箸で掴んで、彼の口に運んだ。ジャックは真顔で天ぷらを口で受け取ると、乾いた音を立てて咀嚼する。同時に、周囲から息をのむ気配と、恐ろしいまでの緊張感が休憩室を支配した。
「美味いな」
「そ……そうですか。どうも……」
 いや、俺は何をやってるんだと、自分のやってしまったことに恭夜はいまさら動揺していた。これは彼の講義を台無しにした罰であり、公開処刑なのだ。
「私もキョウに運んでやろう」
「えっ、いえ……けけけ……結構ですっ!」
「そうなのか?」
「は……はい」
 とにかく心から謝罪をするのだと、恭夜は続けて言った。
「あの……講義中に弁当を食って……すみませんでした。そのことでお怒りなんですよね?」
「誰が怒っているんだ?」
「ライアンさんがお怒りなんでしょう?」
「質問に質問で返すな」
「す……すみません」
「ジャックだ」
「え?」
「ジャックでいい」
「はい。ジャックさん」
「ジャックだ」
「じゃ……ジャック……さ……」
 ジャックは不満そうに目を細め、ジロリと睨んできた。その瞳の冷たさに、恭夜は思わず彼の望みどおりに名を呼んだ。
「ジャック」
 恭夜の言葉に満足したのか、ジャックは嬉しそうに微笑んだ。その笑みは驚くほど魅力的で、彼に興味などない恭夜にとっても、目が奪われるほどのものだった。
 けれどジャックに見とれている場合ではない。
「………………あ、あのう……お怒りでなければ、どうして俺についてくるんですか?」
「恋人の全てを知りたいと思うのは当然の行為だ」
「恋人? 誰がですか?」
「キョウのことだ」
「だ……誰の恋人なんですか?」
「私だ」
 強引で理不尽な言動に恭夜はとうとう切れた。
 恭夜はテーブルを両手で叩いて立ち上がると、ジャックを指差して怒鳴った。
「ちょっと待てよ。人が下手に出てるからって、勝手に話を進めてんじゃねえよ! 俺がいつあんたの恋人になったって言うんだ!」
 ジャックは恭夜の剣幕などまるで意に介さず、ゆるりとした動作で腕時計を見た後、口を開いた。
「三十分ほど前だ」
「それって、あんたが勝手に告白した時間だろう! 俺は了承してねえよな?」
「ならいま答えを聞こうか。だがこの場合、イエスしかないはずだが」
「……俺、あんたに会ったの今日初めてなんですけど。イエスなんて言うわけねえだろうが!」
「キョウ、これは運命だ。私は未だかつて運命など信じたことなどないが、お前に会って初めてその存在を認めた。私達は運命で結ばれている」
 ジャックは背筋が凍りそうなほどの笑みを浮かべていた。まるで悪魔に魅入られたような恐ろしさに、恭夜の声は震える。
「おっ、俺はそんな運命なんて知らねえよ。あんたが勝手にそう思ってるだけだろ」
「早速だが、引っ越しはいつにするんだ? 私は今日すぐにでも済ませたほうがいいと思うが」
「なんの話だよ」
「一緒に暮らすという話だ」
「誰と?」
「私だ。他に誰がいる」
「だから俺はあんたと付き合ってるわけじゃ……」
 恭夜の言葉はジャックの突き出された手の平に遮られた。彼はポケットから携帯を取り出し、耳に当てた。
 さすがに会話中口を挟むわけにもいかず、恭夜は仕方なしに待つことにした。その間もどうすれば彼の勝手な思い込みをやめさせることができるのか、そればかり考えていた。
 けれど肝心なところで会話が噛み合っていない現状にどう対処したらいいのか。
 ジャックが携帯を終えるのを待って恭夜が口を開こうとしたが、先手を彼に取られた。
「……すまないが仕事だ。この話はまた後にしよう。しばらく留守にするが、いい子で待っているんだぞ。ああ、その間に荷物をまとめておけ」
 ジャックはそう言って立ち上がると、優美に立ち去ろうとした。恭夜もつられるように腰を上げ、彼を引き留めた。
「ちょっと……待て……待てよ、おいって。ジャッ……!」
 彼の腕を掴んだ瞬間、逆に引き寄せられて、その勢いのままジャックと唇が重なった。その一瞬の間に、恭夜の舌は彼の舌に絡め取られ、腰が砕けそうな愛撫を口内に受けた。意識が戻ったときには、恭夜は腰を抜かして床に座り込んでいた。が、ジャックの姿はもうそこにはなかった。
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