Angel Sugar

「暴力だって愛のうち」 第1章

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 毎日の事ながら朝の通勤ラッシュはきついな……
 澤村戸浪はつり革を持ち直して小さくごちた。
 山手線の朝の通勤列車はいつものことながら満員だった。電車が蛇行するたびに中に乗っている人間もひとまとめに左右前後に揺れる。その動きに身を任せて戸浪はふと腰の辺りに何か触れるのに気が付いた。
 ?
 どうも揺れて人間が擦れているのとは違う。どう考えても人間の掌が撫で回している。
 痴漢か?
 戸浪は目を細めて細いフレームの眼鏡をかけ直した。
 全くこっちは肉付きの良い女性ではない。確かに外見は男っぽくは無い。武道をしていたときもやはり一番上の兄のような筋肉は付かなかった。それは弟の大地もそうであった。それは母親から遺伝したのだろう。髪の色も大抵最初会う人間に染めているのかと聞かれるくらい淡い色をしている。目も色素は薄い。だが母親に顔立ちが似たとはいえ、瞳は目尻が多少上に持ち上がっている所為で冷たい印象がある。逆に弟は母親そっくりだ。あんな顔立ちにならなくて良かったと戸浪は思う。男のくせに女のような大きな瞳は願い下げだ。
 それにしても最近は触ることが出来れば何でも良いのだろう。そう思いながら戸浪はムッとして触れてくる手首を掴もうと、自分の手をつり革から離し、後ろに廻した。
 馬鹿な痴漢だ、こちらは空手の段を持っている。それも黒帯だ。就職してからとんと練習をしていないとはいえ、物心付く頃から鍛えられたものはそう簡単に身体からは抜けやしない。こういう不届きな奴は縛り上げてやればいいのだ。
 戸浪は目的の手首を掴むと手加減無しに捻り上げた。
 ぼきっ
 鈍い音が鳴り、同時に男の絶叫が車内に響いた。
「いっ……ってええええええ!な、何すんだよお!」
 手首を折られた男は戸浪に向かってそう言った。
「痴漢行為をした男にはいい薬だろうが」
 叫んだ男に戸浪は冷たくそう言い放った。まあ確かに折れるとは思わなかったが、随分空手から離れていたので力の加減が出来なかったのだ。
「だっ……誰が痴漢だよ!おりゃ男だ!なんで男の俺が男のあんたのケツを触らなきゃならねえんだよ!ぐあ~いてえええ」
「そんなこと私が知るか。そんなに五月蠅くがなりたてるのなら次の駅で警察に付きだしてやる」
 ふんっと鼻息を付いて戸浪は言った。
「あ、あのなあ、おりゃ、あんたが折った手には本持ってたんだぜ!そんな手でどうやってケツを触れるっちゅーんだよ!」
 何?
 戸浪がそうっと足下を見ると確かに本が落ちていた。
 まさか間違った?
「俺が反対にあんたを警察に付きだしてやる!っくしょ!そんなことよりいてええっ!」
「……間違ったかも……」
「ま、間違いであんた人の手をおっちまうのかよ!」
 男は涙目でそう言った。
「とにかく降りて病院に行こう」
 慌てて戸浪はその男を連れて次の駅で降りた。そうして痛がる相手をタクシーに乗せ一番近くの病院に行くよう運転手に言うと、唸っている男に視線を移した。
 顔はまだ幼さが残っている。髪もついこの間散髪にいったような頭だ。スーツも身体にしっくりと合っていない。どうも社会に出たての新人のように見える。
 病院に着くとすぐに医者に手当をして貰い、病院から出る頃には昼を過ぎていた。
「あんたさ、間違いでもこんな事俺にして、済まないの一言で済むとおもってんのかよ」
 ジロッとこちらを見て男はそう言った。
「慰謝料がいるなら支払うよ」
 時計で時間を確認して戸浪は言った。
「慰謝料?そうだな病院代は払ってもらうけどよ、そんなことより俺はようやく就職が決まってこれからって時なんだぜ、それが、これだ。一人暮らしで毎日の生活だってまともにできなくなるだろっ!そういう責任はどうとってくれるっちゅーんだよ!」
「私にどうしろと言うんだ?」
 もう一度時計を確認する。今日は昼から会議だったのだ。一応会社には朝電話したものの、そちらが気になって仕方なかった。
「あんた、人のことこんな目に合わせたくせに、時間ばーっか確認して失礼だとおもわねえのか?」
「ああ、君は新人だからたいした仕事も無いだろうが、こっちは色々詰まってるんだ」
 そう言うと男はぎりりっと歯を食いしばった。覗く犬歯が人より長い。それを見、凶暴な犬を戸浪は想像した。
「俺は三崎祐馬。あんた名前は?」
「澤村戸浪」
「じゃあ戸浪、あんたおれんちに同居しろよ。当分俺の身の回りの世話をして貰うかんね」
 ニヤリと口元を歪ませて祐馬は言った。やはり犬歯が見える。
「はあ?」
 この男は何を言い出すんだ?戸浪はその言葉に絶句した。
「だってそうだろ?左ならまだしも、俺、右手を折られてるんだぜ。こんなんで掃除も料理も洗濯もできやしねえよなあ。だ~れの責任なんだろうなあ~」
 祐馬はギブスをはめた右手をさすりながらそう言った。
「……はあ~」
 目眩がしそうだった。
「同居だ。それがあんたを許す条件だ。それとも警察に行く?告訴してやってもいいよ」
 そこまで言われるともう祐馬の言うことを聞くしかないと戸浪は思った。本当に告訴をしようと思っているかどうか分からないが、そんなことになれば会社にも迷惑がかかる。「分かった」
「お~っし。じゃあ決まり」
 祐馬はそう言って戸浪の肩をポンポンと叩いた。
「で、どうするんだ?」
「どうするって、俺の住所はこれ、でもってあんたの名刺貰えるか?逃げられちゃ困るしさ」
 そう言うので、仕方なく戸浪は自分の名刺を差し出した。それを祐馬は受け取り、じいっと見つめている。
「へえ、笹賀建設の設計かあ~。あんたでかい建設会社で勤めてるんだなあ。それじゃあ告訴なんかされたらたまったもんじゃねえわな~」
 クスッと笑って祐馬は言った。
「……そうだな」
 えらい災難に遭ってしまったと戸浪は気落ちしながらそう言った。
「じゃあさ、俺、七時には帰ってくるから、あんたその頃位にうちに来いよ。そんとき合い鍵を渡すからさ。で、とりあえず一緒に暮らすのに必要なもんもってこいよ。今日だけ帰すけど、当分自分の家にはかえれねんだからなあ~」
「分かった分かった。何度も言うな。七時だな。じゃあここで失礼させて貰うよ」
「おう。んじゃな。俺も会社に行かなきゃ~」
 そうして戸浪と祐馬はそこで別れた。



 結局残業し、一旦うちに帰宅した。そして、とりあえずの着替えなどをバックに詰め、戸浪は祐馬に渡された住所に向かった。
 何て災難だ……。
 地下鉄に揺られて戸浪は今日何度目か分からない溜息をついた。あの男は痴漢ではなかった。本当の犯人は一体誰だったんだ。そいつの所為だと戸浪は今頃ほくそ笑んでるであろう犯人に怒りを覚えた。
 だが、こうなってしまったなら仕方ない。当分あの男の面倒を見るしか無いのだ。
 そんなことを考えているうちに戸浪は祐馬のマンションに着いた。なかなか見栄えの良いマンションだった。結構な家賃だろうなあと思いながらエレベーターに乗った。
 渡された紙に書いている105号室にくると戸浪はインターフォンを鳴らした。暫くすると勢い良く玄関の戸が開けられた。
「逃げたのかと思った」
 そう言った祐馬は既にパジャマを着ていた。だが、ボタンを掛け違えている。やはり右手が使えないと言うことは不便なのだろう。
「ボタンが全部ちぐはぐだな」
「おい、来ていきなりそれかよ?これもお前の所為だろ。ま~いいけど。俺まだ飯食ってねえんだぞ。さっさと上がって何か作ってくれよ。いや、まずボタンをちゃんと付けてもらおうっと」
 そのわがまま放題の言い方にムッときたが、あちらが腹を立てるのも仕方ないことだと戸浪はぐっと堪え、言われたとおりにパジャマのボタンをきちんとかけてやった。
「夕食を買ってこなかったのか?」
 遅くなったことで、祐馬は夕食を買いに出たかもしれないと少し期待して来たのだ。
「俺は自炊主義なの」
 それは場合によるだろう。
「だが私はそれほど料理は上手い方じゃ無いぞ」
 溜息をつきつつ靴を脱いで玄関を上がった。
「食えりゃなんだっていいさ。あ、食費とかお前も出せよ」
 妙に嬉しそうに祐馬はそう言った。
「ああ、分かっている」
 戸浪はそう言って玄関から見える部屋へ視線を巡らした。男の一人暮らしにしては広すぎるマンションだ。部屋数も多い。
「高そうなマンションだが……新人のお前に払えるのか?」
「うっせーな。ここは姉貴と義理の兄さんの家だよ。兄さんが海外転勤してここが空いたから俺が借りてんだ。三年は帰って来れないらしいからな。姉貴達買っていきなりだったし、空けとくと傷むだろ。だから俺が面倒見てるって訳だよ」
 バリバリと頭を掻きながら祐馬は言った。
「ほお、ラッキーだったんだな」
「だから、そんなのどうでも良いんだよ。今日は冷蔵庫のもん何でも使ってくれて良いから、さっさと飯作ってくれよ。俺腹減って死にそうなんだ。あ、今度から買い物して来てよ。それ済んだら洗濯ね」
 ニコリと笑ってそう言った。
「分かった分かった」
「あ、飯は炊いてあるから」
 祐馬はそう言うだけ言うとさっさとリビングへ引き返し、先程まで見ていたテレビを又見だした。戸浪は仕方無しにキッチンに入り冷蔵庫を開ける。
 さて、どうしたもんかな?
 食えりゃなんでもいいと言っていたが、はっきり言って戸浪は料理が下手なようだ。というのも自分では食べられると思うのだが、家族の人間誰一人として戸浪に料理の手伝い等させなかったのだ。もっぱらその役目は弟の大地がこなしていた。
 昔に、一度両親が旅行に行き、留守にしたことがあった。そのとき早樹は既に海上自衛隊に入り家にはいなかった。弟の大地も部活が忙しく料理など作る暇が無かった。戸浪は仕方無しに自ら包丁を握ったのだが、その出来た料理を大地は一口食べて「兄ちゃん、今度から俺作るから」と言ってそれ以来作らせてくれなかった。
 自分の料理はまずいかもしれない……そのとき戸浪は思ったのだが、味覚音痴なのか、まずいのかどうかも分からない。これでも大抵のものを作れると自負はしているのだが、ことその味だけは味見をしても良く分からないのだ。それというのも自分は美味しいと思って食べられるからだ。
 まあいい。奴が作れと言ったんだからな。
 戸浪は祐馬が右手が不自由なのを考慮して、シチューでも作ろうと思った。それならば左手でもスプーンですくえるだろう。
 ジャガイモをいくつが握って戸浪は夕食を作り出した。

 料理が出来上がり、戸浪はスープ皿にシチューを入れ、同時に作った野菜サラダをトレーにのせた。あと、炊きあがった御飯をよそい、御茶をのせてリビングに運ぶ。それを見た祐馬が嬉しそうな顔をして立ち上がった。
「腹減った~」
「味は保障しないぞ」
 それは真実だ。だが祐馬の方は戸浪が謙遜したと勘違いしているようであった。
「すげー旨そうじゃんか~あんた料理上手いんだ」
 言いながら祐馬は椅子に座って左手にスプーンを持った。その前に皿を並べてやる。
「な、先に食って良い?」
 戸浪が自分の分を並べていると祐馬は待ちきれずにそう言った。
「ああ」
「んじゃ、いただきます~」
 祐馬はシチューをすくったスプーンを口に入れた。自分も食べようと席に座って戸浪はスプーンを持った。
「なあ……」
 顔を上げて祐馬はそう言った。
「なんだ?」
「お前のかせ!」
 そう言って戸浪の分の皿を取り上げると、スプーンでシチューをすくってそれを祐馬は口に入れた。
「私の分まで食べるつもりか?沢山あるんだからまず自分のを片づけろ」
「あんたのも同じ味だ。俺のだけ意地悪したんじゃねんだ……」
「何のことだ?」
 祐馬が何を言いたいのか戸浪は分からずにそう言った。
「これ人間のくいもんじゃねえぞ!こんなの詐欺だ!」
 スプーンを投げ出して祐馬は突然そう叫んだ。
「何が詐欺だ。お前が作れと言ったから作ったんだ。それに対する苦情は聞けん」
 言いながら戸浪は祐馬が奪った自分の皿を取り返してそれを食べ始めた。
「こんな料理なんで食えるんだよ!お前おかしいんじゃねえのか?俺こんなの毎日出されたらしんじまうぞ!」
「勝手に死ねっ!」
 人が折角作ったものに対して死ぬとは何て事を言うんだと、腹立ちながら戸浪はそう言った。 
「まともな料理作れ!」
 もう料理に手を付けずに祐馬はそう言った。
「これが私にとってまともだ!これでも毎日自炊してるんだからな!その私が生きているんだから死にはしない」
 ムカムカとしながら戸浪は言った。
「あんた……どっかぜってーおかしいよ。こんな味、宇宙人だってくえねえぞ」
 そこまで言われて戸浪はぶちぎれ、目の前で叫び廻っている祐馬の頭を殴った。
「何するんだよ!本当の事言っただけだろ!」
「いい加減にしろ!作れと言ったのはお前だ!それがお前に合わないからと言って文句は聞けない!嫌なら食うな!」
 立ち上がって戸浪がそう言うと、祐馬も机に両手で机をバンッと叩いて言った。
「俺にあわねえんじゃねえ!てめえの料理なんざ誰も食えねえって言ってるんだよ!こんなの豚だって食わねえよ!ばっかかお前!」
 当然とばかりに言われて、戸浪はもう一度祐馬の頭を殴った。
「ボカボカ俺の頭殴りやがって!俺の頭はカボチャじゃねんだぞ!」
「豚も食わない料理を食べている私は豚以下か!」
「豚以下って言ったらちゃんとしたの作れるのかよ!」
 そう祐馬が言うと暫く戸浪はにらみ合い、次に溜息をついて机に並べたものを片づけだした。
「そうそう、ちゃんとしたの作ってくれよ」
 椅子にふんぞり返って座った祐馬をちらりと見て、戸浪は作ったものを全部捨てた。鍋にかけていた残りのシチューも全て流しに流した。
「お、おい!」
 その行動に驚いた祐馬は椅子から立ち上がってキッチンに走り込んできた。
「食えないものは捨てるしかないだろう。茶漬けでもして食え。もう私は作らない」
「へそ曲げるなよ。本当の事言っただけだろ。ちゃんとしたもの作ってくれりゃ俺文句いわねえんだぜ」
 それは祐馬にとって精一杯の慰めの言葉なのだろう。だが祐馬は分かっていない。今作ったのが戸浪にとってちゃんとした料理だったのだ。それ以外にどう作れと言うのだ?
「別にへそを曲げている訳じゃない。ただ、どうして家族が私に料理を作らせてくれなかったかという理由をようやく知っただけだ。それが分かっただけでも今後の為に役に立つ。私は二度と人の為に料理を作らない」 
 水道の水を流しながら戸浪は言った。その流れる水は勢いがあり、戸浪にも跳ねてかかった。
「それがへそ曲げてるって言うんだよっ」
「誰だって豚も食わない料理を出されたく無いだろう。それだけだ。そんなことより、洗濯物は?」
「あんた、可愛くないな……」
「女じゃないからな」
 戸浪が振り返ってそう言うと、祐馬はやれやれという表情をして「洗濯物はここを出てすぐの左の扉を入ったバスルームだよ」と言った。戸浪はそれを聞くとさっさとバスルームに向かった。
 バスルームに置かれている籠には一杯洗濯物が入っていた。
「あいつ……普段からためまくってたんじゃないか」
 先程の事と一緒になって怒りは頂点まで来ている。いくらこちらが悪いとはいえ、あそこまで言われなくてはいけないのか?
 苛々とそんなことを考えながら、戸浪は洗濯物をより分けて洗濯機に放り込んだ。そして洗剤をぶち込み、蓋をバタンと力任せに下ろした。
「こんな事が毎日続くのか……悪夢だ……」
 ゴウンゴウンと洗濯機が廻る音を聞きながら戸浪はその場に座り込んで呟いた。
 それにしても……と戸浪は思った。自分の料理は本当に不味いのだ。今まで全く気が付かなかった。どうして家族は誰も戸浪にそれを教えてくれなかったのだ?教えてくれていたらここまで恥をかかされることは無かったのだ。
 確かに美味しいとは思わなかった。だが豚も食わないといわれるほど不味いとは知らなかったのだ。自分はそんなものを毎日食べていたのか?もしかして味覚音痴というものなのだろうか?
 そうなのだろう。味覚音痴なのだ。確かに何となくそうだろうとは思っていたのだ。何を食べても美味しいとか不味いとか感じたことは無い。会社で忘年会や新年会などで食べに出かけても、こんな物なのだろうと何時も思っていたが、実際は自分に味が分からないからだったのだ。
 はあ……。今朝から習慣のようになっている溜息が出た。
「おい、何やってるんだよ。お前もそろそろ着替えて寝る準備しろよ」
 座り込んでいる戸浪に祐馬が扉を開けてそう言った。
「そう言えばいくつだ?」
 戸浪は立ち上がることもせずにそう言った。
「あ?俺?二十二だよ。あんたは?」
 やっぱり年下だ。
「私か?私は二十五だ」
「ふうん。俺の姉貴と同い年か~ってそんなことどうでもいいか。そいやあんたの寝るところなんだけどな、余分に布団が無いから同じところで寝ることになるけどいいか?まあキングサイズだから別にせまかねえから安心してくれたら良いけど……」
 ってお前、姉夫婦が寝ていたベットで寝られるのか?と戸浪が呆れながら祐馬を見たが、本人はちっとも気になっていないようだった。
「私はソファーでいい」
「あ?もしかして姉ちゃん達が寝てたと思った?ここには姉ちゃん達一回も住んでねえよ。ようやく住めるようになって転勤が決まったんだ。だから未使用」
 ニヤと笑いながら祐馬は言った。その一言で戸浪は滅多に赤らめない顔を赤らめた。
「……そうか」
「あれ……あんた顔赤いぜ。ははっ。あんたその方が可愛いぜ」
 祐馬はそう言って笑った。
 口調はぞんざいだが、祐馬の性格は大らかな気質と戸浪は見た。すぐ子供の用に怒鳴るが、もめたりしたことを引きずるタイプでは無いのだろう。
 寝るとすぐ忘れる、ものすごく羨ましい性格なのだ。
「と言うわけで当分一緒に寝ることになるけど、ま、男同士だし別に構わしねえよな」
「ああ」
 戸浪はそう返事をして立ち上がった。
「だが、洗濯物を干してからだ」
「んじゃ俺寝るわ。あんたもさっさと寝ろよ。寝室は斜め前の扉の部屋ね。お休み」
 あくびをしながら祐馬はそう言って去っていった。
 戸浪はそれを見ながら肩を竦めた。

 翌朝、戸浪が目を覚まし、隣を見ると祐馬はまだぐっすり寝込んでいた。何の悩みも無いような顔で眠る祐馬が羨ましく感じる。
 戸浪は身体を起こし、ベットから降りると、朝食の準備をしにキッチンに向かった。パンを焼くくらいなら大丈夫だろうと思い昨日見つけた冷凍庫から食パンを取り出し、トースターに入れた。そうしてぐるりと見回し、コーヒーメーカーも見つけ、隣に置いてある豆を入れコーヒーも入れた。パンには冷蔵庫にあるジャムでも勝手に付ければいいのだ。
 そうして朝食の準備が終わる頃、祐馬が起きてきた。
「はよ……」 
 昨日は立っていた前髪が乱れて額に掛かっている。その所為か、子供っぽく見える。
「パンは焼いただけだ。勝手にジャムでも付けて食え。コーヒーも自動で入る。私が作るものは食べられないだろうが、手を掛けていないものは食べられるだろう?」
 机に並べながらそう言うと、祐馬は困ったように言った。
「も~戸浪ちゃんは昨日のことまだ根に持ってるんだな……」
 戸浪ちゃんだと?昨日は戸浪と呼び捨てだったはずだ。
「だれが戸浪ちゃんだ!ちゃんづけなどするな!」
 又殴ってやろうと思った自分をぐっと押さえて戸浪は言った。
「だってよ。戸浪って名前なんだから戸浪ちゃんじゃねえの?呼び捨てって可愛くねえなあって考えてさ。なら戸浪ちゃんの方がしっくりくるじゃんか。俺の事も祐馬ちゃんでいいよ」
 当然だと言う風に祐馬は言った。
「よせ。私はお前より年上だぞ。ちゃんと澤村さんと言え!何がしっくりくるだ!」
 そう言うと祐馬は爆笑した。何がおかしいのだ?戸浪は堪えていたものがまた切れた。
 ばきっ
「あいって~!あんた、なんちゅー暴力男なんだよ!」
「貴様がくだらないことばかり言うからだ!」
「手、はええんだよ!」
 いや、普段はこんな事はないのだ。何時も冷静な筈だ。どんなことを言われても手を出したことはない。だが祐馬と話をしていると、思わず殴ってしまうのだ。祐馬は人の神経を逆撫でする天才なのかもしれない。
「五月蠅い。さっさと食え!こっちも出勤だ」
 祐馬の抗議を無視して戸浪は椅子に座ると、パンをほおばった。そんな戸浪にもう何も言わずに祐馬の方も座ってコーヒーを一口飲んだ。
「戸浪ちゃんは料理は下手なくせに、コーヒーを入れるのは上手いんだな」
 美味しそうにコーヒーを飲みながら祐馬は言った。その表情に戸浪は「戸浪ちゃん」と呼ばれたことを怒るに怒れなかった。
「良かったな」
「でもさ、マジ、夕飯どうするよ。俺こんなんで料理出来ねえし、総菜ばっか買ってくるのって金かかって仕方ないぜ」
 別に戸浪の料理が下手なことを責めるのではなく、だからどうしたら一番いい方法かと祐馬は考えている。それもそうだと戸浪は思った。どうにもならないことをぐだぐだ言われてもこちらもどうしようも無いのだ。
 そう言う意味で戸浪はちょっと祐馬を見直した。
「このパンの様に手を掛けなくても食べられる献立を考えれば良いだろう」
 焼くだけのものなら大丈夫な筈だ。戸浪はそう思ったのだ。
「そうだなあ……。焼き魚とか、焼き肉とかそういう物だったら、焼くだけだもんな。そんなもんまであんな味になったら、逆に戸浪ちゃんを褒めてやるぜ」
 かはははっと笑って祐馬は言った。
「だから戸浪ちゃんは止めろ」
「いいじゃんよ。可愛いじゃん。戸浪ちゃんって」
 戸浪はムッとしたが、この男は何を言っても聞かないだろう。
「そうだ、合い鍵渡しとかなきゃな。これ、持ってろよ」
 言って祐馬は鈴の付いたキーを戸浪に手渡した。それを受け取り戸浪はポケットに閉まった。
「あ、食ったら戸浪ちゃんさ、俺の着替え手伝ってくれよ。一人でシャツきれねえんだよ。昨日脱ぐにも無茶苦茶苦労したんだぜ」
「分かっている」
 戸浪はそう言ってもう一枚パンを口に運んだ。
「でさ、俺、簡単に手え折られちまったけど、もしかして戸浪ちゃん、合気道でもやってるのか?」
「空手だ」
「へえ……似合わないないなあ……どっちかっていったら、合気道っぽいけどな」
 五月蠅い、五月蠅い、うるさーーーいい!!
 どうしてこの男は朝からベラベラと機関銃の様にしゃべることが出来るのだ!戸浪は低血圧なのだ。その上、しゃべりな男は戸浪が一番毛嫌いするタイプだ。そうであるから今、受け答えしているだけでもかなり疲れることだった。
「いい加減口を閉じてくれないか?」
 ジロッと睨んで戸浪は言った。
「なんでよ戸浪ちゃん。仲良くなるためには、こうやってコミュニケーションって取るもんだろ?」
「貴様と仲良くなんぞなりたくなどないわ!」
 バンッと机を叩いて戸浪は言った。
「うっわ~恐い~もしかして戸浪ちゃん、生理前?」
 カーーッと頭に血が昇った戸浪は今度は平手打ちを食らわせた。
「何が生理だっ!私に生理が来たら、お前にも来るぞ!」
「あてててて……はははははっ。それおもしれえ~」
 平手打ちは堪えないようだった。今度からはやはり頭を殴ろう。戸浪はフッとそう言うことを考えた。
 それにしても……
 この男と話をしていると、こっちはペースを乱されっぱなしになってしまう。戸浪はそう思って自分の食べ終えた皿を持ち、さっさとキッチンへと向かった。
「くだらんことばかり言わずにさっさと片づけて、着替えるんだな」
 皿とカップを洗いながら戸浪は言った。その横から自分の皿を祐馬は左手で戸浪に渡した。
「わりい、俺の分も頼むな」
 一応断って渡してくるということは、少しはありがたいと思っているのだろう。
「ああ、ここは良い。だから自分で着替えられる所まで着替えてろ」
 戸浪がそう言うと、祐馬は「お~」といって着替えに寝室へ戻っていった。
 片づけを終えて、戸浪が寝室に入ると祐馬は床に転がっていた。シャツと格闘して、どうもバランスを崩して倒れたのだろう。シャツは一応肩にかかってはいるが、どうもギブズをはめた手が袖を通らないようだ。それでも、寝ころんだまま無理矢理袖に通そうとしている姿に戸浪は思わず、ぷっと笑ってしまった。
「笑うな!これでも努力してるんだぜ。だいたいな、戸浪ちゃんが俺の手を折らなきゃこんな事にならなかったんだからな!ったくも~俺は営業だから良かったものの、これで戸浪ちゃんみたいに設計引いてたら仕事にならなかったぜ」
 じたじた手を振りながら祐馬は言った。
「どう考えても通らないだろう。ギブスの方が直径が大きいからな」
 昨日は病院でシャツは脱がされたのだ。
「くそ……いくら俺でも裸で職場には行けねえぞ」
 こちらを責めるわけでもなく、純粋にどうしようかということだけ祐馬は悩んでいる。そんな姿に戸浪は申し訳ないことをしたと、本当に思った。
「長いシャツを着ようとするから駄目なんだ。ちょっと早いが、半袖の横を切って手を通せば良い。スーツの上着は若干幅が広いから何とかなるだろう。上着さえ脱がなければ、切った部分は見えない筈だ」
「そうだな……そうするよ」
 パンツ一枚で座り込んで祐馬が言った。
「悪い、そっちのタンスの一番上に夏物のシャツが入ってる筈だからちょっと出してくれない?」
「ああ、一番上だな」
 戸浪はタンスの一番上に入っている夏物のシャツを取ろうとすると、祐馬はパンツ一枚で寝室を出て、すぐに帰ってきた。
 手にはハサミを持っている。
「ちょっとこれで切ってよ」
 言われるままに戸浪はハサミでシャツの袖の部分にハサミを入れた。
「こんなものだろう……」
 戸浪は切ったシャツを祐馬に羽織らせ、手を通すのを手伝い、祐馬は何とかシャツを着ることが出来たようだった。次に靴下をはかせ、ズボンをはかせた。
「なんかさ、俺と戸浪ちゃん新婚みてえだよなあ~」
 へへへへと笑う祐馬に戸浪は拳を飛ばした。
 戸浪は朝からどっと疲れてしまっていた。



 会社に出社すると戸浪はこの間からずっと付きっきりの図面を前に眉間に皺を寄せた。何度見積をつくりなおしてもなかなか値段が下がらない。
「よ、どう?値段下がるか?」
 営業の川田はそう言って戸浪が睨んでいる図面の前に座った。
「……技術の方と購買の方からもこれ以上は無理だって言ってきてるぞ。こっちもこれ以上コストを落とすのが難しい」
 ふうと息を吐いて戸浪は言った。
「なんだよ~あと五千万は下げてもらわないと安心して競合出来ないね」
「五千……五百万の間違いだろ?談合はどうなってるんだ?今回はうちの番だろうが?」
 大手建設会社は大抵大きな物件では談合といって各社次に何処の会社が取るのかを順番で決めているのだ。犯罪なのだが無ければ無いで、大きい物件が全て一社独占になってしまう。それを回避するためにもある意味必要なものであった。そこに裏金が絡むから問題なのだ。順番を決めるだけならそれほど問題になるとは思えない。
「だったんだけどな、今回施主が、ほら外資系だろ?全部の建設会社をまとめることが難しいんだよ。官庁物件なら最低金額が大抵流れてくるんだけど、外資系はやすけりゃいいって所があるからな。とりあえずまとめられる建設会社にはうちが取ることは了解を貰っているんだが、そこにはいっていない建設会社もあるから気が抜けないんだよ。だからどうあってもこれ以上は下げられないって言う金額まで下げたいんだ」
「営業さんは良いですよ。下げろって言うだけで済むんだからな……」
「はは。悪いと思ってるよ。だからこうして謝ってるんだよ」
 悪びれない顔で川田は言った。大抵の物件を必ず取ってくる川田にすれば、設計まで訪れてこう言ってくるのは珍しい。余程この物件を取りたいようだ。
「こっちは限界だ。仕方ないからCDで業者に泣いて貰え。まあ、大きな物件だから、それなら何とかなるだろう」
 戸浪はここまで来たらこれしか無いと言う風に言った。
「だな。俺部長に言ってくるよ」
「川田、珍しくこの物件に執着してるな」
「俺入社してからずっとこれ追っかけてきたんだよ。ようやく計画が本格的に始動したもんだから絶対取ってやるって思ってな。だから俺の入社時の夢を叶えてくれよ」
 そう言って川田はウインクをして営業部へ戻っていった。
 夢ね……
 羨ましいことだと戸浪は思った。戸浪には別に夢など無いからだ。働ければそれでいい。毎日平穏に暮らせたらいいと、若いくせにじじくさいことしか希望として無かった。今もそうだ。別にこの物件も取れたら良いと思うくらいで情熱など無い。
 冷めているのだ。全てのことに。人生はなるようにしかならない。逆らっても決まった方向にしか人間は歩けないものなのだ。
 戸浪は三人兄弟の真ん中に生まれた所為で、弟にも兄にもならなければならなかった。時には兄のお古で我慢させられ、時にはお兄ちゃんでしょうと言って諦めさせられた。だからいつの間にか耐えることが苦痛では無くなったのだ。
 図面のことも心配であったが、今の一番の問題は夕飯のことだった。今日も遅くなるだろう。全く携帯番号を聞いておけば良かったと戸浪は思った。
 さっさとあの手が治ってくれないものかと、昨日今日に治るものでは無いのに戸浪はそう思ってしまう。
 まあ、これも仕方ない。人生長いのだからたまにはこう言うこともあるだろうと戸浪は思った。
 既に戸浪は今の状況を仕方無しに受け入れていたのだった。
 


 戸浪は結局十時すぎに帰宅した。これほど遅く帰ってきたのだから、今度こそ先に帰っている祐馬が何か買ってきてくれていると思ったのだが、それは大きな間違いだった。
「え、何も買ってきてないのか?」
「何で戸浪ちゃんこんなに遅いんだよ」
 祐馬は不機嫌そうにそう言った。
「こっちは残業なんだ。お前みたいにさっさと帰られる新人じゃない」
 靴を脱いで戸浪はそう言った。
「お前とか貴様とか止めろよ。ちゃんと祐馬って名前があんだからさ。祐馬ちゃんって呼んでくれよ。したら許してやる」
 と、言ったので、戸浪はボコッと頭を殴った。
「いい加減にしろ」
「あ~の~な~俺の頭は木魚じゃねえぞ。ぼこぼこ殴ったら変形して馬鹿になっちまう」
「カボチャの次は木魚か、なかなか良い表現をするな」
 キッチンに向かって歩きながらそう戸浪は言った。すると後ろから付いてくる祐馬が「くそお」と小さく言っているのが聞こえた。
「だが、どうするんだ。何を食べるつもりだ?」
「あんたが献立考えてくれる筈だろ」
 何時決まったのか分からないことを当然の如く祐馬は言った。
「……はあ……」
 全く悪夢としか言いようが無かった。
「洗濯物は何とか取り込んだんだから、ちゃんと食えるもの作ってくれよ」
「善処するよ」
 戸浪はそう言って冷蔵庫を覗き込んだ。すると豚肉があった。野菜室には白菜もある。
「鍋あるか?豚しゃぶでもするか?これならポン酢で食べる物だから味付けはいらないだろう?」
「あ、それいいねえ。戸浪ちゃんと鍋つつくのもなかなか楽しそうだなあ」
「……だからその戸浪ちゃんは止めろ」
 いい加減その呼び方を止めて欲しいのだが、祐馬は一向に止める気配はない。
「いいじゃんか。俺がなんて呼ぼうともさ」
「鍋は何処だ!」
「怒鳴らなくても良いだろ。ったくも~どうして、いちいちカリカリした物の言い方しかできねえのかなあ。ニッコリ笑ってりゃ可愛いのによ」
 戸浪が殴ってやろうと拳を上げると祐馬は既に取り出した鍋で頭を押さえてパッと飛び退いた。
「この暴力男!」
「お前がいちいち腹の立つことばっかり言うからだ」
「なんでよ、笑ったら可愛いってほんとのことだぜ。ったく年がら年中良くまあそんな無表情な顔でいられるよな」
 毎日など見てもいないくせにこの男は何を言うんだと、戸浪はムッとしたが、ガキ相手にいちいち反応するからあちらも面白がって色々言ってくるのだ。今後、相手にしなければ良いのだ。
 そう思った戸浪はもう何も言わずに祐馬から鍋を奪い取ると無言でそれに水を入れて火にかけた。
「あれ?怒っちゃった?やだな~おこんないでよ」
 こちらの顔を覗き込むように祐馬はそう言って来たが、それも無視した。
「今度は地蔵にでもなったつもりかよ。仕方ないからワンカップ大関でも買ってきて供えてやったら機嫌治るのか?」
 誰が地蔵だ!何がワンカップ大関だ!
 減らず口ばかり叩くこの男を誰か止めてくれ!と、戸浪は心の中で叫んだが、無視を決め込んだ。
「こわ~俺、風呂の用意してこよ~っと」
 祐馬はこちらが何を言っても反応しないと分かると、いそいそと風呂に湯を張るためにキッチンを出ていった。
 戸浪はようやくホッと一息を付いた。
 鍋に適当に野菜を入れて煮立ってくると、戸浪は簡易コンロを探したが見つからなかった。話をしたく無かったのだが、仕方無しにリビングでくつろいでいた祐馬を呼んだ。
「簡易コンロ?あったかなあ……」
 祐馬は台所の戸棚を開けまくってようやく簡易コンロを探し出した。
「うわ~なんかめっちゃくっちゃきたねえ……戸浪ちゃんこれ洗ってよ」
 ジロッと睨みながら戸浪は差し出されたコンロを取ると、布巾で奇麗に拭いた。
「んじゃ俺これあっちに持っていくな」
 そう言って祐馬はコンロを戸浪から奪うとそう言ったのだが、こちらは返事もしてやらなかった。
「……地蔵め……」
 小声で祐馬はそう言ったが、何とかそれも無視した。
 この手の挑発に乗っては駄目だと必死に戸浪は自分に言い聞かせたのだ。
「ちぇっ」
 祐馬は反応のない戸浪に呆れたのか、コンロを持ってあちらの机の所に歩いていった。
 ようやく食事の準備が出来、鍋を持っていくと祐馬は嬉しそうな顔をこちらに向けた。
「鍋だ~」
 既に祐馬の方が箸などそろえて置いてくれたために、鍋を置くとすぐに食べられる状態になっていた。
「俺、すげー鍋好きなんだ。誰かとつつくのって楽しいじゃん」
 と言って箸を左で掴んだは良いが、やはり左手では無理のようであった。
「……」
 ちょっと気落ちしたような祐馬に戸浪も可哀相に思ってしまった。
「ほら、皿をかせ。取ってやるから」
 そう言って手を出すと祐馬はパッと明るい顔をして皿を差し出した。
「やっぱり戸浪ちゃん優しいんだよなあ~」
「……分かった分かった」
 野菜や豚肉を入れてやり、祐馬に渡す。だが皿に入っていても食べにくそうであったので戸浪はフォークを持ってきて渡した。それで何とか食べられるようであった。
「お代わり~」
 満面の笑みで祐馬は空になった皿をこちらに差し出す。戸浪はその度に野菜や肉を入れて返した。
 奇麗に鍋を空にして、ようやく食事を終えた。戸浪は手の掛からない料理を考えるのも必要だが、左手でも食べられるものをその中に条件として入れないと駄目だと気が付いた。
 全く手間のかかる男だ。
 それは自分が悪い所為なのだが、時間が経つごとにどうも祐馬がわがままになってくるような気がして仕方ない。
 後かたづけをしていると祐馬が戸浪を呼ぶ声が聞こえた。今度は何だと思って声のする方に行くとバスルームからだった。
 先程ギブスのはまった手にビニール袋を被せて風呂に入ったのは確認したが、やはり問題があったのだろう。
 仕方無しにバスルームに入ると祐馬は頭を泡だらけにしていた。
「何の用だ」
「……シャンプー入って目が……いてええっ!上手く洗えねえんだよ!」
 目をギュッと閉じた顔も頭から垂れた泡でぐしゃぐしゃだ。これを見て笑わない人間がいたら教えて欲しいくらいだと戸浪は思いながら、珍しく大笑いしていた。
「わ、笑ってる場合かよ!いてえ……目、目に入って痛いんだよ!」
 手をバタバタさせて祐馬は言った。
「シャンプーハットを今度買ってきてやる」
 くくくと笑いの収まらない戸浪は言いながらシャワーで祐馬の頭を濯いだ。そうしてタオルを持ってくるとまず顔を拭いてやった。目からは涙を落としている。よっぽどしみたのだろう。
「痛かった……すげー痛かった。昨日は諦めたけど、今日はもう我慢できなかったんだ」
 戸浪からタオルを奪って左手で持つとごしごしと目を拭いた。
「背中も洗ってやるさっさと向こうを向いて座れ」
 そう言うと祐馬は素直にこちらに背を向けた。その背に泡立てたタオルを当てた。
「なんか気持ちいいなあ~」
 祐馬はそう言って喜んでいる。
「そうか、良かったな」
「……あ……」
 祐馬は小さく叫んだ。
「何だ、まだ目が痛いのか?」
 戸浪が後ろから覗き込もうと、祐馬の肩越しに顔を向けると違うものが目に入った。
「馬鹿!見るなよ」
 祐馬は立ち上がった自分のモノを左手で隠した。
「おい、何故興奮するんだ?」
「知るかよ。最近ご無沙汰だったから、人に触られて反応しちまっただけだよ」
「私はお前のそんなものを触ってなど無いだろう!」
「触られなくても勃つものはしかたねえだろ!俺若いんだからさ!」
「……はあ。仕方のない奴だ。さっさと扱いてしまえ」
 戸浪は呆れたようにそう言った。
「……あのな、俺右手がこんなんでどうやってマスタベーションをしろっていうんだよ」
 ムッとした声で祐馬が言った。
「左手で出来るだろうが!」
「左手で俺はしない主義なんだ!」
「どういう主義なんだ!」
 訳が分からない!
「利き手ってやりにくいんだよ!うっせーよ」
「……怒鳴ってないでさっさと処理してしまえ!」
 バチンと背中を叩いて戸浪は言った。
「いてえんだよ!」
「そんなものおったてられてこっちは不愉快なものを見せられているんだ。さっさと萎ませろ」
「萎ませろって……あんたねえ……。あんたの所為で扱けねえんだよ」
「いちいち右手の事を言うな!だからこうやって面倒見てやっているだろうが!左手でやれ!」
 今度は頭を叩いてそう言った。
「んじゃ、あんた扱いてくれよ。右手で……」
 何故右手にこいつはこだわるのだ?
「左手でしろ!」
「俺は右手主義だ!今更それを変える気はねえんだよ!さっさと扱いてくれよ!」
 戸浪はその言い方に、どうせからかっているのだろうと祐馬の方を見た。からかっているのならもう一発二発殴ってやろうと思ったのだ。だが、祐馬の瞳は意外に真剣な目をしていた。
「……おい。その目は何だ」
 戸浪はここに来て初めて動揺した。
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